15
王都からランヴォール公爵領へと続く道。
公爵家の紋章が刻まれた重厚な馬車の中、私は心地よい揺れに身を任せながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。王都の喧騒はもはや遠く、空気は次第に冷涼で、魔力の濃度が濃い独特のものへと変わっていく。
隣には、激闘の疲れからか、微睡みに落ちているヴァンがいる。
彼の銀髪が、西日に照らされて淡いオレンジ色に染まっている。その寝顔は驚くほど幼く、先刻まで闘技場で死神のように剣を振るっていた少年とは同一人物とは思えない。
(……ああ。最高。この寝顔を拝めるだけで、国家反逆罪の一歩手前まで行った甲斐があったわ。王都の連中は今頃、聖女様の失態と公爵家の『暴挙』について、泡を吹いて議論しているでしょうね)
私は前世の記憶を反芻する。
本来のシナリオでは、この時期のエルフレイダは王都でセフィリアへの嫌がらせを加速させ、周囲の反感を買って孤立していくはずだった。そしてヴァンは、学園の片隅でエルフレイダにこき使われながらボロボロとなり、セフィリアの「無償の愛」によって浄化され、彼女の忠実なモブ騎士の一人へと転身する。
けれど、今の現実はどうだ。
ヴァンは自らの意志で聖女の光を拒絶し、私の「毒」を選んだ。
私はヒロインを虐める時間を、すべてヴァンの育成(と甘やかし)に費やした。
結果として、私たちは王宮という「物語の中心」を捨て、自分たちの城へと引き上げる道を選んだのだ。
「……ん……。エルフレイダ……様……」
ヴァンが小さく私の名前を呼びながら目を覚ました。
微睡みから覚めたばかりの、少し潤んだ銀色の瞳が私を捉える。その視線に含まれる熱量に、私の心臓は本日何度目かの跳ね上がりを見せた。
「おはよう、ヴァン。よく眠れたかしら?」
「……すみません。主人の隣で、無様な姿を……」
「無様なんて言わないで。あなたの寝顔を独占できるのは、私の特権なんだから。……それより、体調はどう? 聖女の術の後遺症は……」
ヴァンは自分の手を見つめ、それからゆっくりと握りしめた。
「不思議です。あの方の光に触れた瞬間、自分の心の一部が剥がれ落ちるような感覚がありました。……けれど、その穴を埋めたのは、お嬢様が私にくれた『記憶』でした。……冷たい水、暖かい食事、そして、私を蔑みながらも、誰よりも激しく私に執着してくれた、あなたの瞳……」
ヴァンが私の膝の上に手を重ねてくる。
「あれが『救済』なのだとしたら、私には必要ありません。私は、あなたに壊され、あなたに繋ぎ止められている今が、一番……生を実感できるのです」
……やだ、この子、無自覚に攻略台詞を吐きすぎじゃないかしら?
私の内側のオタクが「尊い死」を遂げそうになっているが、私は優雅な微笑を崩さない。
「ええ。それでいいわ、ヴァン。……まもなく、私たちの『楽園』に着くわよ」
────
数時間後、馬車は公爵領の境界にある巨大な鉄の門をくぐった。
整列した使用人と、父の私兵部隊が控えていた。彼らは皆、王都で起きた「ヴァンの伝説」を聞き及んでおり、馬車を降りたヴァンに向ける視線は、もはや「卑しい平民」を見るものではなかった。
「お帰りなさいませ、エルフレイダお嬢様。……そして、ヴァンの殿」
家令のハリスが、ヴァンに対して深々と頭を下げる。
ヴァンは戸惑いながらも、私に教え込まれた完璧な礼儀でそれに応えた。
「ハリス、準備はできているわね?」
「はい。お嬢様のご指示通り、北の塔をヴァン様の専用区域として改装の手配を済ませております。また、領内の最高水準の魔術師と、昨晩呼び戻したライナス殿による、新たな訓練メニューも構築済みです」
「素晴らしいわ。……ヴァン、今日からそこがあなたの部屋よ。……そして、ここからが私の『本当の戦い』の始まりなの」
私は父、ジェラルド公爵と合流し、重厚な執務室へと向かった。
父は大きな暖炉の前に立ち、ゆらゆらと揺れる炎を眺めていた。
「エルフレイダ。王家からは既に、お前の不敬罪とヴァンの『禁忌魔法』に関する公式な抗議文が届いている」
「あら、仕事が早いですわね。……それで、お父様はどう返答されたのですか?」
父はニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべて私を振り返った。
「『我が家の騎士が示したのは、聖女の未熟さを証明する純粋な武勇である。それを邪悪と呼ぶのであれば、王家の目は曇っていると言わざるを得ない』……と返してやったよ。……それと、王都への食料供給の関税を、明日から三倍に引き上げる通達もな」
