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 泥まみれの私の手と、それ以上に汚れ、ひび割れた彼の掌。

 つないだ場所から伝わってくるのは、春の陽気にはあまりに不釣り合いな、凍てつくような震えだった。

 私が一歩踏み出すたびに、背後でヴァンがビクリと肩を揺らす。その足取りは危うく、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。


「お、お嬢様! 本当にお連れになるのですか!? その、そのような……汚物のような者を、本邸へ!?」


 後ろから追いかけてくるシニエの悲鳴が、私の神経を逆撫でする。

 汚物?

 今、この子はなんと言った?

 前世の記憶が戻る前の私なら、その言葉に「全くだわ」と同意していただろう。だが、今の私にとっては、その言葉は自分自身の心臓を抉るナイフでしかなかった。しかし、彼女は悪くない。なぜなら、私が彼女のその性格を気に入って側に置いていただけなのだから。


「シニエ」


 私は足を止め、冷徹な響きを帯びた声で振り返った。

 記憶の中の「エルフレイダ」が、気に入らない使用人を黙らせる時に使っていた、あの傲慢なトーンだ。皮肉なことに、今の私にはそれが一番使い勝手の良い武器だった。


「二度と、私の従者をそのように形容することは許しません。……次があれば、あなたの舌がその役割を終えることになるわよ」

「ひ、ひぃっ……! も、申し訳ございません! 改善致します!」


 シニエが顔を真っ青にして地に伏せる。

 やりすぎだとは分かっている。けれど、こうして恐怖を植え付けなければ、この屋敷の連中(お気に入りの取り巻き)はヴァンを虐げ続けるだろう。彼を「底辺のモブ」として認識しているのは、私だけではない。この屋敷の空気そのものが、彼を殺そうとしていたのだ。


 私は再び前を向き、隣を歩くヴァンを見た。

 彼はうつむいたまま、虚空を見つめている。私の脅し文句に対しても、何の感情も示さない。ただ、引きずられるように歩いているだけだ。

 私の推しは、こんな風に笑わない人ではなかったはずだ。

 ゲームのイベントスチルで見た彼は、もっと、泥の中でも真っ直ぐに前を向いて……。


(……私が……私が彼を壊したんだわ)


 胸の奥が焼けるように熱い。

 本邸に入ると、行き交う使用人たちが一様に目を見開き、そして慌てて壁際に寄って頭を下げた。泥だらけの公爵令嬢と、それ以上に惨めな姿の庭師見習い。あまりに異様すぎる光景に、屋敷全体が凍りついたような静寂に包まれる。


「私の自室の隣……『碧玉の間』を開けなさい」


 私の指示に、廊下にいた家令のハンスが困惑した表情を浮かべた。


「お嬢様、あそこは高貴な賓客をもてなすための部屋でございます。いくらなんでも、このような平民を――」

ハンスは言葉を喉の奥で噛み潰すような、絶句のあまり震える声が奇妙に上擦っている。一語一語を恨みがましく、粘り気のある口調で語り、けれどその愕然とした中に、確実に悲鳴にならない拒絶を含ませていた。

