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 窓から差し込む朝陽が、白亜の壁に反射して私の瞼を刺した。

 広い天蓋付きのベッドの中で、私はゆっくりと意識を浮上させる。記憶が混濁していた昨日までとは違う、澄み渡るような思考。

 ――私は、ヴァン・ルースターを救い出した。

 その事実を噛みしめるだけで、胸の奥が熱い充足感で満たされる。


 私は跳ね起きると、シルクの寝間着のまま隣の『碧玉の間』へと繋がる隠し扉を開けた。

 そこには、朝食の準備を整えた侍女たちと、ベッドの上で石像のように固まっているヴァンの姿があった。


「……ヴァン。おはよう。よく眠れたかしら?」


 私の声に、彼は肩を大きく跳ねさせた。

 昨日よりも顔色は少しだけマシになっているが、その瞳には依然として深い困惑と、触れれば壊れてしまいそうなほどの怯えが張り付いている。


「あ……は、はい。エルフレイダ様……。お早うございます……。あ、あの、この、寝具……汚してしまったかもしれず、申し訳……」


 彼は慌ててベッドから滑り降り、床に額を擦り付けようとした。その動作があまりに染み付いていることに、私は奥歯を噛み締める。

 ゲームの重め設定だと分かっていたけれど、実際に自分の推しが自分に対してここまで卑屈になっている姿を見るのは、心臓を直接万力で締め上げられるよりも辛い。


「ヴァン、言いなさい。この部屋で、あなたが私に謝ることは一つもありません。分かった?」

「……ですが、私は、ただの庭師で……」

「いいえ、あなたは昨日から私の『専属従者』よ。そして、私の専属であるということは、この屋敷で私に次ぐ尊厳を保つ必要があるということ。……いいから、座りなさい」


 私は強引に彼の腕を取り、再びベッドの端に座らせた。

 昨日、ハリス先生が処方した魔法薬のおかげで、背中の傷や凍傷は目に見えて改善している。けれど、痩せ細った体躯はすぐには戻らない。

 私は指を鳴らした。それを合図に、侍女たちが銀の盆を次々と運び込んでくる。


 今朝のメニューは、新鮮な高山羊のミルク、ハチミツをたっぷりかけたオートミール、白身魚のポワレ、そして黄金色に焼き上げられた円形のパンだ。このパンは隣国の都市、ロドキスで一大ブームになっているパンだ。明らかに異質で美味しい。作っている職人は、私と似た境遇(転生者)なのかもしれない。

 ヴァンはその贅を尽くした朝食を、まるで爆弾でも見るような目で見つめている。


「……毒など入っていないわ。毒を入れるくらいなら、私が自分であなたの口に運んであげる。さあ、召し上がれ。あなたが健康を取り戻すまで、私はここを動かないわよ」


 私は彼の隣に腰掛け、ジッと彼を見つめた。

 令嬢のパワーに押されたのか、ヴァンはおずおずとミルクの入ったカップに手を伸ばした。一口、また一口。彼が嚥下するたびに、私は心の中で「尊い……推しが栄養を摂取している……」と咽び泣くオタクの自分を必死に抑え込んでいた。


 食事が終わる頃を見計らって、廊下から騒がしい足音が近づいてきた。

 扉が開かれ、シニエが数人の男たちを連れて入ってくる。


「お嬢様、王都最高の仕立屋、ロザリア夫人が到着いたしました。それと……ご指示のあった『リスト』も出来上がっております」


 シニエの声は微かに震えていた。彼女もまた、私が昨日見せた冷酷な一面に恐怖しているのだ。

 私は受け取った羊皮紙の束を、ヴァンの前でわざとらしく広げた。


「……ふむ。思っていたよりも多いわね。ヴァンの食事を横流ししていた料理人見習い。彼にわざと腐った水を運ばせていた下男。そして……彼を杖で叩いた、先代の家令付の庭師……」


