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空は重く垂れこめ、数日前から降り続く雨がランヴォール公爵領の峻厳な山々を銀色に染めていた。
領地の境界にそびえ立つ「断絶の鉄門」。かつてこの門をくぐり抜ける者は、公爵家の威光に震えたというが、今、門の向こう側にはそれ以上の「圧力」が満ちていた。
白銀の甲冑に身を包んだ王宮騎士団。そしてその中心には、雨の中でも汚れることのない純白の天幕と、黄金の聖印を掲げた馬車。
第一王子ライナルト、そして聖女セフィリアが率いる「異端討伐軍」――それが、彼らが自らに与えた名目だった。
「……お嬢様。空気が、震えています」
門の上の回廊で、ヴァンが私の隣に立ち、雨のカーテンの向こうを見据えて言った。
彼の纏う漆黒の外套は雨を吸って重くなっているはずだが、その立ち姿は一本の抜き放たれた剣のように鋭い。
「聖女様の祈り……いえ、魔力ね。あの方、本気でここを『浄化』するつもりだわ。……ヴァン、怖くない?」
私は彼の手を握った。冷たい雨の中でも、彼の掌だけは驚くほど熱い。
「いいえ。……むしろ、心が静かです。……あの雨の向こうにある光が、どれほど正しくても、私の居場所はここしかないと、確信していますから」
ヴァンは私の指先を一本ずつ、確かめるように握り直した。
その時、対峙する軍勢の中から、一騎の馬が進み出てきた。ライナルト王子ではない。……聖女セフィリア自身だ。
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セフィリアは傘も差さず、馬にまたがってこちらを見上げていた。
彼女の周囲だけは、雨粒が避けるように弾かれている。聖女の加護。それはあまりに神々しく、守壁に並ぶ我が家の兵士たちの中にも、思わず気圧されて十字を切る者がいた。
「エルフレイダ様! そして、ヴァンさん! これ以上、罪を重ねるのはお止めなさい!」
セフィリアの声は、魔力に乗って雨音を突き抜け、私たちの鼓膜に直接響いた。
「ヴァンさん、あなたは今、その令嬢の魔力によって、本当の自分を見失っているだけです。……その黒い服も、その鋭すぎる剣も、あなたが望んだものではないはず! 私が、私があなたをその呪縛から解き放ちます!」
彼女が天に手を掲げると、雲の隙間から一筋の光が差し込み、彼女をスポットライトのように照らし出した。
「……聞き飽きたわね、あの台詞」
私は扇を広げ、雨を遮りながら冷ややかに見下ろした。
「ヴァン、返事をして差し上げなさい。……あなたの『主君』が誰なのか、あの方に教え込んであげるのよ」
ヴァンは一歩前に出た。
回廊の縁に立ち、雨に打たれながら、彼は静かに、けれど領地全土に響き渡るような声で告げた。
「……セフィリア様。あなたは以前、私に『自由をあげる』と仰った。……ですが、自由とは、選ぶ権利のことでしょう?」
ヴァンは腰の剣をゆっくりと抜き放った。
黒曜石のように鈍く光るその刃には、私の魔力と、彼の執念が宿っている。
「私は選びました。……泥の中で私を見つけ、私を『私のままで』必要としてくれたこの方を。……たとえ世界が彼女を悪と呼ぼうとも、私にとっては、彼女の隣こそが唯一の真実だ!」
「嘘よ……! それは、彼女に洗脳されているだけです!」
セフィリアの悲鳴のような叫びと共に、彼女の背後に控えていた魔術師団が一斉に詠唱を開始した。
「撃てっ!」
ライナルト王子の怒号と共に、数百の光の矢が雨の空を埋め尽くし、私たちを目掛けて降り注いだ。
────
兵士たちが盾を構え、悲鳴を上げる。
だがヴァンは動かなかった。
「……ヴァン?」
「お嬢様、下がっていてください。……雨の日は、少しだけ『影』の巡りが良いのです」
ヴァンが剣を一閃させた。
その瞬間、地面に溜まった雨水、そして降り注ぐ雨粒そのものが、ヴァンの魔力に反応して形を変えた。
