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 公爵邸の広大な訓練場。早朝の冷たい空気が、私の吐き出す息を白く染める。

 普段なら優雅に朝寝坊を決め込んでいるはずの私が、なぜこんな時間に、日差しを遮る特注の天蓋付き豪華テント(移動式)に鎮座しているのか。

 理由はただ一つ。

 そう、今日から私の「推し」であり「専属騎士候補」であるヴァンの、本格的な特訓が始まるからだ。


「……お嬢様。あのような、戦場にでも行くような物々しい装備でお越しにならなくても……」


 呆れ顔で私の背後に控えるのは、昨日の「解雇リスト」の作成から完全に私の腹心(というか共犯者)としての地位を固めつつある侍女のシニエ。彼女はしたたかだ。ある種、私の気まぐれを警戒していただけだが、結果的に第三者ポジションを貫いていた。


 そして私の前には、キンキンに冷やした最高級のココナッツ果実水、栄養価を計算し尽くした特製マカロン、そして万が一ヴァンが倒れた時のための、救急医療チーム(ハリス先生含む)が待機している。


「何を言っているの、シニエ。ヴァンの記念すべき初稽古よ? 歴史の教科書に載るべき瞬間を、特等席で見守るのがあるじとしての義務というものだわ」


 ……というのは建前で、本音は「騎士服姿のヴァンを一番乗りで拝みたい」というオタクのカルマだ。

 昨日のうちに仕立て上がったばかりの訓練用チュニック。ヴァンの瞳と同じ銀糸が織り込まれた、機能性と美しさを両立させた極上の一着。それを着た彼が、今、訓練場の入り口に現れた。


「……っ!」ドカッン!


 私の心臓が、本日一度目の爆発を起こした。

 まだ痩せ細ってはいるが、背筋を伸ばし、恥ずかしそうに自分の腕を見つめるその姿。泥にまみれていた青年が、磨かれる前のダイヤモンドとしての輝きを放ち始めている。

 尊い。

 五体投地して地面に額を擦り付けたい衝動を、公爵令嬢のプライド(鉄壁)で押して押して、押し殺す。


「エルフレイダ様……おはようございます」


 ヴァンがおずおずと歩み寄ってきて、私の前で膝をついた。

 その動作一つで、訓練場の空気がピリリと引き締まる。昨日までの「泥まみれの庭師見習い」の面影は薄れ、彼の中にある騎士への憧憬が、今の彼を支えているのが分かった。


「おはよう、ヴァン。……ふふ、やはり私の見立てに間違いはなかったわ。その服、あなたにとても似合っている。世界中のどの宝飾品よりも、今のあなたの方が価値があるわ」

「……あ、ありがとうございます。……もったいない、お言葉です」


 赤くなるヴァンの耳元を眺めて悦に浸っていると、地響きのような足音が近づいてきた。

 現れたのは、私が昨日「狂犬」と称して呼び寄せた、元・王宮騎士団の鬼教官、ライナスだ。全身が筋肉の塊のような大男で、その顔には数々の武勇伝を物語る深い傷跡がある。


「――ほう。このヒョロガキが、公爵令嬢様がお抱えになった『未来の英雄』様ですか」


 ライナスの声は、錆びた鉄が擦れ合うような不快な響きだった。

 彼はヴァンを、ゴミを見るような、あるいは使い古された道具を見るような冷ややかな目で見下ろした。


「お嬢様。私は金さえ積まれれば石ころでも磨くが、このガキは石ころですらねぇ。中身が空っぽの、ただの抜け殻だ。……騎士の修行? 笑わせる。一時間も経たずに泣き言を言って逃げ出すのが関の山だぜ」


 ヴァンの肩が、目に見えて震えた。

 彼の脳裏には、きっと昨日までの絶望の日々が、そして私に踏みにじられた「夢」の残骸が蘇っているのだろう。

 ライナスの言葉は、彼にとっての「世界の評価」そのものだった。


 だが、今の私は、その世界の評価を力技で書き換えるためにここにいる。


「ライナス。あなたの無礼な舌を今すぐ引き抜いて、庭の肥料にしてあげてもいいのよ?」


 私は椅子から立ち上がり、扇をパチンと閉じた。

 私の冷たい声にライナスが片眉を上げる。


「あら、驚いたかしら? あなたが連れてこられたのは、私の所有物を貶めるためではなく、私の所有物を『最強』にするためよ。……ヴァン、立ちなさい。そして、その木剣を取りなさい」


 ヴァンの手元には、昨日私が特注させた、重さとバランスを完璧に調整したであろう訓練用木剣がある。

 彼は迷いながらも、それを手に取った。


「いい? ヴァン。あなたが今日、一秒でも長く立っていられたら、私はあなたに『最高のご褒美』をあげるわ。……ライナス、始めなさい。あなたの素晴らしい技術を是非、教えてあげて」


