アルケイアの王女③
森を抜けても、二人は歩き続けた。
木々が途切れ、視界いっぱいに荒れ果てた大地が広がる。
草木もまばらな荒野を、乾いた風が吹き抜けていく。
それでも二人の足は止まらない。
ただ前へ。
ひたすら前へ。
行き先など決まってはいなかった。
どこへ向かえば安全なのかも分からない。
誰を頼ればいいのかも、どこなら眠れるのかも。
何一つ分からないまま、それでも歩き続けるしかなかった。
まるで今も背後から、あの炎が、あの惨劇が追い掛けて来ているような気がして。
立ち止まれば飲み込まれる。
そんな得体の知れない恐怖だけが、二人を前へと押していた。
荒野には人影一つない。
聞こえるのは風が砂を撫でる音と、乾いた地面を踏み締める足音だけ。
メルは俯いたまま歩いていた。
視線は地面へ落ちたまま。
その瞳には何も映っていない。
アズールもまた、周囲へ絶えず警戒の目を向けながら歩く。
だが、その胸の内は決して落ち着いてはいなかった。
「…………」
何度も口を開きかける。
だが、言葉は喉で止まり、何も出てこない。
何を話せばいい。
何を言えば彼女は救われる。
そんな言葉が、この世界にあるのだろうか。
慰めなど、あまりにも軽い。
励ましなど、何の意味も持たない。
それでも。
この重苦しい沈黙の中を歩き続ける方が、ずっと苦しかった。
「あ……あの……」
ぎこちなく漏れた声に、メルがゆっくりと顔を向ける。
「メル様……?」
「……」
「つ、疲れてはいませんか? その……少し、休みませんか……?」
自分でも何を言っているのか分からない。
そんな不自然な言葉だった。
すると、メルはゆっくりと顔を上げる。
そして――。
ふっと、小さく微笑んだ。
儚く、壊れてしまいそうな笑顔。
それでも確かに、それはあの日以来初めて見た笑顔だった。
「アズール」
「……え?」
「さっきみたいに……『メル』でいいよ」
その一言に、アズールは思わず目を見開いた。
メルは少し困ったように笑う。
「……ごめんなさい」
「……」
「辛いのは、アズールだって同じなのに……」
震える声。
瞳には涙が滲み始めていた。
「私……自分のことばかりだった」
アズールは気まずそうに視線を逸らす。
「いや、その……」
耳が少し赤くなる。
幼い頃のように名前で呼ぶことが、今さら妙に照れ臭かった。
咳払いを一つすると、誤魔化すように前を向く。
「……あそこの木陰で少し休もう」
メルは静かに頷く。
「……うん」
二人は木陰へ腰を下ろした。
互いに何を話すわけでもない。
それでも先ほどまでとは違う静けさだった。
ほんの少しだけ。
張り詰めていた心が緩んだ気がした。
◇
だが、安らぎは長くは続かなかった。
二人は再び歩き始める。
森を抜け、獣道を進み、時には魔物の気配を感じれば深い茂みへ身を潜めて息を殺す。
夜になれば木陰で身を寄せ合い、僅かな眠りを取った。
毛布も火もない。
冷たい地面が身体から熱を奪っていく。
雨の日もあった。
空を覆う黒雲から降り注ぐ冷たい雨。
髪も服も肌も、瞬く間に濡れていく。
震える身体を抱き締めながら、それでも歩みを止めることはできなかった。
止まれば終わる。
その焦燥だけが、二人を生かしていた。
だが、日に日に疲労は積み重なっていく。
頬は痩せこけ、顔色は悪くなり、足取りも目に見えて重くなる。
食事など、まともに口にしていなかった。
道中で見つけた木の実。
名も知らぬ草。
川辺で見つけた僅かな水。
それだけで命を繋ぐ。
安全かどうかなど考える余裕もなかった。
だが、他に方法はない。
メルも。
アズールも。
王女と騎士として育てられた二人は、生き延びるための術を何一つ知らなかった。
野営の知識も。
狩りの技術も。
火を起こす方法すら知らない。
守られる側として生きてきた二人は、初めて世界の厳しさを思い知っていた。
そして――。
限界は、あまりにも突然訪れた。
――バタリ。
「……っ?」
背後から響いた鈍い音に、アズールは弾かれたように振り返る。
「メル!?」
そこには、地面へ倒れ伏すメルの姿があった。
「お、おい!」
慌てて駆け寄り、その身体を抱き起こす。
あまりにも軽い。
腕に伝わる重さが信じられないほど軽く、胸の奥が強く締め付けられる。
メルは薄く瞼を開き、力なく微笑んだ。
「……ごめん……なさい」
掠れた声。
「少し……疲れちゃった……」
「少しどころじゃないだろ!」
思わず声を荒らげる。
だが、それは怒りではない。
恐怖だった。
失ってしまうかもしれないという恐怖。
アズールは必死に周囲を見渡す。
空には黒い雨雲が広がり始め、冷たい風が吹き抜ける。
このままここにいれば危険だ。
「くそっ……どこか、雨を凌げる場所は……!」
焦る視線の先。
岩場の向こうに、不自然な黒い影が見えた。
「……洞穴?」
希望に縋るように駆け寄る。
剣の柄へ手を掛けたまま慎重に中を覗き込む。
薄暗い洞窟。
ひんやりとした空気が流れ出てくる。
耳を澄ませる。
獣の息遣いも。
魔物の唸り声も聞こえない。
「……誰もいない」
警戒を解かないまま周囲を確認すると、アズールは急いでメルのもとへ戻った。
「メル、少しだけ我慢してくれ」
返事はなかった。
彼はそっとメルを抱き上げる。
驚くほど細くなった身体。
冷え切った指先。
その温もりの乏しさに、胸の奥が締め付けられる。
――絶対に死なせない。
その想いだけを胸に、アズールはメルを抱えたまま、静まり返った洞穴の中へと足を踏み入れた。




