アルケイアの王女④
洞穴の中は静まり返っていた。
入口から吹き込む冷たい風が、岩肌を撫でていく。
外では雨が降り始めたらしく、一定の調子で降り注ぐ雨音だけが、洞窟の奥まで微かに響いていた。
アズールは、横たわるメルの傍らに膝をつく。
青白い顔。
か細い呼吸。
胸が小さく上下するたび、その命の灯火が今にも消えてしまいそうに思えた。
「……」
そっと額へ手を添える。
冷たい。
身体から熱が失われている。
このままでは駄目だ。
水だけでは生きられない。
何か食べさせなければ。
今すぐに。
アズールは唇を強く噛み締めると、拳を握りしめた。
「……待ってろ」
掠れた声だった。
「俺が……何か持ってきてやる」
返事はない。
眠るように目を閉じたままのメルを一度だけ見つめると、アズールは踵を返し、激しく降り始めた雨の中へ飛び出した。
◇
雨に濡れた森を、無我夢中で駆け抜ける。
濡れた枝葉が顔を叩き、泥が足元へまとわりつく。
「森だ……!」
荒い息を吐きながら周囲を見回す。
「何か……何かあるはずだ……!」
木の根元を探る。
茂みを掻き分ける。
岩陰を覗き込む。
食べられる木の実はないか。
茸は生えていないか。
小動物の気配はないか。
目につくものを片っ端から探し続けた。
だが――。
「くそっ……!」
何もない。
獣の足跡すら見つからない。
木の実も。
茸も。
食べられそうな草すら見当たらなかった。
まるで世界そのものが、自分たちを拒絶しているかのようだった。
泥に足を取られ、転ぶ。
それでも立ち上がる。
雨に打たれながら、また走る。
焦りばかりが募っていく。
時間がない。
このままでは。
メルが死ぬ。
「……っ」
嫌だった。
もう失いたくない。
父も。
仲間も。
祖国も。
すべて失った。
これ以上、大切なものを失えば――。
「俺は……!」
本当に独りになる。
その時だった。
木々の隙間に、小さな灯りが揺れた。
「……?」
息を呑む。
山道を、一台の荷馬車がゆっくりと進んでいた。
雨除けの幌を掛けた、小さな行商用の馬車。
積み荷も決して多くはない。
それでも。
あの中には、きっと食べ物がある。
「……!」
アズールは咄嗟に木陰へ身を潜めた。
心臓が激しく脈打つ。
食料。
あれさえあれば、メルは助かるかもしれない。
だが――。
「……どうする」
金はない。
事情を話して譲ってもらえる保証もない。
そもそも、自分たちの正体を明かしていいのか。
アルケイアの生き残り。
その情報が敵へ渡れば、メルの命はさらに危険へ晒される。
迷いが胸の中で渦を巻く。
だが、その間にも馬車は少しずつ遠ざかっていく。
――メル。
洞穴で苦しそうに息をしていた少女の姿が脳裏を過ぎる。
細くなった身体。
冷え切った手。
そして。
最後に聞いた、弱々しい声。
『……ごめんなさい』
胸が締め付けられる。
その時、不意に父の声が蘇った。
――『姫様を頼んだぞ!!』
「……っ!」
アズールは目を閉じる。
そして。
「くそぉぉぉッ!!」
叫びと共に地面を蹴った。
一瞬で馬車との距離を詰める。
剣を抜く。
迷いを断ち切るように振り抜かれた刃が、馬の前脚を浅く切り裂いた。
「ヒヒィィィィンッ!!」
馬が悲鳴を上げる。
驚いた拍子に馬車が大きく傾き、荷台の木箱が次々と転げ落ちた。
「なっ!? な、なんだぁ!?」
御者台の男が青ざめる。
その前へ、アズールはゆっくりと歩み寄った。
雨が頬を伝う。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳だけが、鋭く男を射抜いていた。
剣先を向ける。
だが、その切っ先は微かに震えている。
「……荷物を置いていけ」
低く押し殺した声。
「そうすれば……命までは取らない」
「ひっ……!」
男の顔から血の気が引く。
「わ、分かった! 全部置いていく! だから殺さないでくれ!」
転ぶように馬車から飛び降りると、そのまま振り返ることなく雨の森へ逃げ去っていった。
アズールは追わなかった。
ただ、その背中を黙って見送る。
やがて重い足取りで荷台へ上がると、袋の中を探り始めた。
干し肉。
黒パン。
林檎が二つ。
干した果実。
見つけた瞬間、胸の奥に安堵が広がる。
だが、それ以上に鋭い痛みが込み上げた。
「俺は……」
震える声が漏れる。
拳が震えていた。
荷物を抱え直すと、アズールは静かにその場を後にした。
◇
雨は、なおも降り続いていた。
森の中を歩くアズールは、一言も発しない。
ただ、抱えた食料だけは決して落とさぬよう、強く抱き締めていた。
やがて頬を伝う雫が、雨だけではないことに気付く。
「……っ……」
涙だった。
幼い頃から磨き続けた剣。
祖国を守るため。
王女を守るため。
弱き人々を守るために振るうと誓った力。
その剣を今日、自分は何の罪もない人へ向けた。
脅し。
奪い。
恐怖を与えた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
惨めだった。
情けなかった。
誇り高き騎士を目指していた少年は、気付けば盗賊と何一つ変わらないことをしている。
それでも。
それでも――。
「俺には……これしか、できないんだ……」
剣しかない。
誰かを守る術を、それしか知らない。
だから進むしかなかった。
この罪を背負ってでも。
メルを生かすために。
雨の降りしきる森を、涙を拭うこともなく。
アズールは、ただ一人。
メルの待つ洞穴へと歩き続けた。




