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 朝霧が立ち込めるランヴォール公爵邸。その中心部に位置する重厚な黒檀の扉の前に、私は立っていた。

 この奥にいるのは、今朝方帰宅した、私の父であり、この国の政界を牛耳る「北の鉄血公」こと、ランヴォール公爵家当主、ジェラルド・ド・ランヴォール。

 記憶が戻る前の私にとっては、酷く甘やかしてくれる財布であり、権力の源泉であった男。だが、今の私にとっては、ヴァンを正当な「騎士」へと押し上げるための、最大の障壁であり、最強の協力者候補だ。


「お嬢様……やはり、お止めください。旦那様は今、昨日の使用人大量解雇の件で、ひどく御立腹です……」


 後ろでシニエが、震える声で私の袖を引く。彼女の言い分は正しい。昨日、私が独断で行った「リスト」に基づく処刑じみた解雇と鉱山送りは、公爵家の面子を汚す暴挙と受け取られても仕合がない。


「いいのよ、シニエ。お父様が怒っているのは、私が『残酷なことをしたから』ではなく、私が『非効率な混乱を招いたから』でしょう? ならば、それを上回る利益を提示すればいいだけだわ」


 私は優雅に扇を開き、口元を隠した。

 扇の向こうで、私は不敵に微笑む。

 かつての私は、わがままを通すために泣き喚いた。けれど、今の私は違う。前世で社会の荒波に揉まれ、推しを養うために残業代を稼ぎまくった「大人の知恵」があるのだ。


 私はノックもせず、その扉を力任せに押し開いた。これはミスった。


「おはようございます、お父様。朝のお忙しい時間に失礼いたしますわ」


 部屋の奥、山のような書類に囲まれた大型のデスクで、鋭い眼光を放つ初老の男が顔を上げた。

 彼が放つ威圧感は、並の人間なら気絶しかねないほどに鋭い。だが、私はその視線を真っ向から受け止めた。


「あぁ、エルフレイダか。愛しい我が娘よ。おはよう。……昨日の騒ぎについては、後ほど私の執務室へ呼ぶつもりだった。とりあえず説明を聞こう。なぜ、我が家の熟練した使用人たちを一度に二十人も鉱山へ送った?」


 父の声は低く、でもどこか愛のやる優しい響き。怒りの温度は、沸騰する直前とは言い難く、奇妙な静寂に似ている。


「説明? そんなもの、一言で済みますわ。――彼らが、『私の物』に傷をつけたからです」


 私は父のデスクの前に歩み寄り、両手を置いた。


「お父様、あなたは常々おっしゃっていましたね。『ランヴォール公爵家の財産は、針の一本に至るまで完璧に管理されねばならない』と。……ならば、私が拾ってきた庭師見習いも、私の所有物であり、公爵家の財産です。それを、使用人の分際で無断で毀損し、価値を下げようとした。これは私への侮辱であり、家長であるあなたへの反逆ではありませんか?」


 父の眉が微かに動き、その後、表情は変えずとも、困惑したような雰囲気があった。

 いつものわがまま娘の感情論ではなく、家の管理責任という論理で返されるとは、夢にも思っていなかったはずだ。


「……ふむ。あの平民のことか。ハリスの報告によれば、お前はあやつを賓客用の部屋に入れ、魔法薬を湯水のように使わせているそうだな。一時の気まぐれにしては、あまりに不経済だ」


「気まぐれ? 違いますわ。私は『投資』をしているのです」


 私は椅子に深々と腰掛け、父を睨み返した。


「ヴァン・ルースター。彼は、磨けば王宮騎士団の団長すら凌ぐ逸材になります(嘘は言っていない)私はその『原石』を独占し、我が家の最強の剣とするつもりです」


「ハハハ、平民の小童を騎士にだと? 笑わせるな。血筋も、歴史もない男に何ができる。剣など、もっての他だ」

父の乾いた笑いが突き刺さる。


「血筋が何ですの? 私は、彼が持つ『不屈の精神』と『圧倒的な体格の素質』を見込んでいます。……お父様、賭けをしませんか?」


 私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。昨夜のうちに作成した、ヴァンのための『育成計画書』だ。

 そこには、三ヶ月以内に彼を騎士見習いの選抜試験に合格させ、一年以内に私直属の近衛騎士として叙任させる、という具体的かつスパルタなスケジュールを記してある。


「もし彼がこの計画から一度でも遅れるようなことがあれば、私は潔く、隣国の豚……失礼、ギルバルト侯爵との婚約を、お父様の望む通りに受け入れましょう。……けれど、もし彼が私の言う通りの成果を出したなら……」


 私は一歩、父に歩み寄った。


「彼を、私の『専属従者』として正式に認め、爵位を授けるための根回しを、お父様が全面的にバックアップしてくださいませ」


 書斎に重苦しい沈黙が流れる。

 父の目が、私の計画書を舐めるように読み進めていく。

 父は、私の「結婚」という強力なカードを提示されたことで、天秤を揺らし始めていた。ランヴォール家にとって、私と侯爵家の縁談は喉から手が出るほど欲しい政略結婚のカードだ。いつも通り、わがままで言うことを聞かなかった私からの願ってもない申し出。


