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ヴァンの特訓が始まってから、二週間が経過した。
公爵家の潤沢な資金と、私の並々ならぬ執着(愛)が注ぎ込まれた結果、ヴァンの変貌ぶりは目覚ましかった。
頬の削げ落ちは消え、魔法薬と高タンパクな食事によって、その肢体にはしなやかな筋肉がつき始めている。くすんでいた銀髪は、今や月光を孕んだ絹糸のような輝きを取り戻し、時折見せる真剣な眼差しは、修行中の身とは思えないほどの覇気を纏っていた。
「……よし、今日はここまでだ。ヒョロガキ、少しはマシな面構えになってきたな。まあまあだ。この調子だぞ」
ライナスの荒々しい声と共に、午前中の稽古が終了する。
私は今日も今日とて、特注の観覧席(もはや冷房魔法陣付きの小部屋と化している)から、ヴァンの勇姿を網膜に焼き付けていた。これがマイルーティンだ。
「お疲れ様、ヴァン。さあ、こちらへ。今日は冷たいマスカットの果実水を使ったかき氷と、特製の冷製肉料理を用意させてあるわ」
「……はい、エルフレイダ様。いつも、ありがとうございます」
ヴァンがこちらへ歩み寄ってくる。その足取りは以前のような卑屈なものではなく、まだ戸惑いはあるものの、しっかりと大地を踏み締めていた。
滴る汗を私が自らシルクのハンカチで拭ってあげると、彼は「自分でおこないますから!」と顔を真っ赤にして固辞する。その反応さえも、前世の推し活では決して得られなかった至高の栄養素だ。
そんな至福の時間をぶち壊すように、家令のハリスが顔を青くして現れた。その手には、王室の紋章が刻印された、不吉なほど真っ白な封書が握られている。
「お嬢様、王立『セレスティア魔法学園』より、新学期の登校指示と……例の『社交界の夜会』への招待状が届いております」
その瞬間、私の頭の中に、前世でプレイした『星降る夜のセレナーデ』の忌まわしきシナリオが鮮明に蘇った。
(――学園編。ついに来たわね、この時が)
学園。それは、悪役令嬢エルフレイダ・ド・ランヴォールが破滅へと突き進む、悲劇のメインステージ。
そして何より。
この物語の「本来の主人公」であり、この世界の「光」を一身に浴びる聖女、セフィリア・ルナ・ベルモンドが登場する場所だ。
「……お嬢様? 顔色が優れませんが、やはり学園は……」
「いいえ。行くわよ、当然でしょう? 逃げるなんて私の辞書にはないわ」
私は招待状を奪い取るように受け取ると、鋭い視線をヴァンに向けた。
ゲームのシナリオ通りなら、セフィリアは学園で、その圧倒的な慈愛と魔力によって、攻略対象の王子たちを虜にしていく。そして、その影で虐げられていた「モブ」たちも、彼女の優しさに触れて救われていくのだ。
……冗談じゃない。
ヴァンの傷ついた心を癒し、彼に希望を与え、彼の人生を甘やかし尽くすのは、この「私」の独占業務だ。
セフィリアという名の「光」が、私のヴァンを浄化して連れ去るなど、万に一つも許さない。
「ヴァン。あなたも一緒に行くのよ。……私の『専属騎士候補』として」
ヴァンの瞳が大きく揺れた。
「学園へ……ですか? ですが、私はまだ、木剣を振るうことしかできない半人前です。貴族の子弟が集まるあのような場所に、私が行けば、お嬢様の泥を塗ることになります……」
「泥を塗る? いいえ、逆よ。私はあなたを、この学園で最も輝く『盾』としてお披露目するつもりなの。……ヴァン、あなたは私の誇りだと言ったでしょう? 誰に何を言われようと、私の傍に立ち続けなさい。それが、私への一番の償いよ」
私は彼の襟元を整え、わざと指先を彼の首筋に這わせた。
彼を鎖で繋いでおくことはできない。だからこそ、逃れられないほどの「執着」と「特別感」を植え付ける。
「学園にはね、セフィリアという名の……とても『目ざわりな』聖女様がいるのよ。彼女は誰にでも優しく微笑み、誰の傷でも癒そうとするでしょう。……でも、ヴァン。あなたは騙されてはいけないわ。彼女の光は、あなたの暗闇を本当には知らない。あなたの痛みを知り、それを愛しているのは、世界中で私だけなのよ」
私の言葉は、もはや洗脳に近いかもしれない。
自分でも歪んでいる自覚はある。けれど、彼を失う恐怖に比べれば、狂っていると言われることなど、そよ風のようなものだった。
「……分かりました。お嬢様がそう望まれるのであれば……私は、どこへでも。あなたの影として、お供します」
ヴァンは深く頭を下げた。その声には、以前のような絶望ではなく、かすかな執念が混じっていた。
────
数日後。
私たちは学園へと向かう豪華な馬車の中にいた。
公爵家の紋章が誇らしげに輝く馬車。その中、私の向かいに座るヴァンは、これまた特注の「騎士見習い用礼装」に身を包んでいる。