 ライナスはニヤリと下品に笑い、自分の木剣を抜いた。


「過保護な飼い主様だ。……おい、ガキ。死ぬ気で来い。お前の『お嬢様』に、不細工な無様を見せたくないならな!」


 特訓が始まった。

 いや、それは特訓という名の、一方的な蹂躙に近かった。

 ライナスの打ち込みは鋭く、重い。栄養失調から立ち直ったばかりのヴァンに、それを防ぐ力はまだない。


 ガツッ、という鈍い音が響く。

 ヴァンが地面に転がる。

 泥が、昨日新調したばかりの美しい服を汚していく。


「どうした! その程度か! 戦場で同情など敵は抱いてくれぬぞ。お前の騎士道とやらは、令嬢に甘やかされて寝ているだけか!」


「……っ……!」


 ヴァンは歯を食いしばり、震える足で立ち上がる。

 何度も、何度も。

 その光景に私の心は千々に乱れる。

(ああ、もうやめて! 私の推しがボッコボコにされてる! 今すぐライナスを火あぶりにして、ヴァンを抱きしめて『よしよし』してあげたい!)

 という前世の限界オタクの悲鳴が、喉元まで出かかる。


 けれど、私は唇を噛んで堪えた。

 ここで私が止めてしまえば、彼は一生、自分を「守られるだけの弱者」だと思い続ける。

 彼はモブではない。彼は、私の人生のヒーローにならなければならないのだ。


 一時間ほどが経過した。

 ヴァンの呼吸は荒く、全身は汗と泥でまみれている。

 それでも、彼の瞳の奥に宿った「光」だけは、ライナスの猛攻を受けても消えていなかった。


「……根性はあるようだな」


 ライナスが木剣を引いた。ヴァンはその場に力なく膝をつき、肩で激しく息を吐いている。


「そこまでよ!」


 私はテントを飛び出し、泥も厭わずヴァンの元へ駆け寄った。

 シニエたちが慌ててタオルと水を持って追いかけてくる。


「ヴァン! よく頑張ったわ、本当に素晴らしいわ! 一時間も立ち続けるなんて、あなたはやっぱり天才よ、私の最高の騎士よ!」


「はぁ、はぁ……エルフレイダ……様……。私、は……まだ、一度も……掠って……も……」


 悔しそうに顔を歪めるヴァン。その汗の滴る横顔が、あまりに色っぽくて一瞬正気を失いそうになる。

 私は彼の泥だらけの手を両手で包み込み、そのまま自分の頬に寄せた。


「関係ないわ。あなたが諦めなかった、その事実だけで私の心は満たされているの。……さあ、約束の『ご褒美』よ」


 私は彼を強引に引き立たせ、自分のテントへと導いた。

 そこで待っていたのは、ハリス先生に考案の最新の医療マッサージと、私が自ら作った「最高級冷製コンソメジュレ」だ。


「さあ、あーんして」


「え……? お、お嬢様、人目が……」


 周囲では、ライナスが呆れ果てて蜂蜜酒を飲み、近衛兵たちが「見ちゃいけないものを見た」という顔で目を逸らしている。

 だがそんなものは知ったことか!


「命令よ、ヴァン。あなたは今、極度の疲労状態にあるわ。私の手から栄養を摂取するのが、最も効率的な回復手段なの(※真っ赤な嘘)。さあ、早く」


 ヴァンは顔を真っ赤にし、周囲の視線に耐えかねたように、小さな口を開けた。

 プルンとしたジュレが彼の口に吸い込まれる。

 冷たさと、濃厚な旨味が彼の体を駆け抜けたのだろう。ヴァンの表情が、一瞬だけふわりと緩んだ。


「……美味しい……です……」


「でしょう? 明日からはもっと美味しいものを用意してあげる。だから、明日も私のために立っていなさい」


 私は彼の乱れた髪を指で整え、耳元で囁いた。


「ライナスが何を言おうと、関係ない。あなたが次に立ち上がるための力は、すべて私が与えてあげる。……あなたの心も、体も、すべて私の令嬢パワーで塗りつぶしてあげるから」


 ヴァンの瞳に熱い何かが宿る。

 それは恐怖ではなく、執着に近い何か。

 私の圧倒的な、そして暴力的なまでの「愛」と「財力」に、彼の理性は少しずつ、けれど確実に溶かされ始めていた。


 ライナスが後ろで、「……甘やかしすぎだろ。俺の仕事を増やすな。そんなもん、騎士じゃなくてペットだ」と吐き捨てるのが聞こえた。


 私は振り向かずに答える。


「ペットで結構よ。……ただし、私以外のすべてを噛み殺す、最強の狂犬に育て上げるのが、あなたの仕事でしょう? 頼むわよ」


 私の宣言に訓練場は再び静まり返った。

 ヴァン・ルースターを巡る、私の「強引なハート強奪作戦」は、まだ序の口に過ぎない。

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