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 月光が、青白い刃のように客間の床を切り裂いていた。

 屋敷が寝静まり、遠くで夜鳥の鳴き声が聞こえるだけの、深淵のような静寂。

 私は自室のベッドを抜け出し、薄いガウンを羽織って隠し扉に手をかけた。


 扉の向こう、碧玉の間からは、微かな、本当に微かな「音」が漏れていた。

 それは、押し殺したような、けれど必死に何かを堪えているような、苦悶の吐息。


(……やっぱり、眠れていないのね)


 私はそっと扉を開けた。

 豪華な天蓋付きベッドの中、ヴァンは横たわっていなかった。

 彼はベッドのではなく、冷たい石床の上に丸まり、シーツの端を固く握りしめて震えていた。


「ヴァン……」


 私の呼びかけに、彼の体は大きく跳ね、恐怖に彩られた瞳が暗闇の中で銀色に光った。


「っ……え、エルフレイダ様……! も、申し訳ございません。すぐに、すぐに戻ります。決して、寝具を汚そうとしたわけでは……」

「そうじゃないわ。……起きて」


 私は彼に歩み寄り、冷たい床に同じように膝をついた。

 夜の寒さがガウン越しに伝わるが、彼の震えは寒さのせいだけではないことを知っている。


「どうして床で寝ているの? あのベッドは、世界でも有数の羽毛を使っているらしいのよ。あなたの傷を癒すために、私が用意させたの」

「私のような……泥まみれの人間が、あんな純白のものに触れるなど……恐ろしいのです。目を閉じると、あの日のお嬢様の声が聞こえて……。もし、朝起きて私が贅沢をしていたら、今度こそ妹を……殺されてしまうのではないかと……」


 彼の言葉は、喉の奥で小刻みに震えていた。

 私の心が、ぐちゃりと嫌な音を立てて潰れる。

 私が彼に植え付けた恐怖は、数杯の温かいスープや、最高級の魔法薬で消えるような浅いものではなかったのだ。


 記憶の中の私が彼に放った、最も残酷な呪い。

『あなたが幸福を望めば、あなたの大切な者が不幸になる』

 私は、ヴァンの唯一の希望である妹を人質に、彼の心という檻を完成させていた。


「ヴァン。私の目を見て」


 私は、彼の冷え切った頬を両手で包み込んだ。

 彼は怯え、視線を彷徨わせる。けれど私は逃がさない。


「約束しましょう。あなたの妹さん……ミリーネだったかしら。彼女には、今日、王都で最も高名な医師を派遣したわ。彼女は今、公爵家直轄の療養所で、あなたの何倍も豪華な食事と治療を受けている。……彼女の命を脅かす者は、この世界に一人もいない。私自身を含めて、ね」


 ヴァンの瞳が大きく見開かれた。


「な、なぜ……名前を……。それに、なぜ、そこまで……」

「言ったでしょう? あなたが気になるからよ」


 私は、彼の額に自分の額をそっと寄せた。

 鼻をかすめる、魔法薬のハーブの匂い。その奥に、彼が本来持っていた、清廉な森のような気配を感じる。


「ヴァン。私を恨みなさい。憎みなさい。……けれど、怯えるのはもうやめて。あなたが怯えるたびに、私の心には、あなたが受けた以上の毒が回るの」


 これは私の独りよがりな願いだ。加害者が被害者に「怯えるな」と強いるなど、これ以上の傲慢はない。

 分かっている。分かっているけれど。


「私は、あなたに笑っていてほしい。……あなたが、あの木枯らしの吹く庭で、折れた枝を剣に見立てて振るっていた時の……あの真っ直ぐな瞳を、もう一度見たいの」


 ヴァンの息が止まった。

 彼が隠れて練習していた剣術。それは、記憶が戻る前の私が最も無残に踏みにじった夢だ。

『平民が騎士を気取るなど、ネズミが羽を欲しがるようなものだわ』

 そう言って笑った私の顔を、彼は今も覚えているはずだ。


「……お、お嬢は……変わられましたね」


 掠れた、けれどどこか透き通った声が静寂に落ちた。


「まるで……中身が別の人に、入れ替わってしまったかのように。……今のあなたは、私に毒を飲ませるのではなく、自ら毒を飲んでいるように見えます」


 彼の観察眼の鋭さに、背筋が凍る思いがした。

 さすがは、ゲーム本編で「隠れた天才」と称されていたモブキャラクター。光を失ってもなお、その本質を見抜く力は衰えていない。


「……そうかもしれないわね。私は一度死んで、地獄を見てきたのかもしれないわ。……そして、そこから這い上がって気づいたの。私が本当に欲しかったものは、王冠でも富でもなく、ただ一人の、誇り高い青年の心だったのだと」


 私は彼の手を取り、自分の左胸の上に置いた。

 トク、トク、と、激しく波打つ鼓動が、彼の手のひらに伝わっていく。


「信じなくていい。疑い続けなさい。……でも、私は逃げない。あなたが私を許すまで。……いいえ、許さなくてもいい。あなたが私の傍で、誰よりも贅沢に、誰よりも自由になるその日まで、私は令嬢の力を、あなたの為だけに使い続ける」


 ヴァンの指先が微かに私の服を掴んだ。

 拒絶ではない。それは、暗闇で溺れる者が、藁をも掴むような、細く脆い縋りつきだった。


「……もし、これが夢なら。……覚めた時、私はあの廃材置き場で死んでいるのでしょうね」

「夢ではないわ。もしこれが夢だというなら、私はこの世界ごと、あなたを永遠の眠りに閉じ込めてあげる」


 私の言葉に、ヴァンは初めて微かに口角を上げた。

 それは笑みと呼ぶにはあまりに悲しく震えるものだったけれど。

 それでも、私にとってはどんな宝石よりも輝いて見えた。


「……お嬢様は、本当に……強引で、勝手なお方だ」

「ええ。公爵令嬢ですもの。……さあ、ベッドに戻って。あなたが眠るまで、私がここで手を握っていてあげる」


 私は彼を立ち上がらせ、今度は拒まれることなく、大きなベッドへと誘った。

 彼をシーツに包み、私はその傍らに腰を下ろす。


「お嬢様……」

「眠りなさい、ヴァン」


 私はサイドテーブルにあったブラシを取り、彼の泥の落ちた銀髪をゆっくりと解かし始める。

 前世の私が、画面越しに何度も「触れたい」と願った、その髪。

 さらさらと指の間をすり抜ける感覚は、現実という名の、あまりに残酷で甘美な重みを持っていた。


 やがてヴァンの規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 眠っている彼の顔は、まだ幼さが残っている。

 この青年が、本来辿るはずだった運命。戦火の中で、誰にも知られず命を落とす「その他大勢」の一人としての死。


(させない。絶対に)


 私は彼の手を握り直し、心の中で誓う。

 明日、私はお父様――ランヴォール公爵に、彼を私の『正式な騎士』として教育する許可を取りに行く。

 血統? 身分? そんなものは、私がこの国の歴史を書き換えてでも塗り潰してやる。

 彼が再び剣を取り、自分自身の足で立てるようになるまで、私は彼の杖になり、盾になり、そして、彼を甘やかし尽くす毒になろう。


 朝日が昇るまで、私は彼の寝顔を見守り続けた。


────


 窓の外、夜が明けていく。

 それは地獄を終わらせるための、戦いの始まりのような光だった。

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