夜襲の守り人②
森へ足を踏み入れてから、どれほど歩いただろうか。
レオンたちは警戒を緩めることなく、静かな森の中を進んでいた。
頭上では枝葉が幾重にも重なり合い、昼間だというのに陽光はほとんど届かない。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、踏み締める土からは雨上がりのような匂いが立ち上っていた。
そんな中、不意に先頭を歩くレオンが足を止める。
「……っ」
その視線の先――街道脇に、一台の馬車が無残な姿を晒していた。
横倒しになった荷馬車。
車輪は粉々に砕け、荷台は徹底的に荒らされている。
周囲には乾ききった血痕が点々と残り、激しい争いがあったことを物語っていた。
ユージンは慎重に周囲へ視線を巡らせる。
「……ここで襲われたみたいだね」
「あぁ」
レオンは短く返事をし、自然と剣の柄へ手を添えた。
木々の隙間。
草むら。
倒木の陰。
どこから襲われても対応できるよう、視線を走らせる。
しかし――誰もいない。
人の気配はおろか、生き物の気配すら感じられなかった。
「……静かすぎる」
レオンが低く呟く。
普通の森なら、鳥のさえずりや獣が草を踏む音くらいは聞こえるものだ。
だが、この森にはそれがない。
虫の羽音すら耳に届かず、魔物の唸り声も聞こえない。
まるで、この森に棲む生き物すべてが何かを恐れ、姿を消してしまったかのようだった。
その異様な静けさに、レオンは小さく舌打ちする。
「……ミレアがいてくれたらな」
痕跡の追跡や索敵なら、彼女の右に出る者はいない。
今ほど、その存在が頼もしく思えたことはなかった。
ユージンは苦笑しながら肩をすくめる。
「言ってもしょうがないよ」
そう口にしながらも、その目は油断なく森の奥を見据えている。
「でも、この辺りにいるのは間違いないと思う」
その時、リシェルが静かに口を開いた。
「……張り込めば、そのうち出てくる」
淡々とした声。
だが、その提案には確かな説得力があった。
レオンも頷く。
「だな。無闇に追い回すより、その方がいいかもしれない」
三人は再び歩き出し、街道を外れて森のさらに奥へと足を進めていく。
そして、その背中を――。
木々の隙間から、一人の瞳が静かに見つめていた。
息を潜め、気配を完全に殺した何者か。
しかし、レオンたちはまだ、その存在に気付いてはいなかった。
◇
それからも森を歩き続けた。
折れた枝。
踏み潰された草。
人が通ったと思われる痕跡はいくつか見つかる。
だが、どれも決定打にはならない。
追えば消え、探せば途切れる。
まるで相手が意図的に痕跡を残し、そして消しているかのようだった。
成果のないまま時間だけが流れ、やがて木々の隙間から差し込む光は赤く染まり始める。
日暮れだった。
ユージンは空を見上げ、小さく息を吐く。
「……そろそろ日が暮れるね」
背負っていた荷物を下ろしながら続ける。
「今日はここで野営しようか」
「そうだな」
レオンも異論はなかった。
夜の森を無理に歩く方が危険だ。
三人は近くを流れる川辺へと移動し、野営の準備を始める。
水場が近ければ飲み水も確保でき、周囲の様子も比較的把握しやすい。
ユージンとリシェルは慣れた手つきでテントを組み立て始めた。
一方、レオンは川へ降りると、即席の槍を構える。
水面を泳ぐ魚をじっと見据え――。
「……よっ!」
勢いよく槍を突き出す。
水飛沫が舞い上がり、その先には見事に串刺しとなった川魚があった。
レオンは満足げにそれを掲げる。
「おっ、今日は上手くいった」
その様子にユージンが思わず笑みを浮かべる。
「前より確実に慣れてきたね」
「最初なんて一匹も獲れなかったからな」
「川に何回も飛び込んでたよね」
「……言うなよ」
三人の間に、自然と笑みがこぼれる。
森へ入ってから初めての、張り詰めた空気が少しだけ和らぐひとときだった。
やがて夜の帳が降りる。
焚き火がぱちぱちと小気味よい音を立て、串に刺した川魚が香ばしい匂いを漂わせ始めた。
三人は火を囲みながら簡単な食事を済ませ、そのまま今夜の段取りを話し合う。
ユージンが穏やかな表情のまま口を開いた。
「夜は交代で見張りをしよう」
レオンも頷く。
「あぁ。夜襲の可能性は高いだろうしな」
相手は今も姿を見せない。
だからこそ、不気味だった。
リシェルが焚き火越しに尋ねる。
「……順番は?」
ユージンは少し考え、静かに答えた。
「僕とレオンで交代しよう」
「……」
「リシェルは今日は休んで」
するとレオンも言葉を重ねる。
「一人でも万全な状態の奴がいた方が安心だろ」
しかし、リシェルはわずかに眉を寄せた。
「……気は使われたくない」
焚き火の炎が、その青い瞳に揺らめく。
ユージンは困ったように笑った。
「使ってないって言ったら嘘になるかな」
リシェルは黙って耳を傾ける。
「でも、それだけじゃないよ」
ユージンは優しく微笑んだ。
「レオンの言う通り、一人でもしっかり休める人がいた方が、何かあった時に動きやすいからね」
しばらく沈黙が流れる。
やがてリシェルは小さく息を吐き、静かに頷いた。
「……わかった」
少しだけ不満そうに視線を逸らしながらも、その声には納得の色が混じっている。
「……その代わり、明日は私も見張りする」
ユージンは穏やかに笑った。
「うん。その時はお願いするよ」
焚き火が静かに揺れる。
穏やかな夜。
その温かな光が届かない森の奥深くでは――。
黒い影が、音もなく木陰に身を潜め、焚き火を囲む三人をじっと見つめ続けていた。




