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視界が、ぐにゃぐにゃりと歪んだ。
磁器の触れ合う繊細な音が、耳の奥で爆音となって弾ける。
手にした最高級のボーンチャイナから、琥珀色の液体が純白のドレスに零れ落ちた。けれど、熱いという感覚すら、今の私には遠い世界の出来事のように思えた。
「お嬢様!? エルフレイダ様、お気を確かに!」
侍女のシニエが悲鳴のような声を上げ、私の手からカップを取り上げようとする。
その必死な顔が、なぜか何重にも重なって見えた。
脳を、直接熱い鉄棒でかき回されているような錯覚。情報の激流が、私の意識という脆弱な器をこじ開け、無理やり流れ込んでくる。
(――ああ、そうか)
唐突に理解した。
私は、エルフレイダ・ド・ランヴォール。このランヴォール公爵家の長女であり、この国の社交界で『冷徹な氷の薔薇』と称される、高慢で身勝手な悪役令嬢だ。
そして同時に、私は別の自分を知っていた。
プライバシーという分厚い壁に囲まれた部屋で、スマートフォンの画面を指でなぞりながら、画面の向こう側の「彼」に熱狂していた、一人の日本人女性としての記憶を。
前世の私が死ぬ間際までやり込んでいた、女性向け恋愛シミュレーションゲーム『星降る夜のセレナーデ』。
攻略対象である美形王子やエリート騎士たちを差し置いて、私が異常なほどに愛してやまなかった「推し」。
メインストーリーには関わらず、ただ背景の一部として、あるいは悲劇のアクセントとして消費されるだけの、名もなき「モブ」の青年。
――ヴァン・ルースター。
記憶が結びついた瞬間、私は心臓を冷たい氷の手で掴まれたような感覚に陥った。
前世の記憶が戻る前の「私」が、この数ヶ月間、彼に対して何をしてきたのか。その断片が、鮮明な映像となって蘇ってくる。
「……あ……っ」
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れた。
シニエが慌てて私の背をさするが、その手の温もりさえ忌まわしい。
今の私を構成しているのは、高貴な公爵令嬢としてのプライドではない。自分が犯した取り返しのつかない罪に対する、吐き気を催すほどの嫌悪感だ。
思い出してしまった。
三ヶ月前。庭師見習いとして屋敷に入ったばかりの彼を見つけた時のことを。
彼は平民の出でありながら、人一倍強い光を瞳に宿していた。休憩時間には、木剣の代わりに折れた枝を振り回し、自身の家族のような悲劇を繰り返したくないと、無謀だが、騎士になるという夢を語っていた。前世の私の価値観なら、努力家の彼を愛して止まなかったはずだ。
けれど、その「光」が、この世界での私の癪に障ったのだ。
高貴な血を持たぬ者が、身の程もわきまえずに高みを目指す。その純粋さが、歪んだ特権意識にまみれた私の目には、ただの不快な雑音にしか映らなかった。
『ねえ、ヴァン。あなたのその振る舞い、滑稽だと思わないかしら?』
私の声が、脳内でリフレインする。
冷たく、針のように尖った、最低の嘲笑。
私は彼の家系がどれほど貧しく、病弱な妹を抱えているかを知りながら、その弱みに付け入った。
彼が唯一の心の拠り所にしていた「騎士への夢」を、権力という名の泥靴で、徹底的に踏みにじったのだ。
『あなたが剣を振るうたびに、この庭の美しい景観が汚されるの。土の匂いのする平民が、騎士の真似事なんて。……もし次にその枝を振ったら、妹さんの薬代、公爵家からの支援を打ち切らせていただくわね』
あの日、ヴァンの顔から血の気が引いていく様を見て、私は酷いほどの愉悦を感じていた。
彼が膝をつき、震える手でその枝を地面に置いた時、私は追い打ちをかけるように言ったのだ。
『いい? あなたは一生、土をいじって、私たち(貴族)の足元で身分をわきまえ、這いつくばっていればいいのよ。それが、あなたのような無価値な人間たちに与えられた、唯一の価値なんだから。ンフフ♪』
――最悪だ。
思い出すだけで反吐がが出る。自分の指先を切り落としてしまいたい衝動にすら駆られる。
ヴァン・ルースター。
ゲームの中では、どのルートを選んでも最終的に戦火に巻き込まれて死んでしまう、悲運のモブ。
私は彼を救いたくて、二次創作を膨らませ、彼が幸せになる世界線を夢見ていたはずなのに。
この世界の私は、彼が死ぬよりも酷い方法で、その「魂」を真っ先に殺してしまった。
「お嬢様、顔色が真っ青です! すぐに医者を、ハリス先生を呼びますわ!」
「待ちなさい……シニエ」
私は震える手でシニエの腕を掴んだ。
医者なぞ呼んでいる暇はない。
今、この瞬間も、彼はどこかで絶望の淵に沈んでいる。私が彼をそこへ突き落としたのだ。
「ヴァンは……。ヴァン・ルースターは今、どこにいるの?」
「えっ……!? だ、誰ですか!? ああ! あの庭師見習いの! あの無礼な平民のことですか? お嬢様のご命令通り、今は裏庭の、日が当たらない廃材置き場の整理をさせておりますが……」
シニエの言葉に、奥歯がガタガタガタガタと鳴った。
廃材置き場。そこは、日当たりが悪く、湿気に満ちた、屋敷の中でも最も劣悪な環境だ。
かつて、あんなに美しく輝いていた彼の銀髪が、あんなに力強かった彼の背中が、今どうなっているか。想像するだけで胸が押し潰れそうになる。
私は立ち上がった。
ドレスに染み付いた紅茶の汚れなど、そんなもの、今の私にはどうでもいい。
