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 会場に流れる優雅な旋律が、今はまるで私の神経を逆撫でするノイズのように聞こえる。

 私の目の前で、聖女セフィリアが、慈愛に満ちた(そして最高に目障りな)微笑みを浮かべて立っていた。


「エルフレイダ様。彼は……このヴァンさんは、あなたの道具ではありません。彼の魂を縛る権利は、誰にもないはずですわ」


 セフィリアの隣で、第一王子ライナルトが眉を寄せ、私を咎めるような視線を向けてくる。

「……エルフレイダ。君の執着は度を越している。学園は自由な学びの場だ。一人の青年を、君の嗜好品のように扱うのは感心しないな」


(出たわね、メインヒーロー共め……!)


 前世のゲーム画面で何度も見た、王子と聖女の「正論パンチ」

 普段の私なら「仰る通りです」と膝をつく場面かもしれない。または、二人の弱みを披露する外道悪役令嬢だったかもしれない。けれど、今の私の背中には、震えながらも私の服を掴んでいるヴァンの指先がある。

 彼らが救おうとしているのは、彼らが想像する「かわいそうな青年」であって、目の前にいる、傷だらけで、それでも私という毒に縋らざるを得ない「ヴァン・ルースター」ではない。


「……自由、ですか。殿下、そしてベルモンド準男爵令嬢」


 私はヴァンの腕をさらに強く抱き寄せ、扇を優雅に、けれど鋭く閉じる。


「彼が泥水を啜り、凍える庭で死にかけていた時、その『自由な世界』はどこにあったのかしら? 彼が誰からも名前すら呼ばれず、ただの使い捨ての駒として扱われていた時、あなた方の慈愛はどこで眠っていたの?」


 セフィリアの表情が微かに凍りつく。


「それは……。でも、今は私がいます。私が、彼の傷を癒しますわ」


「いいえ、必要ないわ。彼の傷跡を数え、そこに名前をつけたのは私。彼の絶望を買い取ったのも、私。……光しか知らないあなたに、彼の深い闇を『浄化』なんてさせない。それは、救済ではなく……ただの塗り潰しよ」


 私はライナルト王子に、公爵令嬢としての完璧な礼をして見せた。


「失礼いたします、殿下。……ヴァン、行きましょう。ここは『お花畑』すぎて、蜂が寄ってきそうですわ」


────


 夜会の喧騒を抜け出し、私たちは学園の裏手に広がる「静寂の庭園」へと逃げ込んだ。

 月明かりが、ヴァンの青白い横顔を照らしている。

 

 彼は一言も発さない。

 先ほどのセフィリアの言葉――「あなたは自由だ」という誘惑が、彼の心にどう響いたのか。それを想像するだけで、私の胸は焼け付くような不安に支配される。


「……ヴァン」


 私が名前を呼ぶと、彼はゆっくりと私を見た。その瞳には、今まで見たことのないような深い色が混ざり合っている。


「お嬢様。……先ほどの、聖女様の言葉は本当なのでしょうか」


(――っ!)


 私は息を呑んだ。

 ついにこの時が来たのか。

 彼は気づいてしまった。私という「加害者」の傍にいるよりも、聖女という「救済者」の元へ行く方が、ずっと真っ当で、幸せな人生が待っていることに。どう足掻いても私は『悪役』


「私は……自由なのですか? あなたを憎み、あなたの元を離れても、あの方は……助けてくれるのでしょうか」


 ヴァンの声は震えていない。それが余計に恐ろしかった。

 私は、彼の胸ぐらを掴むようにして引き寄せた。漆黒のドレスの生地が、夜の空気と擦れて不気味な音を立てる。


「……ええ、そうね。彼女ならあなたを光の中に連れて行くでしょう。あなたの傷を忘れさせ、あなたを『普通の人間』にしてくれる。……それが望みなら、今すぐあそこへ戻ればいいわ!」


 叫ぶ私の瞳から、自分でも驚くほど熱い涙が溢れた。

 

「でも、ヴァン。私は、あなたが憎んでいるその傷跡ごと、あなたを愛しているのよ! あなたが流した涙の色も、絶望で凍りついた心も、全部私のものなの! それを忘れさせて『幸せなモブ』にするなんて、私にはできない! 私は……私は……!」


 言葉が……言葉が続かない。

 私は、彼を幸せにしたいと言いながら、結局は自分の手元に置きたいだけのエゴイストだ。

 前世の知識を使って、彼が死ぬ運命を変えたかった。けれど、その代償として、彼に私という新しい「地獄」を強いている。


「……お嬢様」


 ヴァンの大きな掌が、私の頬に触れた。

 涙を拭う指先は、以前の凍傷で腫れていた時とは違い、温かく、そして確かな力強さがあった。


「私は、あの日、お嬢様に折られた剣を……今でも覚えています。……でも、今日。お嬢様が私のために剣を振るい、私のために世界と戦ってくれたことも、一生忘れないでしょう」


 ヴァンはゆっくりと膝をついた。

 それは怯えから来るものではない。

 騎士が自らの主君を選ぶ時に見せる、厳かな、そして絶対的な服従の形。


「聖女様の光は……眩しすぎて、私には見えませんでした。……私は、泥の中で私を見つけ、私を『私のままで』愛してくれた、あなたの影の方が……ずっと落ち着くのです」


 ヴァンが、私の手の甲に静かな、けれど熱い誓いのキスを落とした。


「……私は、あなたの鳥籠を選びます。エルフレイダ様。……あなたが私を放さない限り、私はどこへも行きません。たとえ、その先にさらなる地獄が待っていたとしても」


 ヴァンの銀色の瞳が、月光を反射して怪しく、美しく輝いた。

 それは聖女の「救済」を拒絶し、悪役令嬢の「執着」と共生することを選んだ、一人の青年の決意だった。


「……ヴァン」


 私は彼の頭を抱き寄せた。

 勝利の歓喜。そして、それ以上に深い、彼への愛おしさが爆発する。

 

(ああ……尊い。尊すぎて、もう世界なんて滅んでもいい……)


 私は彼の耳元で囁いた。

 甘い、けれど逃げ場のない、令嬢の毒を込めて。


「……後悔しても、もう遅いわよ、ヴァン。……あなたは今、自分の魂を正式に私に売り渡したの。……一生、私の愛という名の重い鎖に繋がれて、私だけを見つめて生きてちょうだい」


 ヴァンの腕が、私の腰に回された。

 彼は小さく「……仰せのままに、私のお嬢様」と微笑んだ。


 その時、庭園の入り口から、微かな足音が聞こえた。

 木陰から姿を現したのは、顔を青くしたセフィリアと、複雑な表情のライナルト王子だった。

 

 彼らは見てしまったのだ。

 「救われるべき青年」が、自ら進んで「悪役」の懐に飛び込み、その首に鎖を巻かれる瞬間を。


(さあ、物語の続きを始めましょう。聖女様。……ヒロインが物語の主導権握るなんて決まりは、この私が、この公爵令嬢の権力と推しへの愛で、根底から覆してあげるわ)


 夜の庭園に、私の高らかな、けれどどこか狂ったような笑い声が響き渡った。

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