「ハンス。私は『開けなさい』と言ったの。理由を問い質せと言った覚えはないわ」

「……し、失礼いたしました。直ちに、開扉いたします」


 ハンスは深く頭を下げたが、その瞳の奥には隠しきれない軽蔑と疑念が渦巻いていた。

 いいわ。今はそれで。

 誰にどう思われようと、今の私にはヴァンの生存と回復以外に優先すべき事項なんて存在しない。


 碧玉の間に到着すると、私はヴァンを豪華な天蓋付きのベッドに座らせようとした。

 だが彼はその絹のシーツが目に入った瞬間、弾かれたように後ずさり、床に膝をついた。


「い、いえ……滅相もございません……。私は、ここで……床で十分です……。汚してしまいます……」

「ヴァン……」

「申し訳ございません……申し訳ございません……!」


 彼は震える手で、自分の泥だらけの服を隠そうとする。その動作一つ一つが、彼が受けてきた虐待の深さを物語っていた。

 私は深くため息をつき、彼の前に屈み込んだ。


「シーツなら、汚れたら替えればいいだけよ。シーツなど、この屋敷には腐るほどあるわ。……それとも、私の命令が聞けないというの?」

「それは……」

「座りなさい。これは命令よ」


 強制的な口調で促すと、彼は絶望したような顔で、震えながらベッドの端に腰を下ろした。まるで、針の筵に座らされているような強張った体。

 私はすぐに侍女たちを呼び寄せ、温かい湯と清潔な着替え、そして救急箱を持ってこさせた。


「お嬢様、私たちが――」

「いいえ、私がやるわ」


 シニエが差し出したスポンジを取り上げ、私はヴァンの前に膝をついた。

 周囲から息を呑む音が聞こえる。公爵令嬢が平民の足を洗うなど、この世界の常識では考えられないことだ。

 だがそんなくだらない常識など知ったことか。

 私は丁寧な手つきで、彼の足の甲にこびりついた泥を落としていった。


「……っ」


 ヴァンが小さく声を上げた。

 泥を拭い去った後に現れたのは、無数の傷跡だった。

 石で打たれたような痣、何か鋭利なもので切り刻まれたような古い傷、そして……。


「……凍傷?」


 ヴァンの指先は、不自然に赤黒く腫れ上がっていた。

 まだ春浅い時期とはいえ、この数週間の冷え込みは厳しかったはずだ。そんな中、彼は薄着のまま、あの湿った裏庭で作業をさせられていたのだ。誰でもない。私のせいで。


 視界が怒りと悲しみで滲む。

 私はスポンジを握る手に力を込めた。


「誰が。誰があなたにこんな真似を?」


 問いかけても、ヴァンは答えない。ただ、私の手の動きを死刑宣告を待つ囚人のような目で見つめているだけだ。

 答えなど聞くまでもなかった。

 私が『彼を好きに扱っていい』という空気を作ったのだ。私が、彼を「人間」として扱うことを禁じたのだ。

 加害者は、私。そして、私に阿諛追従あゆついしょうするこの屋敷の全員だ。皆、私を恐れて従っていたに過ぎない。


「ハリス先生はまだなの!?」


 私の怒声に、部屋の隅で控えていた使用人たちが飛び上がるようにして駆け出していった。


 やがて、初老の公爵家専属医、ハリスが慌ただしく入室してきた。彼はベッドに座るヴァンの姿を見て絶句したが、私の形相を見て、すぐに診察を開始した。


「……ひどいものです。栄養失調に加え、慢性の疲労、そして重度の凍傷。それに、この背中の傷は……」


 ハリスがヴァンのシャツを脱がせると、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。

 鞭か、あるいは細い枝で何度も叩かれたような、新しいミミズ腫れが幾筋も走っている。


「……ヴァン、これはいつされたものなの?」


 私の声は、自分でも驚くほど震えていた。

 ヴァンは力なく首を振る。


「……お、覚えていません。私が、不手際をしたから……当然の報いです……」

「当然なわけがないでしょう!」


 私は叫んでいた。

 彼を抱きしめたかった。けれど、今の私が触れれば、彼はさらに怯えるだけだ。

 私は立ち上がり、ハリスを睨みつけた。


「ハリス。今すぐ、この世で最も効く薬を使って。魔法薬でも、王宮秘蔵の霊薬でも構わない。公爵家の名において、私がすべてを支払う。彼の体に、傷一つ残してはならないわ」