銀の刺繍が施された濃紺のジャケットは、彼の清廉さを際立たせ、まだあどけなさが残る顔立ちをキリリと引き締めていた。
「緊張しているの?」
「……はい。私のような者が、この馬車に乗っていること自体、何かの間違いではないかと思ってしまいます」
「間違いじゃないわ。これは、あなたが手に入れた正当な場所よ。……さあ、着いたわ」
学園の門をくぐると、そこには色とりどりのドレスを纏った令嬢たちや、華やかな制服に身を包んだ貴族の青年たちが溢れていた。
彼らの視線が、一斉に私たちの馬車へと注がれる。
『冷徹な氷の薔薇』エルフレイダ・ド・ランヴォール。この私が、見たこともないほど美しい銀髪の青年を伴って現れたのだ。喧騒が波のように広がっていくのが分かる。
「見て、あの方……ランヴォール家の令嬢だわ。お隣にいるのは誰かしら? あんなに美しい騎士、今まで見たことがないけれど……」
「平民という噂よ。彼女の気まぐれで拾われた、ただの庭師だとか……」
ヒソヒソと囁かれる不躾な言葉たち。
私はヴァンの手を強く握った。彼の指先がわずかに冷えている。
「ヴァン。顔を上げなさい。あなたは私のものよ。……石ころたちが何を言おうと、気にする必要はないわ」
私が威厳を保って校舎へと歩き出した、その時だった。
「――お困りのようですね。そんなに怯えていては、せっかくの美しい顔が台無しですよ?」
空気を浄化するような、透き通った声。
人混みが割れ、そこから一人の女性が現れた。
太陽の光をそのまま集めたような金色の髪、海よりも深い碧眼。纏っているのは質素な学園の制服だが、その周囲には神々しいまでの魔力の粒子が漂っている。
セフィリア・ルナ・ベルモンド。
この世界のヒロインが、ついに私たちの前に姿を現した。
彼女はまっすぐにヴァンの元へ歩み寄ると、驚く彼の手を、信じられないほど自然な動作で取った。
「あなたの魂が、とても悲しい色をしています。……大丈夫ですよ。この学園は、すべての者に平等で、温かい場所ですから。私が、あなたの力になります」
セフィリアの微笑みは、まさに聖女のそれだった。
彼女の手から放たれる微かな「癒しの魔力」が、ヴァンの全身を包み込もうとする。
ヴァンの瞳が、驚きと戸惑いで大きく見開かれた。彼にとって、自分を無条件で肯定し、癒そうとする存在は、エルフレイダ(加害者である私)以外には初めての経験だっただろう。
(……やらせるわけ、ないでしょう?)
私の内側で、真っ黒な感情が爆発した。
前世の知識が、理性が、叫んでいる。ここで彼女を怒らせてはいけない、彼女は世界の中心なのだと。
けれど、そんなことはどうでもいい。
彼女の指が、ヴァンの肌に触れている。その事実だけで、私は今すぐにこの世界を滅ぼしたいほどの衝動に駆られた。
「――そこまでになさって、ベルモンド準男爵令嬢」
私は一歩前に出ると、ヴァンの手を彼女から強引に引き剥がし、そのまま彼を私の背後に隠した。
「公爵家の所有物に、許可なく触れるのは感心しませんわね。……ましてや、身分をわきまえぬ平民が、私の専属騎士に『救済』を騙るなど、滑稽を通り越して不愉快だわ」
セフィリアは驚いたように目を瞬かせた。
「エルフレイダ様……。私は、ただ彼が苦しそうに見えたので、少しでも癒しになればと……」
「癒し? そんな安っぽい魔力で何が変わるというの? 彼の苦痛も、彼の絶望も、すべては私が与え、私が責任を持って管理するものよ。……余計な光を当てないでちょうだい。彼は、私の影の中でしか、正しく息をすることができないのだから」
私の言葉に、周囲から悲鳴のような息を呑む音が上がった。
ヴァンの背中に伝わる私の体温。彼は私の背中の後ろで、震えながらも、私の服の裾を強く、強く握りしめていた。
「ヴァン、行くわよ。……ここは空気が悪すぎて、吐き気がするわ」
私はセフィリアをゴミのように見据えると、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。
背後で、聖女の悲しげな視線を感じる。
そして、ヴァンが私の背中越しに、一瞬だけセフィリアを振り返ったのを、私は確信していた。
(絶対に。絶対に、あいつには渡さない。……彼がどんなに光を求めたとしても、私はその光をすべて叩き割って、私の闇の中へ閉じ込めてあげる)
前世の記憶が戻る前の「私」がボコボコに刺し殺した彼の心。
その穴を埋めるのは、聖女の癒しなんかじゃない。
私の、狂気じみた執着と、溢れんばかりの令嬢パワーだけなのだから。
でも何故だろう。この世界での私の存在が、本心を出せば出すほど、馴染んでいくような気がしてならなかった。




