5.リフィル=コーレット
降り出した雨に打たれ、リフィルは、蹲って浅い息を繰り返す。
「お、ぇ」
竜界で発生した断界を任され、いざ任務を果たし、トリニティ外縁まで帰れたはいいものの。
個人転移門を出た直後、経験のない空腹に襲われて、その場から動けなくなってしまったのだ。
慌てて懐から携帯食料を取り出し、祈るような気持ちで口へ押し込むも。
「受け付けない……」
眼の前でなんとも言えない臭気を放つ吐瀉物に、いよいよかとリフィルは自嘲する。
胃を中心に、身体が内側からめくれ上がるような飢えと食人衝動だ。
ここが分水嶺。この衝動に身を任せてしまえば、自分は自分でなくなる。そして、二度と元に戻れないだろうという確信がリフィルにはあった。
(落ち着け。私が裁定者機関なら、ここまで症状の進行した超越者を野放しにはしない。連中が来るまで正気を保てれば、人を食う前に処分してくれるはず)
普遍的な超越者を対異形のプロとするなら、裁定者機関は対超越者のプロだ。
その性質から対人性能の高い異能使いで固められ、緊急時には司法を介さない処刑が許可されている、まさしく超越者にとっての死神。
(この気配……動き出したか)
トリニティ方面から大気を焼き焦がすような魂を感じ取り、十中八九、己へ差し向けられた死神だろうと当たりをつける。
これなら辿り着くまで数分とかからないだろう。即ち、この耐え難い飢えとの付き合いもあと少しであり――同時に、リフィルへ残された時間が残り僅かであることも示していた。
(結局、私を受け入れてくれる魂癒士は見つからなかったな……)
断界の発生率は年々上昇し、現役の超越者は多くが異形との連戦を強いられている。にも関わらず、その土台を支える魂癒士はまるで足りていない。必然、暴走の危険を孕んだ超越者も過去とは比較にならないほど増えてきている――が、いくら希少と言えど枯渇しているわけではない。
ましてやリフィルは、学生の身で実戦を任されるほどの実力者。手前味噌な話にはなるが、少ない魂癒士を優先的に回してもらえる程度に期待も実績も積み上げていた……しかし。
(私は、どうすればよかったんだろうか)
リフィルには、才能がありすぎた。
超越者の魂が発する気配は、魂を自在に扱えない一般人にとって強烈な不快感を伴う。
魂を知覚できずとも心胆から湧き出すその恐怖は、透明になった猛獣と同じ檻に閉じ込められる感覚に近いと聞く。
同じガワを纏っていようと、ヒトはヒトでない化け物を、鋭敏に感じ取ってしまうのだ。
平時であっても肉体から溢れ出すほど強大な魂は、リフィルを多くの窮地から救った反面、人を寄せ付けない呪いとしても機能した。事実――リフィルが最初に宛てがわれた魂癒士は、一度の治療を成功させることも叶わず『半壊』している。
(彼には、申し訳ないことをしたな……)
半狂乱で逃げ出した名前も知らぬ魂癒士を思い返し、やるせない気持ちで背中を丸める。
リフィルとてそれからの日々を、無為に時を過ごしていたわけではない。
己が魂と適応する魂癒士に出会うべく、萎えそうな心を叱咤して、立場も伝手も打てる手は尽くしたのだ。
残念ながらそれで見つかったのは、悲鳴を上げて去っていく人々と、各世界で奪い合いになるほど希少な人材は在野に転がっていないという、当たり前で残酷な現実だけだったが。
「ふーっ、ふーっ、ぐぅ……」
あぁ、強い波が来た。
蹲って、身体を前後に揺らすだけでは空腹の痛みをいなしきれない。
堪らず崩れ落ちるように横になり、丸まって膝を抱えると、震える手甲とレガースがガチガチと耳障りな音でぶつかり合う。視界の半分を埋める空は黒く、降る雨はただ冷たい。
「う、ぐっ……ぐず……」
勝手に、涙がでた。
最後に泣いたのなんていつだったかも思い出せないのに、最後の最後でそれは溢れた。
(わたしだって、頑張ったのに)
人を喰らう怪物と戦い、世界の綻びを修復する日々。
誰にも褒められず、守っているはずの人々から疎まれ、それでも歯を食いしばって絶え続けた日々に。
意味など、あったのだろうか?
