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武術大会初日の夜。
学園の寄宿舎は、明日の準決勝を控えた静かな緊張感に包まれていた。
だが、その静寂の裏側で、ドブネズミたちが動く音を私は聞き逃さなかった。
私は自室の豪華な長椅子に深く腰掛け、窓の外、月光に照らされた学園の森を眺めていた。手元には、ランヴォール公爵家が誇る情報網の「影護官」がもたらした、数通の密告書が置かれている。
「……お嬢様、やはり動きました。バルトロ準男爵の取り巻きと、彼に同情を寄せる騎士科の生徒数名。彼らは今、ヴァンの部屋に向かっています。……手には、筋弛緩の毒を塗った針と、打撃用の棍棒を隠し持っているとのことです」
影の中からシニエが報告する。彼女の冷淡な声に、私は満足げに口角を上げた。
「あら、意外と早かったようね。明日の試合を待たずに、夜闇に乗じて牙を折ろうだなんて。……高貴な血筋を自負する割には、やることは路地裏の浮浪者以下だわ」
私は立ち上がると、黒いレースのベールが付いた、夜の散歩には少々物々しいドレスの裾を払った。
「シニエ、ライナスを呼びなさい。それと、公爵家の私兵部隊を森の各所に配置して。……一匹も逃がしてはダメよ」
「……承知いたしました。ですがお嬢様、ヴァン様には知らせなくてよろしいのですか?」
「いいのよ。彼はいま、明日のために心身を整えている最中だわ。……不浄なドブネズミの死骸を見るのは、私だけで十分よ」
(というか、推しの睡眠時間は一分一秒たりとも削らせないわ! 美容とメンタルケアの妨げになるものは、この私が物理的に消去する!)
────
学園の男子寄宿舎へと続く裏道。
そこには、殺気と卑怯な欲望を隠し持った五人の男子生徒が潜んでいた。
「……いいか、あの平民の足を一本折るだけでいい。明日、あいつが舞台に立てなければ俺たちの勝ちだ」
「ああ、エルフレイダ様の目さえ眩ませれば、あんなゴミ、ただの庭師に戻るだけさ」
彼らがヴァンの部屋の窓に手をかけようとした、その時だった。
「――あら、夜の学園は校則で外出禁止のはずですけれど? 皆さん、随分と熱心な『課外活動』ですわね」
木々の影から、灯火の光を背負った私――エルフレイダ・ド・ランヴォールが姿を現す。
私の左右には、抜身の剣を構えた公爵家の私兵たちが、まるで死神の行列のように並んでいる。
「エ、エルフレイダ様!? なぜ、ここに……っ!」
バルトロの取り巻きの一人が、腰を抜かして悲鳴を上げた。
「なぜかしら? ……自分の宝物に群がる害虫を駆除しに来た、と言えば伝わりますかしら」
私はゆっくりと彼らに歩み寄った。私の顔に浮かんでいるのは、慈悲の欠片もない、完璧な「悪役令嬢」の微笑だ。
「あなたたちが手に持っているそれは、何? ……ああ、毒針ね。面白いわ。それをヴァンの肌に触れさせようとしたその指……二度と剣を握れないようにして差し上げましょうか?」
「ひ、ひぃ……っ! ち、違うんです、これは……!」
「言い訳は、王都の地下牢でじっくり伺いますわ。……ライナス、始めなさい」
影からライナスが、凶悪な笑みを浮かべて飛び出した。
「まともに真剣も振れない奴が、骨の一本や二本で済むと思うなよ?」
一方的な蹂躙が始まった。
悲鳴が上がり、鈍い衝撃音が響く。鎧とフルフェイスの兜で身を包んだ私兵達が、次々と殴り倒していく。安全の為にガントレットは外させて。それでも加減しないと、折れるだろうけど。私はそれを、冷めた紅茶を飲むような感覚でしばらく見つめていた。
かつてのゲームのシナリオでは、ヴァンはここで大怪我を負い、満身創痍で大会を勝ち進むか、あるいは棄権を余儀なくされていた。その時の彼の、血に染まった切なげな表情も確かに「萌え」ではあったけれど。
(……今の私は、そんな理不尽な苦労(苦行)を彼に強いるつもりはないわ! 推しには常に100%のコンディションで、最高に輝いていてほしいだけ)
数分後。地面に転がっているのは、もはや騎士候補生とは呼べないほど無様にボコボコにされて泣き叫ぶ「元」エリートたちだった。
「彼らの実家には明日、我が家からの『絶縁状』と『全債務の一括返済請求』を届けてちょうだい。……明日から、この国の社交界に彼らの居場所はなくなるわ」
「かしこまりました、お嬢様」
私は背を向け、ヴァンの部屋の窓を見上げた。
カーテンの隙間から、微かに灯りが漏れている。……気づかれたかしら?