雨が……「影の刃」へと変貌したのだ。
空を埋め尽くした光の矢が、ヴァンの操る銀色の雨によって次々と撃ち落とされていく。
物理法則を無視したその光景に、王宮騎士団は戦慄した。
「な……雨を操っているのか!? あんな魔法、聞いたこともない!」
「魔法ではありません。……これは、お嬢様が私にくれた『執着』の力だ」
ヴァンは回廊から飛び降りた。
数十メートルの高さを、まるで重力がないかのように軽やかに着地し、彼は一人で王宮騎士団の真っ只中へと歩みを進める。
「総員、構えろ! 平民に怯むな!」
騎士たちが一斉にヴァンに襲いかかる。
だが、そこからはもはや「戦闘」ではなかった。
それは、一匹の飢えた狼が、着飾った羊の群れを蹂躙する「舞」だった。
ヴァンの動きは雨音に紛れ、誰にも捉えることができない。
騎士たちの甲冑が次々と切り裂かれ、血が雨に混じって地面を赤く染めていく。
けれど、ヴァンは誰の命も奪わなかった。
ただ、彼らの誇りである武器を破壊し、二度と剣を握れぬほどの恐怖をその心に刻み込んでいった。
「……化け物だ。あいつは人間じゃない!」
元々、本気で戦う気などなかったのだろう。騎士たちが次々と敗走し、残されたのはセフィリアとライナルト王子だけとなった。
────
ヴァンはセフィリアの馬の前で足を止めた。
返り血を雨で洗い流しながら、彼は剣を鞘に収めず、ただ静かに彼女を見つめた。
「……去れ、聖女。……あなたの光は、私を照らすにはあまりに美しすぎた。……私は、この銀の雨の中で、影と共に生きることを決めたのです」
セフィリアは力なく首を振った。
彼女の瞳には、かつての慈愛ではなく、深い絶望と、そしてエルフレイダ(私)に対する激しい嫉妬の炎が灯っていた。
「……許さない。……エルフレイダ様、あなたが……あなたが彼を、あんな姿に変えてしまったのね……! 彼を、人ではない何かに……!」
「あら、嫉妬かしら? 見苦しいわね、セフィリア」
私は回廊から、魔法を使いゆっくりと地上へと降り立った。
ヴァンの隣に立ち、彼の肩にそっと手を置く。
「彼を変えたのは私。……でも、それを望んだのは彼自身よ。……あなたは『彼を救う自分』を愛していただけ。……私は、『私を愛する彼』のすべてを全肯定しているの。……その差が、この結末よ」
ライナルト王子がセフィリアを抱きかかえるようにして馬を引いた。
「……引くぞ、セフィリア。……エルフレイダ、今日の屈辱、決して忘れん。……貴様らは、国を敵に回したのだ。……次に来る時は、聖騎士団の全戦力を以て、この領土を地図から消し去ってやる!」
捨て台詞を残し、王宮騎士団は敗走していった。
雨は次第に弱まり、雲の切れ間から月が顔を出し始めていた。
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戦場となった境界の門の前。
ヴァンは、まだ少し興奮が冷めやらない様子で、自分の手を見つめていた。
「……お嬢様。私は、正しかったのでしょうか」
「……正しいかどうかなんて、どうでもいいわ、ヴァン。……あなたは私を守り、私の隣にいることを選んだ。……私にとっては、それだけがこの世で唯一の『正義』なの」
私は彼の額に、自分の額を合わせた。
「……強くなったわね、ヴァン。……でも、これからはもっと大変よ。……王家は本気で私たちを潰しに来るわ。……あなたは、私と一緒に、地獄の果てまで行く準備はできているかしら?」
ヴァンはふっと、今までにないほど穏やかで、そして邪悪な微笑みを浮かべた。
「地獄? ……いいえ、お嬢様。……あなたがいる場所が、私にとっての天国です。……たとえそこが、血と硝煙にまみれた戦場であっても」
雨上がりの月光が、二人の姿を美しく、そして不気味に照らし出していた。
聖女の敗北、王家との全面戦争の幕開け。
だが、私の心にあるのは不安ではなく、愛する「推し」と共に世界を変えていくという、狂気にも似た歓喜だった。




