水槍の暗殺者⑥
レオンの渾身の一撃が、グラナスの身体を深々と斬り裂いた。
鮮血が宙を舞う。
グラナスは二、三歩よろめき、力なく膝をつく。
握っていた槍の残骸が、乾いた音を立てて地面へ転がった。
やがて、その巨躯はゆっくりと前へ崩れ落ちる。
ドサリ――。
重い音だけが森に響いた。
戦いは終わった。
先程まで森を震わせていた轟音は消え失せ、木々を揺らす風だけが静かに吹き抜けていく。
レオンは肩で大きく息をしながら剣を下ろした。
アズールも傷だらけの身体を支え、倒れ伏したグラナスを見つめる。
誰の目にも、もう立ち上がる力は残されていないように見えた。
それでも――。
「……はは……」
掠れた笑い声が漏れる。
口元から血が伝い落ちる。
だが、その表情に苦悶はなかった。
「……なんで笑う」
レオンが静かに問いかける。
グラナスは答えず、ただ空を見上げた。
視線の先に広がる青空。
その色は、遠い日の記憶を呼び起こしていた。
辺境の小さな村。
朝になれば父と畑を耕し、母の作る温かな食事を囲む。
妹と野原を駆け回り、夕暮れには家族四人で笑い合う。
豊かではない。
けれど、幸せだった。
――あの日までは。
魔物の群れが村を襲った。
村人達は鍬を握り、狩猟用の槍を手に戦った。
家族を守るため。
故郷を守るため。
しかし、その想いだけで魔物に勝てるはずもなかった。
家々は炎に包まれ、悲鳴が響く。
父は魔物に喰われた。
母は妹を庇い倒れた。
泣き叫ぶ妹の声だけが、焼け落ちる村にいつまでも響いていた。
そして。
幼いグラナスだけが、生き残った。
誰もいなくなった村で。
一人きりで。
助けを待ち続けた。
英雄を。
騎士を。
軍を。
誰でもよかった。
ただ、手を差し伸べてくれる誰かを。
――だが、誰も来なかった。
数日後。
ようやく村へ辿り着いたエルナディア軍が見たのは、焼け跡だけだった。
「知ってるか……」
グラナスがぽつりと呟く。
「辺境の村なんてな……滅んでも、誰も覚えちゃいない」
血を吐きながら、それでも言葉を紡ぐ。
「助けを求めた」
「……」
「だが……誰も来てくれなかった」
アズールは苦しげに目を伏せる。
「全員……死んだ」
たったそれだけの言葉。
それだけで、十分だった。
どれほど長い時間、一人で助けを待ち続けたのか。
どれほど深い絶望を抱えたのか。
レオンの拳が静かに震える。
グラナスはその様子を見て、小さく鼻で笑った。
「だから……お前達が嫌いだった」
「……」
「誰かを救うだの……守るだの」
空は、あの日と変わらず青かった。
「そんな都合のいい話が……あるものか」
怒りではない。
憎しみでもない。
長い絶望の果てに辿り着いた、諦めの言葉だった。
だが。
「ある」
レオンは迷いなく答えた。
グラナスの眉が僅かに動く。
「助けられない命があることは分かってる」
「……」
「俺だって何度も見てきた」
守れなかった人達。
届かなかった手。
救えなかった命。
その全てが胸を過る。
それでも。
「それでも、助けたいと思う人がいる限り」
レオンは静かに剣を握る。
「俺は剣を振るう」
揺るぎない声だった。
グラナスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を漏らす。
「……そうか」
その笑みは、どこか呆れたようで。
どこか羨ましそうでもあった。
ゆっくりと視線を横へ向ける。
そこにはアズールが立っている。
傷だらけになりながらも、仲間達と共に。
「……お前は、助けられたんだな」
アズールの肩が震えた。
もしレオン達に出会わなければ。
もしあの洞穴で見捨てられていたなら。
今、自分はここにはいない。
グラナスは再び空を見上げる。