────
寄宿舎の出入口を通り過ぎようとした、その時。
寄宿舎の扉が静かに開き、一人の青年が姿を現した。
「……エルフレイダ様」
ヴァンだった。
彼は寝間着の上に薄い上着を羽織っただけの姿で、背後の凄惨な光景――そして、さっきまでその中央に立っていた私を、静かに見つめていた。
「あら、ヴァン。起こしてしまったかしら?」
私は慌てて、血の匂いを消すように香水の染みたハンカチを鼻に当てた。
「……いいえ。嫌な予感がして、目が覚めたのです」
ヴァンは転がっている男子生徒たちを一瞥し、それから私の元へ歩み寄った。
彼は私のドレスの袖に付いた、小さな土汚れを見つけると、膝をついてそれを自分の指で丁寧に払った。
「お嬢様。……あなたは、私という汚れた存在のために、またご自分の手を汚されたのですか」
ヴァンの声は、怒っているようでも、怯えているようでもなかった。
ただ、深い、底なしの「哀しみ」と、それを上回るほどの「熱」を帯びていた。
「汚れただなんて。……これは、私の楽しみよ、ヴァン。あなたが明日、世界で一番美しく戦う姿を見るための、必要処置なのだから」
「……私は、あなたのその『毒』に、もう抗えそうにありません」
ヴァンは私の手を取り、その指先に額を押し当てた。
「もし、あなたが望むなら。……私は明日、相手の命すら奪う『凶器』になりましょう。あなたがそれを望み、それがあなたの幸せだと言うのなら」
ヴァンの瞳の中に、一瞬、私に似た狂気のような銀色の光が走った。
(……っ! いま、ヴァンの『闇落ちメーター』がピクリと動いた!? いや、これは闇落ちというより……私への『過剰な忠誠(愛)』!?)
私は彼の頬を軽くつねった。
「馬鹿なことを言わないで。私が望むのは、あなたの勝利であって、あなたの破滅ではないわ。……あなたは、私の誇り高く、気高い騎士として勝つの。いいわね?」
ヴァンは少し驚いたように目を瞬かせ、それから……ふっと、今までにないほど穏やかな、本物の笑みを浮かべた。
「……はい。仰せのままに、お嬢様」
その光景を、遠くの窓から見つめる一組の瞳があった。
聖女セフィリア。
彼女は、血と暴力の匂いの中で見つめ合う私たちを見て、絶望に満ちた表情で唇を噛み締めていたようだった。
────
……エルフレイダ様。あなたは、彼を救っているのではない。……彼を、あなたと同じ『魔物』に変えようとしているのですね……。
聖女の心中は夜風にかき消された。
────
翌日、準決勝。
そこには昨夜の惨劇など微塵も感じさせない、圧倒的な光を放つヴァンの姿があった。
だがその剣筋は、以前よりもずっと鋭く、そして「迷い」が完全に消えていた。
彼はもはや、自分自身の夢のために戦ってはいない。
自分を毒し、自分を愛する「悪役令嬢」の私の所有物として、世界を跪かせるために戦ってくれていた。




