アルケイアの王女⑤
洞穴の中は、静寂に包まれていた。
入口から吹き込む冷たい風が、岩肌を静かに撫でていく。
外では雨が降り続いている。
一定の調子で響く雨音だけが、この小さな空間に虚しく木霊していた。
その片隅で――。
メルは岩壁にもたれかかるように横たわっていた。
額には玉のような汗が浮かび、乱れた呼吸が細い胸をかすかに上下させている。
苦しげに眉を寄せ、固く閉じられた瞼の奥で、彼女は夢を見ていた。
――世界が、壊れていた。
空は分厚い暗雲に覆われ、陽の光は一筋たりとも差し込まない。
裂けた大地。
崩れ落ちた城壁。
燃え盛る街。
立ち昇る黒煙が空を覆い、人々の悲鳴が絶え間なく響いている。
血が流れ。
炎が踊り。
絶望だけが世界を支配していた。
その光景の中心で――。
一人の剣士が静かに立っている。
風に揺れる白銀の髪。
凍てつくような蒼い瞳。
その手には、禍々しいほど純白に輝く一本の剣。
足元には無数の骸。
その姿には怒りも悲しみもない。
ただ、どこまでも静かだった。
静かであるがゆえに恐ろしい。
まるで人ではなく。
世界の終焉だけを背負って現れた存在。
そんな錯覚すら覚えるほどだった。
誰なのかは分からない。
なのに、目を離せない。
見てはいけないものを見ているような恐怖だけが、胸の奥を締め付けていく。
「メル!!」
突然、誰かが自分を呼んだ。
「メル!! おい、しっかりしろ!」
声が重なるたび、崩壊した世界が音もなく揺らぎ始める。
炎が霧となって消え。
黒煙が霞み。
白銀の剣士の姿も、ゆっくりと光の中へ溶けていった。
「……ぁ……」
メルはゆっくりと瞼を開く。
ぼやけた視界。
滲む輪郭。
やがて、その姿が少しずつ鮮明になっていく。
「……アズール」
目の前には、息を切らしたアズールがいた。
全身は雨でびしょ濡れになり、肩で大きく息をしている。
彼はメルが目を覚ましたことを確認すると、その場へへたり込むように腰を下ろした。
「……よかった」
安堵したように息を吐く。
「本当に……よかった」
「アズール……?」
まだ意識がはっきりしないまま辺りを見回すメルに、アズールは慌てたように傍らへ置いていた袋を引き寄せた。
「ほ、ほら!」
無理に明るく振る舞うような声だった。
「食べ物、持ってきたんだ!」
袋の中から取り出されたのは、干し肉と黒パン、それに赤い果実がいくつか。
数日ぶりに目にする、まともな食料だった。
メルは驚いたように目を見開く。
「……これ、どうしたの?」
「え……」
アズールの手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
その表情に、影が差した。
「た、たまたまだよ」
視線を逸らしながら、小さく笑う。
「通り掛かった行商人がいてさ……事情を話したら分けてくれたんだ」
どこかぎこちない声。
自分でも嘘だと分かるほど、不自然だった。
「だから、その……」
誤魔化すようにパンを差し出す。
「早く食べよう」
メルは何も言わなかった。
ただ、静かにアズールを見つめる。
服には泥がこびりついている。
腕には木の枝で擦ったような細かな傷。
そして何より。
雨だけでは説明できないほど赤く腫れた目元。
何があったのか。
聞けばきっと答えてくれる。
けれど――。
メルは何も尋ねなかった。
「……ありがとう」
その一言だけを、優しく口にする。
アズールはどこか救われたように息を吐くと、果実を手に取り、不器用にナイフを入れた。
形は歪で、大きさもばらばら。
騎士として剣を振るうことは覚えても、果物を切ることなど一度もしたことがない。
それでも傷付けないように。
少しでも食べやすいように。
そんな思いだけは伝わるほど、丁寧な手つきだった。
「ほら」
そっと差し出された果実を、メルは小さく口に運ぶ。
甘い。
果汁が舌の上へ広がり、乾き切っていた身体へゆっくりと染み渡っていく。
空っぽだった身体が、少しずつ温もりを取り戻していくようだった。
「……美味しい」
自然と笑みが零れた。
その笑顔を見た瞬間。
アズールの胸が鋭く痛む。
「……っ」
思わず目を伏せる。
嬉しいはずだった。
守れたことが。
笑ってくれたことが。
それなのに、その笑顔が、自分の犯した罪を静かに突き付けてくる。
あの食料は奪ったものだ。
行商人を脅し。
剣を向け。
恐怖で従わせた。
守るためだった。
仕方がなかった。
そう何度言い聞かせても、胸の痛みは消えない。
(俺は……)
心の中で呟く。
(もう……騎士なんかじゃない)
父のような騎士にはなれない。
弱きを守る剣であるはずだった。
なのに今、その剣は弱き者を傷付けた。
情けなくて。
悔しくて。
拳を握る手に力が入る。
それでも――。
どれだけ泥に塗れても。
どれだけ誇りを失っても。
この少女だけは守り抜く。
その誓いだけは、決して揺るがない。
洞穴の外では、雨が静かに降り続いていた。
まるで、二人が背負う罪も悲しみも洗い流そうとするかのように。