誰にも看取られず、こんな場所で死ぬのだから。
別に英雄のように扱えなんて、過ぎたことは望まないから。
ただ一人、たった一人、自分を恐れないでいてくれたら。
戦い疲れた自分を、頑張ったねと抱きしめてくれたなら。
それだけできっと、私は世界を愛せたのに。
「……もう、いい。もう疲れた」
リフィルはそれだけ呟いて、固く眼を閉じた。
どうせ死ぬなら人を喰って死ぬ――そんな復讐心に身を委ねようにも、己の人を捨てきれなかったから。
最後まで自分を愛さなかった世界を視界から追い出すのが、リフィルにできる精一杯の反抗だった。
***********
妙だ。
リフィルが覚悟を決めてから、数分はとうに過ぎ去っていた。にも関わらず、裁定者機関がやってくる気配は一向にない。
よもや自分より優先度の高い問題が発生したのか―――
一瞬訝しんで、しかしその可能性は低いとすぐに打ち消す。リフィルとて高位の超越者であり、処分するなら正気を保っている今が絶好の機会。もし対応が遅れ、その結果暴走した超越者が人を喰らうようなことがあれば、発生する責任は個人で処理できる範疇を大きく超える。
少なくともリフィルの常識で考えて、暴走判定の出た超越者の処理が遅れていることは異常事態以外の何物でもなかった。
(何が、どうなっているんだ?)
魂の感知は不得手なリフィルだが、異形化寸前の今はかつてないほど感覚が研ぎ澄まされている。
いよいよ限界まで膨れ上がった食人衝動に精神力の大部分を持っていかれつつ、僅かに残ったリソースで感知範囲を広げてみれば。
(いや、そんな馬鹿な)
取得できた情報が余りにも荒唐無稽で、一瞬思考がショートする。
かなりのペースで移動していたはずの死神が、いつの間にか全く別の気配に足止めされているではないか。
燃え盛る裁定者機関の魂に対峙するは―――暗い、何もかもを飲み込んでしまうような、闇色の魂。
それが恐ろしい速度で飛び回り、息つく間もない衝突で相手を抑え込まんとしている。
リフィルを驚かせたのは、その尋常ならざる強さと、同時に漂う得体の知れなさ。
繰り返しになるが、裁定者機関の強さはお墨付きだ。超越者を狩る超越者が凡百より弱いようでは笑い話にもならない。よってその強さに疑いの余地はなく、彼らと一対一で渡り合えるような超越者など数えるほどしか存在しない。
当然そのような超越者は皆著名だ、リフィルも全員の名を労せず諳んずれる。しかし、闇色の魂はそのいずれにも当てはまらなかった。無論リフィルの知識も絶対ではなく、これほどの強者が表舞台に知られていない理由もいくつかは考えられるが……それを深堀りできるほど状況に余裕はない。
今はっきりしていることは一つ、このままでは間に合わなくなるということだけだ。
(意味不明すぎる、正気の沙汰ではないぞ……テロリストの類か? 行き過ぎた超越者至上主義? いや、穴だらけの推察だ。私が暴走したところで、首尾よくいっても被害は数百人程度。これほどの実力者がリスクを犯すほど、私に駒としての価値はない)
意味がわからない、理解もできない、情報が足りていない。
それでも、タイムリミットだけは刻一刻と迫りくる。
最悪、自死を視野に入れたタイミングで―――軋むほど食いしばった歯の隙間から、ぐぎ、と泡立った笑いが漏れた。
「ヴ、う、うらむぞ、闇色の」
死ぬタイミングがほんの少し先に伸びた、それだけの事で。
固めていた覚悟が崩れてしまった自分に、嫌気が差した。
(しにたくない……)
自分を騙すだけの精神力すら、飢えの抑え込みに注ぎ込んだからか。
聞く者が聞けば誹りを免れない言葉は、紛れもないリフィルの本心だった。
(ばけものにも、なりたくない……)
僅かに残されていた正気の糸が、限界を迎えてほつれていく。
自分だったものが、自分ではない『何か』へと急速に置き換わっていく。
ぐちゃぐちゃに撹拌された意識の中、伸ばした腕が雨晒しの空を掬い上げる。狂ったように浅い呼吸を繰り返す胸をもう一方の手で抑え、なんとか言葉を絞り出そうとする。
死への恐怖が。
自分が自分でなくなる不安が。
多くの人に迷惑を残していく罪悪感が。
走馬灯のように去来する感情の濁流にいて、しかし最後、全て押しのけてリフィルの口をついたのは、
「あい、あいされ、たい」
その台詞を最後に、リフィルの世界は暗転する。
闇の中――伸ばした手が『誰か』のぬくもりに触れた気がして、心にさざ波が残れども。
それが、強すぎる願いのもたらした錯覚だったのか。
あるいは別の……答えを出す暇は与えられず、リフィルの意識は闇に沈んでいった。




