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 境界の門を濡らしていた銀の雨が上がり、ランヴォール公爵領には不気味なほど美しい月光が降り注いでいた。

 戦場となった荒地には、王宮騎士団が遺していった壊れた盾や折れた槍が散乱し、勝利した公爵領の兵士たちの歓声が夜の静寂を切り裂いている。


 だが私は、その狂乱の輪から離れ、黒曜宮のバルコニーで一人、冷えた夜気に身を晒していた。

 私の隣には、戦いを終えたばかりのヴァンが、依然として抜身の剣のような鋭さを保ったまま控えている。


「……お嬢様。冷えます。中へお戻りください」


 ヴァンが自分の外套を脱いで私の肩にかけた。

 外套にはまだ、彼が戦場で浴びた雨の匂いと、微かな鉄の匂い――返り血の香りが染み付いている。普通の令嬢なら顔を背けるようなその匂いが、今の私にはどんな高級な香水よりも芳しく、そして安心できるものに感じられた。


「いいのよ、ヴァン。……この勝利の余韻を、もう少しだけ味わっていたいの。……ねえ、ヴァン。あなたが今日見せたあの力……雨を影に変える魔法。あれは一体……」


 ヴァンは自分の掌を見つめ、ゆっくりと指を曲げた。


「……分かりません。ただ、聖女様の光があなたを否定しようとした時、私の内側で何かが、激しく拒絶の声を上げたのです。……『あんな眩しいだけの嘘に、大切な人を触れさせてはならない』と。……そう願った瞬間、周囲の雨が私の体の一部になったかのように感じられました」


 私はヴァンの手に、自分の手を重ねた。

 かつては冷たく、凍傷で死にかけていたその手が、今は私の心臓よりも熱い鼓動を刻んでいる。


(……ああ、やっぱり。私の推しは、逆境でこそ進化する。聖女の介入という『本来のイベント』が、ヴァンの中にある潜在的な魔力を、私への執着という形で開花させたんだわ)


 私は内心でガッツポーズを決めたい衝動を抑え、優雅な微笑みを浮かべた。


「それは、あなたが私を強く求めてくれた証拠ね。……素敵よ、ヴァン。あなたは今日、本当の意味で私の『真の騎士』になったのよ」


────


 黒曜宮の広間では、父ジェラルド公爵の主催による祝宴が始まっていた。

 並べられたのは、王都のそれよりも野性的で贅を尽くした料理の数々。領地の重鎮たちや、今回の戦いで功績を挙げた騎士たちが、並々と注がれた深紅のワインで乾杯を繰り返している。


「――エルフレイダ。そしてヴァン。よくやった」


 父が、一段高い席から私たちを招き寄せた。

 その隣には、軍事顧問として呼び戻されたライナスの姿もある。ライナスは、正装を纏ったヴァンを見て、ニヤリと不敵に笑った。


「ははっ。あの庭師坊主が、王宮の精鋭を一蹴したってな。……俺の教え方が良かったのか、お嬢様の愛(毒)が効きすぎたのか」


「両方ですわ、ライナス。……お父様、王家の動きはどうなっていますか?」


 父はワインを一口飲み、その瞳に冷酷な光を宿した。


「ライナルトの馬鹿は、這々の体で王都へ逃げ帰った。……だが、問題は聖女セフィリアだ。彼女は今日、初めて『救えない魂』に直面した。それが彼女をより狂信的な方向へ突き動かすだろう。……王都の情報筋によれば、王家はついに『聖騎士団』の出動を検討し始めたようだ」


 その言葉に、広間がしんと静まり返った。

 聖騎士団。

 それは、教会の直属であり、王家を守護する「奇跡の武力」。彼らは一人が十の兵に匹敵すると言われ、その全員が聖女の加護を直接受けることができる、いわば「光の軍勢」だ。


「聖騎士団……。ゲームでは、物語の終盤に悪役令嬢を処刑させる為に連行するだけの存在だったはず……」


 私は記憶を辿る。

 彼らの団長、ガブリエル・ド・フォンテーヌ。

 彼はセフィリアに絶対の忠誠を誓う狂犬であり、悪役を「塵一つ残さず浄化する」ことを至上の喜びとする、ある意味で私に似た……いや、私以上に偏った男というキャラ設定だ。


「……ヴァン、怖いかしら?」


 私が尋ねると、ヴァンは私の背後で、静かに、けれど鋼のような強さで答えた。


「相手が神の使いであろうと、私の主人の敵であることに変わりはありません。……私は、あなたの盾として作られました。……盾が壊れる時は、私がこの世から消える時だけです」