さすがはお父様。性格が悪い。
「王家はセフィリアという偶像に頼りすぎている。その偶像を否定したヴァンは、今や彼らにとっての恐怖の象徴だ。……だが、エルフレイダ。恐怖だけでは、真の支配はできんぞ。お前はどうするつもりだ?」
「決まっていますわ、お父様。……王家が『光』を掲げるなら、私はこの領土を、世界で最も豊かで、最も残酷な『影の理想郷』にして差し上げます。……ヴァンという最強の伝承を核にして、逆らう者には絶望を、従う者には王都以上の幸福を与えるのです」
私はテーブルの上に広げられた領地の地図を指でなぞった。
「幸い、この周囲には豊富な魔石資源と、独自の軍閥があります(ゲーム知識)。……王都がセフィリアと王子の『おままごと』に興じている間に、私はこの地を、王命すら届かない自治領並びに都市国家に近い要塞へと変貌させますわ。……すべては、ヴァンを誰にも邪魔されずに愛でるため……いえ、私の騎士として完成させるために」
父は満足げに頷いた。
彼にとっても、私は「王家に嫁ぐための駒」から、「ランヴォール家の覇権を揺るぎないものにするための後継者」へと昇格したようだった。
────
それからの数ヶ月、私は文字通り分刻みのスケジュールで領地改革に乗り出した。
まず行ったのは、領内における公爵家、並びにヴァンの「神格化」だ。宗教はいつの時代、どの世界でも政治材料として最適だ。
私は私財を投じて、ヴァンの戦いぶりを叙事詩としてまとめさせ、人々が求めるようなスリル満載のストーリー、そして反王家のプロパガンダを刷り込む思想統制を施し、吟遊詩人に領内の村々で歌わせた。
「平民として泥の中から現れ、王家の犬である聖女が放つ、偽りの光を跳ね返した銀髪の英雄」。
虐げられている平民たちにとって、ヴァンは「自分たちの希望」となり、また、王家に逆らいヴァンを支える公爵家。多くの騎士たちにとってヴァンは「超えるべき絶対的な壁」ともなった。
さらに、私はヴァンの住む北の塔を、最新の魔術設備を備えた聖域へと変えた。
彼が訓練する姿を、私は特等席から眺める。
上半身を脱ぎ捨て、汗を流しながら木剣を振るうヴァン。
その背中には、以前の拷問で負った傷跡が薄く残っているが、今の彼にはそれが「克服した苦難」としての紋章のように見えた。
「……お嬢様。最近、領民たちの視線が変わりました」
訓練の合間、ヴァンが私の元へ歩み寄り、差し出した冷たいタオルを受け取りながら言った。
「私に祈りを捧げるような目で見てくるんです。……これが、お嬢様の望んだ景色なのですか?」
ヴァンは純粋に。私自身は性格上、不気味なものとして避けられてきた。でも今や、私の過去の性格すら尾ヒレが付き、支持言葉が基盤を支える材料になっている。
「ええ。あなたはもう、ただの元庭師ではないわ。……この領地を守る聖人、あるいは英雄。どちらにせよ、誰もあなたを軽んじることはできない。……どう? 悪くない気分でしょう?」
ヴァンは自らの胸元ったに手を当て、少しだけ困ったように笑。
「……正直に言えば、戸惑いの方が大きいです。……ですが、この力があれば、あなたを守れる。……王宮が軍勢を差し向けようと、聖女が軍を率いて来ようと、私はこの門を一歩も通しません。……それだけが、私の今の誇りです」
ヴァンの忠誠心は、もはや信仰に近い領域に達していた。
彼の中では、「自分の幸せ」よりも「エルフレイダの望み」が優先順位のトップにある。
それは客観的に見れば、精神的な依存であり、歪んだ愛だ。
けれど私にとっては、それこそが最高の報酬だった。
────
そんな「楽園」の日々に、一つの影が落ちた。
王都から、第一王子ライナルトの名代として、一人の青年貴族が特使として派遣されてきたのだ。
彼の名は、ユーグ・ド・ノエル。
ゲームでは、冷静沈着な軍師役として知られ、セフィリアの参謀を務めた攻略対象の一人だった。
黒曜宮の謁見の間。
私は父の代理として、玉座に等しい豪華な椅子に座り、ユーグを待ち構えていた。
傍らには、漆黒の騎士鎧に身を包んだヴァンが、一振りの剣となって控えている。
「……お久しぶりですね、エルフレイダ様。学園を退学されてから、王都は随分と寂しくなりましたよ」
ユーグは慇懃無礼な態度で一礼し、鋭い瞳で、私……そして隣のヴァンを観察するように見た。