瞳から少しずつ光が失われていく。
燃え盛る故郷。
崩れた家。
倒れた家族。
泣き叫ぶ妹。
そして――。
焼け跡の中で、誰かを待ち続ける幼い自分。
「……結局」
掠れた声が風に溶ける。
「たった一人で……よかったんだ」
誰か一人。
たった一人でいい。
あの日、自分に手を差し伸べてくれる人がいてくれたなら――。
その願いは、最後まで叶うことはなかった。
風が吹く。
木々が静かに揺れる。
葉擦れの音だけが、森に優しく響いた。
グラナスはゆっくりと瞼を閉じる。
その瞳が再び開くことはなかった。
森には、ただ静かな風だけが流れていた。
森を吹き抜ける風だけが、木々を優しく揺らしている。
レオンは、その亡骸を見つめたまま動けなかった。
脳裏に浮かぶのは、先ほど聞いた話。
辺境の小さな村。
魔物の襲撃。
助けを待ち続けた、一人の少年。
そして――。
自分自身の過去。
燃え盛る村。
響き渡る悲鳴。
襲い来る魔物。
逃げ惑う村人達。
幼い自分は、ただ震えることしかできなかった。
思い浮かぶのは、一人の男の背中。
カーシュ。
命を懸けて、自分を守ってくれた恩人。
もし、あの日カーシュがいなかったら。
もし、自分にも手を差し伸べてくれる人がいなかったなら。
――自分もまた、グラナスと同じ道を歩いていたのかもしれない。
「……」
レオンは無意識に拳を握り締める。
胸の奥に広がる感情に、名前は付けられなかった。
怒りでもない。
悲しみだけでもない。
ただ、ひどく重かった。
それはアズールも同じだった。
倒れたグラナスを見つめたまま、静かに立ち尽くしている。
仲間を殺した男。
命を奪い合った敵。
本来なら憎むべき相手のはずだった。
それでも。
嫌悪だけでは終われなかった。
もし立場が違っていたら。
もし出会う人が違っていたら。
自分もまた、同じ道を歩んでいたのではないか。
そんな考えが頭を離れない。
「アズール!」
静寂を破るように、声が響いた。
振り返ると、メルがこちらへ駆けてくる。
そして、そのまま勢いよくアズールへ抱きついた。
「うわっ!?」
不意を突かれたアズールが一歩よろめく。
メルは何も言わない。
ただ強く、強く抱き締めた。
震える肩。
零れ落ちる涙。
「……よかった」
その一言だけで十分だった。
どれほど不安だったのか。
どれほど失いたくなかったのか。
その想いは、何より雄弁だった。
アズールは少し驚いたように目を丸くし、それから穏やかに微笑む。
そっとメルの頭へ手を置いた。
「……心配かけたな」
掠れた声。
メルは何度も首を横へ振る。
言葉は出ない。
ただ、生きていてくれた。
それだけで十分だった。
そんな二人のもとへ、ユージンとリシェルも歩み寄る。
「まったく……二人とも無茶をし過ぎだよ」
苦笑しながらユージンが両手をかざす。
柔らかな光が二人を包み込み、傷ついた身体を静かに癒やしていく。
リシェルも倒れた魔物達を一瞥し、小さく息を吐いた。
「……終わったね」
「ああ」
レオンは短く頷いた。
戦いは終わった。
誰一人欠けることなく、生き残ることができた。
本来なら笑って喜ぶべき結末。
それでも、その場に笑顔はなかった。
森の中央には、グラナスが静かに眠っている。
最後に残した言葉が、誰の胸にも重く残っていた。
助けを求めた少年。
誰も来なかった少年。
そして、最後まで救われることのなかった一人の男。
レオンはゆっくりと空を見上げる。
どこまでも青い空。
グラナスが最期に見つめていた空と、同じ空だった。
風が吹く。
木々が揺れる。
誰も言葉を口にしない。
ただ、それぞれが胸に残る想いを抱えながら――。
しばらくの間、静かな森に佇み続けていた。