「……ふん。相変わらず重い言葉を吐きやがる。……お嬢様、この坊主……いや、ヴァン殿の魔力は、今日の一戦で変質していました。これからは、より専門的な『対光輝魔法』の訓練が必要だ」


 ライナスの提案に、私は深く頷いた。

 

「ええ。領内の予算を、対光輝武装と訓練に回してちょうだい。……聖騎士団が来るというのなら、受けて立ちましょう。……私たちは、この領土を『神すら届かない、悪役の楽園』にするのだから」


────


 所変わって、王都・大聖堂。

 ステンドグラスから差し込む冷たい月光が、祭壇の前で跪く女性の姿を照らしていた。


 セフィリア・ベルモンド。

 聖女と呼ばれ、慈愛の象徴とされた彼女の瞳からは、かつての輝きが消え失せていた。

 彼女の指先は、祈りすぎて赤く腫れ、その唇からは、呪詛にも似た言葉が漏れ出している。


「……なぜ。……なぜ、私の光が、あんな平民の青年に届かなかったの?」


 彼女の脳裏には、雨の中で自分を拒絶したヴァンの冷徹な瞳が焼き付いて離れない。

 そして、その傍らで自分を嘲笑ったエルフレイダの姿。


「……彼は、迷っているだけ。……あの悪魔のような女が、彼の耳元で毒を囁き、その魂を縛り付けている。……私が彼を解放してあげなければ。……たとえ、彼の肉体を一度壊してでも、その魂を光の中に連れ戻さなければ……!」


 セフィリアが立ち上がると、その背後に一人の男が影のように現れた。

 白金の鎧を纏い、背中には巨大な十字の剣を背負った男。


「――聖女様。お呼びでしょうか」


 聖騎士団長、ガブリエルだ。彼はセフィリアの前に跪き、彼女の泥に汚れたドレスの裾に接吻した。


「ガブリエル。……ランヴォール公爵領には、恐ろしい悪魔が潜んでいます。……私の光を拒み、この国を闇に染めようとするまがつの魔女と、その下僕。……あなたは、彼らを裁くことができますか?」


 ガブリエルは仮面のような無表情の下で、狂気的な笑みを浮かべた。


「……仰せのままに。……聖女様の光を曇らせる者は、すべて私が、この剣で浄化いたしましょう。……公爵領ごと、火に焼いて差し上げます」


「……ええ。お願い。……ヴァンさんを、私の元へ。……魂だけで構わないから、私の元へ連れてきて」


 聖女の「祈り」が、完全なる「執念」へと変貌した瞬間だった。

 彼女は今、自分こそが正義であると信じ、その正義を遂行するために、世界を焼き尽くす覚悟を固めたのだ。


────


 一方、ランヴォール公爵領。

 宴が終わり、静まり返った北の塔。


 私はヴァンの寝室で、彼の背中の傷に、新しい薬を塗っていた。

 今日の戦いで無理な魔力運用をしたせいか、彼の体は微かに熱を持っている。


「……痛くない、ヴァン?」


「……お嬢様の手が触れているだけで、すべての苦痛が消えていきます。……不思議です。以前、庭師として殴られていた時の痛みは、あんなに憎かったのに。……今の、戦いの中での痛みは……あなたが私を見てくれているという、証のように感じてしまうのです」


 ヴァンが、シーツの上に投げ出した私の手を取り、その手のひらに顔を埋めた。


「お嬢様。……もし、私が人間ではなくなってしまったら。……あなたの影に完全に溶け込んで、心すら失ってしまったら。……その時は、あなたが私を終わらせてください」


 ヴァンの言葉は、重く、そして甘美な呪いようだった。

 私は彼の銀髪を優しく梳き、その耳元で、最も残酷な「愛」を囁いた。


「いいえ。……あなたが人間でなくなっても、心のない人形になっても、私はあなたを手放さないわ。……あなたが壊れたら、私が私の魔力で、あなたを繋ぎ止めてあげる。……あなたは一生、私の所有物であり、私の神様なのよ」


 ヴァンの体が、歓喜に震えるのが分かった。

 

(――ああ。尊い。尊すぎて、もう何もいらない。王家も、聖騎士団も、この幸せを壊すものはすべて、私たちの愛(毒)で塗り潰してあげる)


 窓の外では再び雨が降り始めていた。

 だが、それはもう「銀の雨」ではない。

 私たちの契約を祝福するような、漆黒の夜の涙だった。


 公爵令嬢の私に魂を売った騎士ヴァン。

 私たちの「悪役としての反逆」は、いよいよ国家を、そして運命を揺るがす最終局面へと突き進んでいく。


しかしなぜだろう。聞こえるはずもない金属の擦り合うような音が、聞こえていたような気がした……。

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