「……面白いな。お前がそこまで言うのなら、試すがいい。だが、エルフレイダ。一度でも失敗すれば、その平民は即座に屋敷から追放し、お前は翌日に侯爵家へ嫁いでもらうぞ」


「望むところですわ。……ありがとうございます、お父様。それから、愛しておりますわ」


 私は優雅に一礼し、踵を返した。

 扉を閉める直前、父が「……ようやく成長してくれたか」と独り言を漏らすのが聞こえたが、私は気にせず廊下を走り出した。


(一先ず勝った……!(心の中でガッツポーズ)これでヴァンの未来を保障する第一歩が踏み出せたわ!)


 もちろん、婚約なんてするつもりは露ほどもない。

 ヴァンなら、絶対にやってくれる。私が愛した彼は、ゲームの中ではたった一人で数十人の敵軍を足止めして散っていったという裏設定、最強の「不名誉な英雄」なのだ。

 その力を、今度は死ぬためにではなく、私の傍で生きるために使わせてみせる。


────


 部屋に戻ると、そこにはすでに王都一の仕立屋、ロザリア夫人が持ち込んだ衣装が並べられていた。

 ヴァンは昨日よりも少しだけ落ち着いた様子で、採寸のために椅子の上に立たされていた。


「エルフレイダ様……」


 私の顔を見た瞬間、彼の瞳に微かな安堵が混ざったのを、私は見逃さなかった。

 ああ、尊い。

 私の帰りを待っていてくれた。それだけで、先ほどまでの父との命がけの交渉の疲れが一瞬で吹き飛んでいく。


「ヴァン、いい知らせよ。お父様の許可が下りたわ。今日からあなたは、私の『正式な騎士候補生』として、この屋敷で生活することになります」


 ヴァンの体が、凍りついたように動かなくなった。

 採寸していたロザリア夫人の手が止まり、シニエが口をポカンと開けて絶句する。


「き、騎士……!? わ、私がですか!? で、ですが……私は、ただの平民で、け、剣など、あの日、お嬢様に折られて……」


 彼は酷く動揺し、自分の震える手を見つめた。

 私は彼の元へ歩み寄り、その椅子を登って彼と同じ高さに立った。

 驚く彼の肩を掴み、真っ直ぐにその銀色の瞳を覗き込む。


「折られたなら、新しいものを買えばいいじゃない。……いいえ、私がこの国で一番の剣を、あなたに贈ってあげるわ。……ヴァン、あなたは自分が『モブ』だと思っているかもしれないけれど。私にとっては、あなたこそがこの世界の中心なの。あなたが私の騎士にならないのなら、私はこの国の騎士団なんて、全員解散させてやるわ」


「……っ」


 ヴァンが言葉を失って私を見つめる。

 恐怖、困惑、意味不明な呪文語。そして……その奥底に、小さな、本当に小さな『希望の火』が灯ったのを私は見た。


「さあ、夫人。彼を、この国で一番美しく、凛々しい騎士に仕立ててちょうだい。予算に上限はないわ。……金糸は贅沢に、裏地は彼の肌を傷つけない最高級の絹を使いなさい」


「お、お嬢様……本当に、無茶苦茶でございますね……」


 ロザリア夫人が苦笑しながらも、その瞳にはプロとしての職人魂が沸々と燃えていた。

 私は椅子の下へ飛び降りると、シニエに向かって命じた。


「シニエ、次は食事よ。彼の筋肉と骨を強化するために、赤身の肉と、栄養価の高い薬草スープを毎日用意して。……それから、私の私財を削って、王都で一番の剣術指南役を呼びなさい。腕はいいけれど、性格が厳格な人……そうね、『狂犬のライナス』辺りがいいかしら」


 私の怒涛の指示に、部屋の中は戦場のような忙しさになった。

 そんな中、私は一人、部屋の隅の鏡に映る自分を見つめた。


(待ってて、ヴァン。あなたはまだ、自分がどれほど愛されているか分かっていないけれど。……これから毎日、嫌というほど思い知らせてあげる)


 私は令嬢のパワー(財力と権力)を使って、彼を物理的に、そして精神的に包囲していく。

 美味しいものを食べさせ、美しい服と鎧を着せ、最高の教育も与える。

 それは加害者であった私にできる、最も傲慢で、最も献身的な「愛」の形だ。


 ふと視線を向けると、ヴァンが採寸されながら、こちらの様子を伺っていた。

 目が合うと、彼は慌てて視線を逸らしたが、その耳の先が微かに赤くなっている。


(ふふっ……やっぱり可愛い。……ボコボコにメンタルを刺し殺した分、今度は愛で溶かしてあげるから覚悟しなさいね、私の愛しいモブ君)


 物語はここから加速する。

 私が彼に与えるのは、もはや救済ではない。それは一生逃げ出すことのできない、甘美な「令嬢の執着」という名のゆりかごなのだ。

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