アルケイアの王女⑥
それからの日々。
アズールは、来る日も来る日も森を駆け回っていた。
山道を行く旅人。
荷を積んだ行商人。
時には、一人で旅を続ける冒険者の姿を見つければ、その足は自然と向かっていた。
剣を抜き。
行く手を塞ぎ。
静かに言い放つ。
「……荷物を置いていけ」
最初は震えていたその声も。
やがて迷いは薄れ、次第に低く、冷たいものへと変わっていった。
剣を向けることに。
人から怯えた目を向けられることに。
命乞いをされることに。
少しずつ、慣れていく。
それが何より恐ろしかった。
人は慣れる。
どれほど嫌悪していても。
どれほど胸が痛んでも。
生きるために必要だと、自分へ言い聞かせ続ければ。
心は少しずつ、それを当たり前として受け入れてしまう。
奪った食料を抱え、森を歩く。
その足取りは重い。
胸の奥には、消えることのない罪悪感が澱のように沈み続けていた。
誇り高き騎士を目指していた。
アルケイア戦士長の息子として育ち、父の背中を追い掛けてきた。
弱きを守る剣。
国を支える盾。
それが自分の理想だった。
なのに今はどうだ。
弱い者を脅し。
荷を奪い。
怯えきった人々を背に、その場を立ち去る。
山賊と何が違う。
自問するたび、胸が締め付けられる。
それでも。
歩みだけは止められなかった。
すべては――。
メルを生かすため。
その理由だけが、辛うじて彼を前へ進ませていた。
◇
洞穴の中。
メルは冷たい岩壁へ身体を預け、小さく肩を震わせていた。
「……っ……」
浅く乱れた呼吸。
額には汗が滲み、赤く染まった頬が熱を物語っている。
視界は霞み。
頭はぼんやりとして。
指先には力が入らない。
疲労。
飢え。
雨に打たれ続けた日々。
積み重なった負担は、ついに彼女の身体を蝕み始めていた。
熱病だった。
「……アズール」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
返事はない。
洞穴には、天井から滴る水滴の音だけが静かに響いている。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが、流れる時間を教えていた。
メルは膝を抱き寄せる。
寒い。
身体の芯が震えるほど寒いのに、熱だけが異様に身体を焼いていた。
怖かった。
病が。
孤独が。
そして何より――。
アズールが帰って来ないことが。
彼がどんな方法で食料を手に入れているのか。
詳しく聞いたことはない。
けれど。
分からないほど、メルは幼くはなかった。
逃亡者の自分たちに、都合よく食べ物を分け与えてくれる人など、そう何人もいるはずがない。
それでもアズールは、何も言わない。
笑って「大丈夫だ」と言うだけだった。
「……お願い」
震える唇から、小さな願いが零れる。
「無事でいて……」
その声は、雨音へ溶けるように消えていった。
◇
一方、その頃――。
アズールは雨に濡れた森を駆けていた。
「くそっ……!」
荒い息が白く漏れる。
焦りで胸が苦しい。
メルの熱は日に日に上がっている。
本当なら。
今すぐ町へ連れて行きたかった。
医者を探し。
薬を飲ませ。
暖かな部屋で休ませてやりたかった。
だが、それは叶わない。
金がない。
いや。
それ以前に――。
「町になんか……行けるかよ」
吐き捨てるように笑う。
その笑みは、自嘲に満ちていた。
今の自分は、街道で人を襲い、荷を奪って生きる犯罪者だ。
町へ入れば捕まる。
運よく捕まらなかったとしても、王女であるメルの存在が知られれば終わりだ。
アルケイアの生き残り。
その情報は、必ず誰かの耳へ届く。
そして追手が来る。
そんな未来だけは、絶対に避けなければならなかった。
「俺が……」
濡れた拳を強く握り締める。
「俺が何とかするしかないんだ……!」
頼れる者はいない。
救いの手を差し伸べてくれる者もいない。
だから今日も剣を握る。
森を進み。
街道へ目を向け。
誰かが通る気配を探す。
そのたびに胸の奥で、騎士としての誇りが少しずつ擦り減っていく。
それでも足は止まらない。
守りたいものがある限り。
その少年は今日もまた――。
生き延びるために、自ら罪を重ねていくのだった。