「お、お嬢様、しかし魔法薬は非常に高価でして、このような――」

「金の話をしているのではないと言っているの! 彼の苦痛を取り除きなさい! 今すぐに!」


 ハリスは気圧されたように頷き、鞄から包帯や軟膏、消毒液で素早く、丁寧な手際で済ませていく。そして虹色に輝く小瓶を取り出した。

 ヴァンの背中に薬が塗布されると、淡い光が傷口を包み込み、酷い腫れを包み込むように光の膜が覆っていく。

 それでも、心の傷までは消えない。

 薬を塗られる間も、ヴァンは痛みを感じていないかのように、ただ一点を見つめていた。


 診察と治療が終わる頃には、日はすっかり暮れていた。

 私は最高級の食材をふんだんに使った、たっぷり野菜と肉のスープ、ドワーフの専用器具で柔らかく焼き上げられた貴族用のパンを運ばせた。

 ヴァンの前に置かれた銀のトレイには、平民が一生かかっても食べられないような贅を尽くした料理が並んでいる。


「食べなさい。一口ずつでいいから」


 ヴァンは、湯気を立てるスープを信じられないものを見るような目で見つめた。

 そして、震える手でスプーンを取ろうとしたが、指先の凍傷の後遺症と震えのせいで、カランと床に落としてしまった。


「……っ! 申し訳、ございません! すぐに、すぐに片付けますから、どうか叩かないで下さい……!」


 彼は血相を変えて床に這いつくばろうとした。

 私はその肩を、強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで押さえ込んだ。


「いいのよ、ヴァン。いいの。……私が、食べさせてあげる」

「え……!?」


 ヴァンの瞳に、初めて微かな困惑の色が浮かんだ。

 私は新しいスプーンを手に取り、スープを丁寧に掬う。熱すぎないように息を吹きかけ、彼の唇に寄せた。


「さあ、口を開けて」

「お、お嬢様……そ、そんな、正気ですか……!?」

「私はいつだって正気よ。……それとも、公爵令嬢の施しが受けられないというの?」


 また傲慢な令嬢の仮面を被る。

 ヴァンは、おそるおそる、震える唇を開いた。

 スープが彼の口に含まれる。

 じわり、と。

 彼の目から、大粒の涙が溢れ出した。


「……あ……うぅ……」


 彼は味を感じているのか、それとも温かさを感じているのか。

 嗚咽を漏らしながら、彼は私の差し出すスープを飲み込んだ。

 一つ、また一つ。

 彼が飲み込むたびに、私の罪悪感は少しずつ形を変え、強固な決意へと変わっていく。


(私は、あなたを愛している。前世の記憶の中のあなたも、今ここでボロボロになっているあなたも)


 たとえこれが、彼をさらに混乱させる独りよがりな救済だとしても。

 私は止まらない。

 この令嬢の権力。

 公爵家という巨大な盾。

 そして、前世で培った「推しを幸せにするためなら何でもする」という狂気にも似た愛情。

 そのすべてを使って、彼をこの世で最も幸福な「モブ」にしてみせる。


「美味しい……?」


 私が尋ねると、ヴァンは涙に濡れた顔で、微かに、本当に微かに頷いた。

 その小さな反応だけで、私の胸は張り裂けそうなほどの歓喜に満たされる。


「そう。よかったわ。……これからは、毎日美味しいものを食べさせるわね。あなたが『もう食べられない』と泣いて頼むまで、最高のご馳走を用意してあげる」


 ヴァンの瞳に、恐怖とは別の、捉えどころのない色が混ざる。

 彼はまだ知らない。

 私がただの「気まぐれな令嬢」ではないことを。

 彼のハートを強引に奪い去り、その人生を徹底的に甘やかすために、地獄から這い戻ってきた女であることを。


「ヴァン。今夜はここで、ゆっくり休みなさい。……大丈夫、扉の前には私が信頼する護衛イエスマンを置くわ。誰も、あなたを傷つけさせない。……私が、許さないから」


 私は彼の泥が落ちて白くなった額に、そっと指を触れた。

 彼は驚いたように瞬きをしたが、拒絶はしなかった。


 部屋を出ると、廊下にはまだ重苦しい空気が漂っていた。

 私はシニエを呼び寄せ、氷のように冷たい視線を向けた。


「シニエ。明日の朝までに、ヴァンにこれまで暴力を振るった者、暴言を吐いた者、そして食事を抜いた者のリストを作りなさい」

「……え!?」

「一人残らずよ。……公爵家わたくしの財産である従者を傷つけた罪を、じっくりと教えてあげなくてはね」


 私は、優雅に微笑んだ。

 前世の知識がある。この先の物語の展開も、誰が裏切り、誰が味方になるかも、ある程度は把握している。

 ヒロイン? 王子? そんなものはどうでもいい。

 私の目的は、ただ一つ。


 ――ヴァンの笑顔を取り戻し、彼を私の愛の牢獄に閉じ込めること。


 令嬢パワーの使い道を、私は完全に理解した。

 明日は王都で一番の仕立屋を呼び出そう。それから鍛冶師も。

 彼を、世界で一番贅沢な絹で包み込み、宝石で飾り立てる。鎧、剣。

 ボコボコにされた彼の心を、甘すぎるほどの愛という名の蜜で、ドロドロに溶かして埋めてあげるために。

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