「お嬢様!? どちらへ行かれるのですか、そのお姿で! すぐにお着替えをご用意致し……」
「案内して。今すぐに。ヴァンのところへ」
「……で、ですが、あんな汚らわしい場所へお嬢様が行かれるなんて……」
「黙りなさい!」
鋭い一喝にシニエが肩を跳ねさせた。
その怯えた表情を見て、私はさらに自己嫌悪を募らせる。私は、周りの人間すべてをこうして恐怖で支配してきたのだ。
だが今は謝っている時間さえ惜しい。
私は部屋を飛び出し、回廊を走った。
無駄に重厚なドレスの裾が足に絡み、息が切れる。
普段なら決して通ることのない、使用人用の細い通路を抜け、屋敷の裏手へと向かう。
整えられたバラの庭園を通り過ぎる時、色とりどりの花が私の心を責めているように見えた。
『お前のような人間に、この花を愛でる資格があるのか』と語りかけてきているようだった。
裏庭の隅。
古い納屋の裏手に、その場所はあった。
積み上げられた朽木、泥にまみれた石材。湿った土の匂いと、カビの匂いが混ざり合う、陰鬱な空間。酷い場所……。
そこに彼はいた。
「……あっ……」
声にならない悲鳴が、喉に張り付いた。
そこにいたのは、かつての彼ではなかった。
磨き上げられた銀色だったはずの髪は、埃と泥にまみれてくすんでいる。
がっしりとしていた肩は、幽霊のように薄く削げ、泥だらけのシャツが不自然に浮いていた。
彼は、重い石材を運ぼうとして、ぬかるんだ地面に足を取られ、膝をついていた。
かつて、あれほどまでに誇り高く、不屈の輝きを放っていた彼の瞳。
今は、その中には何もなかった。
光も、怒りも、悲しみさえも。
ただ、ただ、空虚な闇だけがそこにある。
彼は私が近づく気配に気づくと、ビクリと全身を震わせ、這いつくばるようにして頭を地面に擦り付けた。
「も、申し訳ございません……エルフレイダ様……。すぐに、すぐに片付けますから……。どうか、どうか妹には……。食事を、抜かないでください……」
掠れた力のない声。
それは誇りを奪われ、尊厳をズタズタに引き裂かれた人間の、絞り出すような命乞いだった。
私は絶句した。
私がやったのだ。
私がこの美しかった魂を、ここまでボコボコに叩き潰したのだ。
ゲームをプレイしていた時の私は、彼が少しでも画面に映るたびに『ああ、今日もヴァンは生きていて偉い』『幸せになってほしい』と願っていたのに。
今の私は、彼にとって悪魔よりも恐ろしい加害者でしかない。
「……ヴァン」
名前を呼ぶ。その響きさえ、彼にとっては恐怖の合図なのだろう。
彼は地面に額を押し付けたまま、指先を白くなるほど握りしめていた。
「申し訳ございません……。私の不手際です……。何をされても構いません……。ですが、どうか……」
もういい。
これ以上、彼にこんな言葉を吐かせてはいけない。
私は泥のぬかるみなど構わず、一歩を踏み出した。
シニエが「お嬢様!」と背後から止める声を無視して、彼の前に膝をつく。
高級なシルクのドレスが泥を吸い、重く汚れていくが、そんなものはヴァンの失ったものの万分の一の価値もない。
「ヴァン。顔を上げなさい」
できるだけ穏やかに言おうとしたが、罪悪感で声が震えてしまった。
彼は震えながら、恐る恐る顔を上げた。
至近距離で見るその顔は、さらに惨かった。頬はこけ、唇は渇いてひび割れている。
私の心の中で何かが決壊した。
この世界が、私がかつて愛したゲームの世界だというのなら。
そして、私がこの世界最強の権力を持つ公爵令嬢だというのなら。
――今度は、そのすべてを使って、彼を救い上げる。
たとえ彼が私を憎んでいても。
たとえ彼が二度と心を開かなかったとしても。
私は令嬢の力をすべて注ぎ込んで、彼を甘やかし、癒し、再びあの輝きを取り戻させてみせる。
それが彼の心を奪い取るという名の、私の身勝手な償いだ。
「ヴァン・ルースター。これより、あなたの仕事を変えます」
私は彼の泥だらけの手を、自分の白い手で強く包み込んだ。
彼は驚きで目を見開き、凍りついたように動かなくなった。
「あなたは今日から、私の『専属従者』です。この場所から離れ、私のすぐ傍で、私に仕えなさい。……いいえ、仕えさせるのではないわ。私が、あなたを本来あるべき姿に戻してみせる」
ヴァンの瞳に、戸惑いと、それ以上に深い絶望の色が走る。
彼はきっと、私が新しい遊び(拷問)を思いついたのだと思っているに違いない。
構わない。そう思われても。
これから分からせてあげる。
令嬢(私)の本気を。
前世で培った「推し」への無尽蔵の愛と、この世界での圧倒的な財力と権力。
そのすべてを叩きつけて、あなたのボロボロになったハートを、強引に、甘やかして、奪い取ってあげるから。
「シニエ、屋敷へ戻るわよ。一番良い客室を用意しなさい。それから、ハリス先生だけでなく、王都で一番の治癒術師と、最高の料理人を呼び集めて」
私はヴァンの手を離さず、ゆっくりと立ち上がった。
震える彼を抱きしめるには、今の私はまだ、あまりに「汚れた加害者」すぎる。
だから今は、その手だけを離さない。
「さあ、行きましょう、ヴァン。あなたの地獄は、今この瞬間に終わったのよ。……これからは、私という名の執着に、覚悟してもらうわ」
泥の中に跪いていた銀色の青年を、私は強引に引き上げる。
これが私と、私が壊してしまった「最推し」との、歪で必死な恋の始まりだった。




