アルケイアの王女②
霧の湖を、小舟が静かに進んでいた。
音はほとんど無い。
あるのは、
水を掻くオールの音だけ。
――ちゃぷん。
――ちゃぷん。
濃霧は異様なほど深く、数メートル先すら見えない。
まるで世界そのものが白に閉ざされたようだった。
その中を、アズールは無言で舟を漕ぎ続ける。
腕は重い。
全身が悲鳴を上げている。
それでも止まれなかった。
止まれば。
きっと全部が終わる気がした。
ふと、横目でメルを見る。
舟の端で小さく膝を抱える少女。
メルは俯いたまま、一言も喋らなかった。
震えている訳でもない。
泣いている訳でもない。
ただ――
その瞳から、生気だけが消えていた。
「……」
アズールは唇を噛む。
脳裏に焼き付いて離れない。
リーブの最後。
バルロの叫び。
そして――
『アズール!! 姫様を頼んだぞ!!』
森の中。
最後まで先導していた父の姿。
ヴァイス・ラダフット。
アルケイア戦士長。
あの時、父は振り返らなかった。
きっと。
振り返れば、
自分まで息子を逃がせなくなると分かっていたから。
「っ……」
喉が震える。
涙が込み上げる。
だがアズールは奥歯を噛み締めた。
泣くな。
今だけは駄目だ。
自分まで折れれば、
誰がメルを守る。
彼はただ黙って、オールを漕ぎ続けた。
◇
やがて。
舟先が浅瀬へとぶつかる。
霧の向こうに、陸地が見えた。
アズールは静かに舟を止める。
重い身体を引きずるように岸へ降り立つと、メルへ手を差し出した。
「……メル様。お手を」
だが。
メルは顔を上げない。
「……もういい」
か細い声だった。
「……放っておいて」
アズールは眉を寄せる。
「そうはいきません」
「いいって言ってるでしょ……!」
メルが顔を上げる。
その瞳には涙が滲んでいた。
「もう嫌なの……!」
「……」
「父様も……みんなも死んだ……!!」
声が震える。
「国も無くなった!! もう何も無い!!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。
「なんで私だけ生きてるのよ!!」
アズールは黙って舟へ乗り戻る。
そして。
メルの両肩を掴んだ。
「……っ」
メルが目を見開く。
アズールの顔は歪んでいた。
怒りとも。
悲しみとも違う。
必死に何かを堪える顔だった。
「……ふざけんなよ」
低い声。
「え……」
「お前だけが辛いと思うなよ……!」
肩を掴む手に力が入る。
「リーブも……バルロも……!」
声が震える。
「父上だって……!」
今にも泣き出しそうだった。
「何の為に俺たちを生かしたと思ってる!!」
「……っ」
「みんなの死を……無駄にする気か!!」
沈黙。
霧だけが静かに流れていく。
メルは何も言えなかった。
アズールも俯く。
肩が小さく震えていた。
どれほど強がっても、
彼もまた、
全てを失った一人だった。
やがて。
アズールは静かに手を離した。
「……行こう」
疲れ切った声だった。
「……メル」
その呼び方に、
メルは小さく目を見開く。
“姫様”ではなく。
幼い頃のように、
ただ名前で呼んだ。
「……わかった」
消え入りそうな声で、
メルは頷いた。
◇
二人は舟に積まれていた荷物を確認する。
そこには逃亡用に用意されていた簡素な衣服が入っていた。
アズールは無言で鎧を外す。
血に塗れたアルケイア騎士の装備。
それはもう、
追われる証でしかない。
メルもまた、王族用の衣服を脱ぎ捨てる。
豪華な装飾。
宝石。
王女の証。
全てを舟へ置いていった。
今の二人は、
ただの逃亡者だった。
着替え終える頃には、
空が僅かに白み始めていた。
遠くの森の隙間から、
朝日が差し込む。
薄暗い森。
冷たい朝霧。
鳥の鳴き声。
だがその景色は、
二人にとってあまりにも遠かった。
アズールは周囲を警戒しながら前へ進む。
メルも小さく俯いたまま後を追う。
祖国を失った姫と騎士。
二人の逃亡劇が、
静かに始まろうとしていた。