 リストを読み上げるたびに、ヴァンの顔から血の気が引いていく。

 彼は私のドレスの裾を掴もうとして、すぐに手を引っ込めた。


「お、お嬢様……もう、よいのです。私が、至らなかっただけですから……。これ以上、騒ぎにしないでください……」


 彼の優しさが、今の私には猛毒だった。

 彼は自分が傷つけられたことよりも、私がそのために手を汚したり、周囲に疎まれたりすることを案じているのだ。

 これほど清らかな魂を、私は前世の記憶が戻るまで虐げ続けていたのか。


「いいえ、ヴァン。これはあなたのためだけじゃない。私の所有物を、私の許可なく傷つける不届き者を一掃するための、正当な『管理』よ。……ハンス!」


 控えていた家令のハンスが、一歩前に出る。


「リストに載っている者たちを、全員広場に集めなさい。例外は認めないわ。私が直接、彼らの『処遇』を申し渡します」

「……承知いたしました」


 ハンスの顔には、もはや疑念はない。ただ、エルフレイダ・ド・ランヴォールという怪物が、ついにその牙を内側へ向けたことへの戦慄だけが漂っていた。


────


 正午。屋敷の中庭に、リストに記載された二十数名の使用人たちが集められた。

 彼らは一様に、私を「高慢だが気まぐれな主」と舐めていた連中だ。

 私はバルコニーから、彼らを見下ろした。隣には、新しい絹の部屋着に着替えさせられたヴァンを無理やり立たせている。


「皆さん。今日集まっていただいたのは、他でもない。公爵家の『規律』を再確認するためよ」


 私の冷たい声が中庭に響き渡る。

 私は手元の羊皮紙を一枚ずつ、ひらひらと中庭に落とした。


「そこに書かれているのは、あなたたちがヴァン・ルースターに対して行った、数々の『無礼』よ。……私は、彼を庭師見習いとして雇った。けれど、彼に暴力を振るい、食事を奪い、凍えさせる権利など、誰にも与えた覚えはないわ」


 使用人の一人が、堪えきれずに声を上げた。


「ですが、お嬢様! そいつはただの平民で……お嬢様ご自身も、あんな奴は好きにしろとおっしゃったではありませんか!」


 その言葉に、ヴァンの体がピクリと震えた。

 そうだ。彼は、私がそう言ったのを聞いていたのだ。

 私は一瞬、心臓が止まるかと思った。けれど、ここで怯んではいけない。


「そうね。私は確かに、彼を『好きにしろ』と言ったかもしれないわ。……けれど、それは『私のために、最高の状態に磨き上げろ』という意味よ。……私の意図を読み違え、私の所有物を損なわせた。それは、公爵家に対する明白な反逆だと思わないかしら?」


 詭弁だ。前世の政治家のように、都合の良い言葉で事実をすり替え、権力で説き伏せる。自分でも分かっている。だがこれが最善で、使い勝手がいい。

 けれど、この領地では私の言葉が法となり変わるのだ。


「リストに載った者たちは、今日限りで解雇します。退職金は通常の二倍出します(ヴァンを逆恨みしないように。そして諸悪の根源は私自身だから)……しかし、心配する必要はありません。新たな職は用意してあります。王都の北にある、公爵家所有の鉱山……あそこなら、不満なくこなせる作業があるでしょう」


 一部悲鳴と罵声が上がったが、私の後ろに控える近衛兵イエスマンたちが一歩前に出ると、すぐに静まり返った。

 彼ら私のは眼下にいる守衛たちに促され、屋敷を去っていく。昨日までヴァンを嘲笑っていた者たちが、今度は汗を流し、正当に働いていくことになる。


 静かになった中庭を見下ろしながら、私はヴァンの手を取った。

 彼の手はまだ冷たかった。


「……ヴァン。怖かったかしら?」


 そう尋ねると、彼は潤んだ瞳で私を見つめ返した。


「なぜ……。なぜ、ここまでしてくださるのですか!? お嬢様は、私のことを、あんなに……嫌っておられたのに……」


 その問いに、私は答えられない。

 『あなたはゲームの中の私の最推しで、私はあなたを幸せにするために転生してきたのよ』なんて言えるはずがない。言ったとしても、何も伝わらない。さらに誤解を上塗りするだけだ。


 私は彼の耳元に顔を寄せた。

 彼の髪から、まだ少しだけ土の匂いがした。けれど、それさえも愛おしい。


「言ったでしょう? あなたが気になるのよ、ヴァン。……あなたの心を、私がボコボコに壊してしまったのなら。今度は私が、それ以上の力で、あなたのすべてを奪い取ってあげる」


 私は震える彼の指先に、そっと唇を触れさせた。

 公爵令嬢としての、宣戦布告だ。


「これから、あなたは世界で一番幸せな男になるの。……拒否権なんて、最初から与えていないわよ」


 ヴァンの頬が、初めて微かに赤らんだ。

 恐怖か、困惑か、それとも――。

 私の「令嬢パワー」による強引な甘やかしは、まだ始まったばかりだ。


────


 その日の午後。

 部屋に戻った私を待っていたのは、山のように積まれた最高級の布地と、王都一の宝石商だった。


「さあ、ヴァン。次はあなたの衣装を選びましょう。あなたの瞳と同じ、深い銀色のシルクなんてどうかしら? それとも、私のドレスとお揃いの深紅?」


 呆然とするヴァンを横目に、私は楽しげにカタログを広げる。

 前世で課金枠すら設けられてなく、悶々な不満を、できなかった分、今世の私は、この「推し」という名の最高級のドールに、ありったけの資産を注ぎ込むつもりだった。


(待っててね、ヴァン。あなたのメンタルを刺し殺した過去の私を、今の私が上書きしてあげる。甘すぎて、もう二度と他の誰の元へも行けなくなるくらいに――)


 私の狂気にも似た愛情が、静かに、けれど確実に、彼を侵食し始めていた。

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