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 嘆きの平原に、勝利のときの声が止むことはなかった。

 二万の王都軍を退け、聖騎士団長ガブリエルを打ち破ったランヴォール公爵軍。戦場に転がる白銀の甲冑は、もはや「正義」の象徴ではなく、古臭い時代の残骸に過ぎなかった。


 私は、戦後の処理をライナスと父に任せ、ヴァンの手を取って本陣の奥へと戻った。

 彼の黒い騎士服は、返り血と泥、そして聖騎士の光に焼かれた焦げ跡でボロボロだったが、その瞳だけは以前よりも深く、くらい輝きを増している。


「……お疲れ様、ヴァン。怪我を見せて」


 私は震える手で、彼の鎧の繋ぎ目を外していく。

 剥き出しになった彼の肩や腕には、ガブリエルの光の刃が刻んだ深い裂傷が幾筋も走っていた。普通の人間なら叫び出すような痛みのはずだ。だが、ヴァンはただ愛おしげに私の顔を見つめている。


「……痛みなど、感じません。……あなたがこうして、私のために心を痛めてくださる。その事実が、私の傷を何よりも早く癒やす薬ですから」


「……この、馬鹿。……本当に、あなたは私のために壊れてしまうつもりなのね」


 私は魔法薬を浸した布で、彼の傷を丁寧に拭う。

 血の匂い。鉄の匂い。そして、戦場の狂熱。

 かつての「悪役令嬢」としての破滅エンドは、もうどこにもない。けれど、今の私たちは、物語のどのページにも記されていない「修羅の道」を歩んでいた。


──


 一方、敗走した第一王子ライナルトと聖女セフィリアは、夜を徹して王都へと逃げ戻っていた。

 王城の謁見の間。そこには、かつての威厳を失い、恐怖に震える国王と、狂気の色を帯びた重臣たちが集まっていた。


「……公爵家が、これほどの力を隠し持っていたとは。……あの銀髪の青年は、もはや人間ではない。……魔女エルフレイダが、古の悪魔の魂でも呼び出したのではないか!?」


 国王の震え声に、ライナルトは拳を強く握りしめた。

 彼の隣で、セフィリアは虚ろな瞳で虚空を見つめている。彼女の純白だった法衣はボロボロに裂け、その肌にはヴァンの影に侵食された黒い紋様が、消えることなく浮かび上がっていた。


「……陛下。……もはや、通常の武力ではあの二人を止めることは不可能です」


 ライナルトが、絞り出すような声で言った。


「ランヴォール公爵領は完全に独立を宣言しました。……彼らは王命を拒み、自らを『楽園』と称している。……このままでは、周辺の領主たちも公爵家に寝返るでしょう。……王国は、内側から崩壊します」


「……ならば、どうすればいい!?」


 その問いに答えたのは、国王でも王子でもなかった。

 膝をついていたセフィリアが、ゆっくりと立ち上がったのだ。


「……一つだけ、方法があります。……王家に伝わる、建国の祖が封印した『神罰の聖杯』を……。……あれを、私に与えてください」


 広間が凍りついた。

 神罰の聖杯。それは、かつてこの大陸を支配していたドワーフ達が、神を封じ込めるために作られた、呪いの器。それを使えば、一国を滅ぼすほどの奇跡を起こせると言われるが、代償として使用者の魂と、その地に住まう人々の「命の輝き」をすべて吸い尽くすとされている。


「セフィリア! 何を言っている!? あれは禁忌中の禁忌だ!」


「……殿下。……彼は、ヴァンさんを救われなければならないのです。……あんな邪悪な魔女に魂を縛られたままでは、彼は死んでも天国へは行けない。……私が、この国のすべてをにえに捧げてでも、彼を『清めて』あげなければならないのです……」


 セフィリアの瞳に、黄金色の炎が灯る。

 それは慈愛の光ではなく、すべてを焼き尽くすまで止まらない、狂信の炎だった。


────


 嘆きの平原での勝利から一週間。

 私は、父ジェラルド公爵と共に、領地内の「黒曜宮」で重大な決断を下していた。


「……王都が『聖杯』の封印を解いた、という情報は確実ね?」


「はい、お嬢様。王都周辺の村々では、人々が突如として意識を失い、その生命力が吸い上げられているとの報告が入っています。……空は異常な紫色に染まり、聖なる結界が王都全体を覆い始めています」


 私は地図を広げ、王都の位置を指先で強く叩いた。


「……待っていても滅びが来るだけなら、こちらから打って出るまでよ。……お父様、徴兵した領民たちを解散させる必要はありません。……今この瞬間をもって、ランヴォール公爵家は現王政の『廃絶』を宣言します」


 父は、私の言葉に不敵な笑みを浮かべた。


「面白い。……公爵家の反乱ではなく、新たな国家の樹立というわけか。……エルフレイダ、お前の描く『楽園』に、あの腐りきった王都は不要だな」


「ええ。……ヴァン、準備はいいかしら?」


 私の傍らに立つヴァンが、静かに剣を抜いた。

 彼の剣は、今日の戦いに備え、領内の最高位の鍛冶師たちが伝説の魔鉱石を用いて鍛え直したものだ。


「……準備はできています、お嬢様。……敵が神を呼び出すなら、私はそれを斬り裂く悪魔になりましょう。……あなたの行く道を塞ぐものは、たとえ天の理であっても許さない」