「寂しくなった? 笑わせないで。聖女様という新しい太陽が現れたのですもの、私のような影の女がいなくなって、皆さん清々しているのでしょう?」
「……皮肉は結構です。……本日は、ライナルト殿下からの『最後通告』を預かって参りました」
ユーグは懐から、金色の封蝋がなされた書状を取り出した。
「一つ、ヴァン・ルースターの身柄を王宮へ引き渡すこと。彼の持つ力は公共の利益に供されるべきであり、一公爵家が独占すべきではない。……二つ、エルフレイダ様、あなたの不敬罪を免じる代わりに、王都の修道院にて一年間の謹慎と再教育を命じる。……これに従わぬ場合、王家はランヴォール公爵領に対し、経済封鎖および武力行使を含む制裁を検討せざるを得ません」
謁見の間に、凍りつくような沈黙が流れた。
ヴァンの体から、ピリピリとした殺気が漏れ出す。彼の剣の柄を握る指に力がこもるのが分かった。
私は……。
こみ上げる笑いを堪えきれず、高らかに笑い声を上げた。
「あはははは! 面白い、面白いわ、ユーグ。本当に面白いわ!」
「……何がおかしいのですか、エルフレイダ様」
「殿下の頭の中は、まだ学園の温室のままなのね。……『公共の利益』? 私が泥の中から救い上げ、私の血と涙(と多額の資金)で育て上げたこの至宝を、なぜあの方々に差し上げなければならないの?」
私は椅子から立ち上がり、ユーグの前までゆっくりと歩み寄った。
「経済封鎖? やってみなさい。……王都の食糧供給の四割を担っている我が領地を封鎖すれば、先に飢えるのはどちらかしら? ……武力行使? 結構ですわ。……ただし、その前に、あなたがたの『正義の騎士団』が、私達の従士軍並びに、封建徴集軍の前で何分耐えられるか、賭けてもいいわよ?」
「……エルフレイダ様、あなたは正気ではない。……一人の青年のために、軍を動かし、国を敵に回すというのですか」
「まだまだ青いわね。これは面子の問題でもあるの。弱腰領主に、一体誰が従うというの? それにヴァンは一人の青年ではないわ。……彼は、私のすべてなのよ。愛する者のために戦う。兵達の士気は最高潮よ」
私はヴァンの腕を取り、彼をユーグの目の前へと立たせた。
ヴァンは無言のまま、ユーグを射抜くような鋭い視線で見下ろした。そのプレッシャーだけで、ユーグの額に汗が滲む。
「帰りなさい、ユーグ。……そして殿下に伝えてちょうだい。……これ以上私たちの『楽園』を汚そうとするなら、次は外交文書ではなく、首級を届けに伺います、と」
ユーグは数秒間、私とヴァンの顔を交互に見ていたが、やがて諦めたように深く溜息をついた。
「……分かりました。……交渉は決裂、ということで報告させていただきます。……ですが、エルフレイダ様。聖女セフィリア様は、あなたを救いたいと、今でも本気で願っていますよ。……そのことだけは、忘れないでください」
「救いたい? ……ふふ、ついでに彼女に言っておいて。……『私は今の地獄を心から愛しているから、余計なお世話よ』……ってね」
────
特使が去ったその夜。
私はバルコニーで、夜空に浮かぶ銀色の月を眺めていた。
背後から、静かな足音が近づいてくる。
「……お嬢様。戦争に、なるのでしょうか」
ヴァンの声は、不安というよりは、期待に近い響きを持っていた。
「ええ。たぶんね。……でも、怖くないわ。……だってお父様も、領民たちも、そして何よりあなたが、私の味方だもの」
私は振り向き、ヴァンの首に両腕を回した。
彼は自然に私の腰を支え、私たちだけの狭い世界を作り出す。
「ヴァン。……あなたは、私のために、この国を変えられる?」
残酷な問いかけ。
だが、ヴァンは一切の躊躇なく、私の瞳を見つめ返した。
「国どころか、世界があなたを拒むなら、私は世界を焼き尽くします。……私が、あなたの騎士である限り」
ヴァンの唇が、私の額に優しく触れた。
(――ああ、これよ。これこそが、私が求めていた『悪役令嬢』としての最高の結末)
前世のゲームでは、悪役令嬢はただ消え去るだけの存在だった。
けれど私は違う。
大好きな推しを、自分の腕の中に閉じ込め、彼と一緒に世界を震撼させる。
これ以上の幸福が、この世にあるだろうか。
「愛しているわ、ヴァン。……世界で一番、残酷な方法でね」
「私も……愛しています、エルフレイダ様。……一生、あなたの側に御使えできることを」
月の光の下、黒薔薇の令嬢と銀狼の騎士は、甘く、そして壊滅的な誓いを交わした。
「楽園」を守るための、血塗られた戦いの幕が、今、静かに上がろうとしていた。