 公爵領の全戦力が動き出した。

 黒鴉従士団を先頭に、漆黒の軍旗を翻した軍勢が、王都へと向かって進軍を開始する。

 街道を埋め尽くす兵士たちの士気は、かつてないほど高まっていた。彼らは知っている。自分たちの後ろには、自分たちを「一人の人間」として扱ってくれた、気高くも残酷な公爵令嬢がいることを。


────


 三日後。

 王都・セントラルゲートの前に、公爵軍が到着した。

 だが、そこにあるはずの活気ある都の姿はなかった。


 巨大な城壁は、内側から溢れ出す不気味な黄金の光によって透過し、都全体が巨大な「まゆ」に包まれているかのような異様な光景。

 門を守る兵士たちの姿もない。ただ、城壁の上には、魂を抜かれたように立ち尽くす聖騎士たちが、無機質な視線をこちらに向けていた。


「……あれは、もう人間じゃないわね」


 私は馬車から降り、ヴァンの肩を借りて最前線に立った。

 空からは黄金の粉のようなものが降り注ぎ、肌に触れるたびに魔力が吸い取られていく感覚がある。


「――エルフレイダ・ド・ランヴォール……。……そして、私のヴァンさん……」


 繭の中心、王城の天守閣から、セフィリアの声が響き渡った。

 その声はもはや一人の少女のものではなく、数千、数万の人間の悲鳴が混ざり合ったような、おぞましい響きを持っていた。


「……よく来てくれました。……さあ、この『神の国』へ入りなさい。……ここで、すべての苦しみ、すべての執着を捨てて、一つになるのです。……ヴァンさん、あなたを縛るその魔女を、私が今ここで、光の塵に変えてあげます!」


 次の瞬間、繭が弾けた。

 王都全体から集められた莫大な魔力が、一本の巨大な光の槍となり、私の本陣を目掛けて真っ直ぐに突き落とされた。


「――『拒絶せよ』!!」


 ヴァンの絶叫が響く。

 彼は私の前に立ち、両手を広げた。

 彼の背中から、地を這うような漆黒の影が噴出し、それが渦を巻いて巨大な「盾」へと形を変える。


 ドォンッ!!!


 世界が白一色に染まり、衝撃波で周囲の地面が数百メートルにわたって陥没した。

 だが、私は無傷だった。

 ヴァンの影が、その絶望的な光をすべて受け流し、あるいは喰らい尽くしていた。


「……ヴァン、大丈夫!?」


「……っ、ふ……。……あの方が神を呼ぶというのなら、……私は、あなたの愛だけを頼りに、その神の喉笛を掻き切ってみせます」


 ヴァンの肌から、黒い血管のような紋様が浮き上がり、彼の指先が鋭い爪のように変質していく。

 禁忌の力を使い始めたセフィリアに対抗するために、ヴァンもまた、自分の中にある「人間」の部分を捨て始めようとしていた。


───


「全軍、突入!!」


 私の命令と共に、黒鴉従士団が崩壊した王都の門へと雪崩れ込んだ。

 

 王都の街並みは、もはや地獄絵図だった。

 街路には、魔力を吸い尽くされて干からびた市民たちが転がり、その上を「神の使い」と化した、意志を持たない聖騎士たちが徘徊している。


「……これが、あなたの守りたかった『平和』なの、セフィリア?」


 私はヴァンの影に守られながら、王城へと続く大階段を駆け上がる。

 ライナスが聖騎士たちをなぎ倒し、ヴァンが伏兵を処理していく。


 階段の頂上、謁見の間。

 そこには、ライナルト王子達の亡骸(彼もまた、聖杯の贄にされたのだろう)を足元に転がし、黄金の液体が溢れる「聖杯」を掲げたセフィリアが待っていた。


 彼女の背中からは、無数の光の触手が伸び、それが王城の柱や壁に食い込んで、彼女自身が城と一体化しているかのようだった。


「……さあ、ヴァンさん。……あんな女の手を離して、私の元へ。……私の光の中で、永遠に眠りましょう?」


 両目が黄金輝くセフィリアが微笑む。その唇からは、黄金の血が滴り落ちていた。


「……黙れ!」


 ヴァンが、一歩、また一歩と彼女へ近づく。

 彼の周りの空気が、あまりの魔力の密度にバチバチと放電している。


「俺に安らぎなどいらない。……俺が欲しいのは、お嬢様が与えてくれる苦しみと、悦びと、……そして彼女の瞳に映る俺自身の姿だけだ。……お前の光は、俺には眩しすぎて、何も見えないんだよ!」


 ヴァンが跳んだ。

 影の刃と、神罰の光が、王城の最上階で激突する。

 

 その余波で王城の天井が吹き飛び、紫色の雷鳴が轟く空が露出した。

 私は、崩れゆく壁を背に、その死闘を見つめていた。


(……ああ。これが、私の物語のクライマックス。……悪役令嬢として、聖女として、……そして一人の男を愛した女として。……結末は、今この瞬間、私たちの手で書き換えられる!)


 王都崩壊。

 偽りの平和が終わり、新しい「悪役たちの時代」が、産声を上げようとしていた。

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