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フロスディア

「皆、武器を下ろしなさい」


 王妃――フロスディアの静かな声が響く。


 決して大きな声ではない。


 だが、その場にいた全員の耳へ自然と届いた。


 不思議な力を持つ声だった。


 荒れ狂っていた空気が、まるで湖面に落ちた一滴の雫のように静まっていく。


 兵士達は互いに顔を見合わせた後、一斉に武器を下ろした。


 張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。


 イレーネも唇を強く噛み締めながら、ゆっくりと剣を鞘へ収めた。


 その瞳にはまだ悲しみと怒りが残っていたが、王妃の言葉に逆らうことはなかった。


 フロスディアは穏やかな足取りでレオン達へ歩み寄る。


 陽光を受けて輝く銀髪。


 額から伸びる美しい龍角。


 白銀の衣装は風に揺れ、その姿は神秘的ですらあった。


 だが、ただ美しいだけではない。


 その立ち姿からは、長く国を支えてきた王族としての威厳が確かに感じられた。


 レオン達は自然と背筋を伸ばす。


 フロスディアは優しく微笑んだ。


「初めまして、人の子達よ」


 どこか母親を思わせる柔らかな声。


「私はリュクシア王国王妃、フロスディアと申します」


 レオン達は慌てて姿勢を正した。


「は、初めまして……!」


 レオンが代表するように頭を下げる。


 ユージン達も続いた。


 するとフロスディアは、意外な行動を取った。


 小さく頭を下げたのだ。


「この度は部下達が無礼を働きました」


「えっ……」


 思わずレオン達が目を丸くする。


 周囲の兵士達も驚いていた。


 王妃が自ら頭を下げるなど、滅多にあることではない。


 フロスディアは穏やかな表情のまま続ける。


「特にイレーネは、ラヴィーナの件で冷静さを欠いてしまいました」


 視線を横へ向ける。


 イレーネは俯いたままだった。


「どうか許してあげてください」


「い、いえ……!」


 レオンが慌てて首を振る。


 そもそも怒れる理由は十分理解できた。


 大切な弟子の死を聞かされて平静でいられる方がおかしい。


 フロスディアは安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます」


 そして。


 その視線はウェルフ達へ向けられる。


 後ろにいた亜人達が少し驚いたように身を固くした。


「ゼルガリアで亜人達を救ってくださった事」


 フロスディアは静かに言った。


「リュクシアを代表して感謝します」


 その言葉には飾り気がなかった。


 だからこそ重い。


 王妃としてではなく、一人の人間として伝えているように感じられた。


 レオン達は思わず顔を見合わせる。


 敵意。


 警戒。


 疑念。


 ここへ来てから向けられていたものではない。


 ようやく。


 本当の意味で歓迎の言葉を受け取った気がした。


「……よかったぁ……」


 ユージンが力なく呟く。


 今にもその場へ座り込みそうだった。


「胃が痛かった……」


「お前ずっと顔青かったもんな」


 ケンジャが小さく苦笑する。


 隣ではアッシュも盛大に息を吐いていた。


「寿命縮んだぜマジで……」


「アッシュ、腰抜けてますよ」


 レイが呆れたように言う。


「抜けてねぇよ!」


「足震えてます」


「うるせぇ!」


 即座に返ってくる。


 ようやく戻ってきたいつもの空気に、レオンも少しだけ笑った。


 その時だった。


「キュゥ?」


 足元から可愛らしい声が聞こえる。


 見下ろせば、先程までレオン達を庇っていたカーバンクルがアッシュを見上げていた。


 丸い瞳がきらきらと輝いている。


 アッシュは思わず苦笑した。


「……助かったぜ」


 しゃがみ込み、その頭を撫でる。


 カーバンクルは嬉しそうに目を細めた。


「キュゥゥゥ♪」


 ふさふさの尻尾が左右へぶんぶん揺れる。


 その愛らしい姿に、張り詰めていた空気がさらに和らいだ。


 しかし。


 周囲の兵士達は別の意味でざわついていた。


「精霊が懐いてる……」


「あり得るのか……?」


「人間に……?」


 誰もが信じられないものを見る目だった。


 精霊は人間を避ける。


 それが常識だからだ。


 フロスディアはそんな光景を見つめながら、ふっと微笑む。


「どうやら精霊達は、既に答えを出しているようですね」


 兵士達が言葉を失う。


 精霊に愛される者を悪人と断じることは難しい。


 フロスディアは改めてレオン達へ向き直った。


「レオン様御一行」


 全員が姿勢を正す。


 次に告げられる言葉を待った。


 そして。


「リュクシア王国は、貴方達の滞在を正式に許可します」


 一瞬の静寂。


 誰もが言葉の意味を噛み締める。


 次の瞬間。


「おぉぉぉっ!!」


 ウェルフ達の歓声が森へ響いた。


「よかったなお前ら!!」


「これで堂々と街歩けるぞ!」


「追い返されずに済んだな!」


 皆が笑う。


 ウェルフも心底安心したような表情を浮かべていた。


 レオン達もようやく肩の力を抜く。


 長かった。


 本当に長かった。


 だが、ようやくリュクシアへの第一歩を踏み出せたのだ。


 そんな中。


「……レオン」


 静かな声が聞こえた。


 振り向くと、イレーネが立っていた。


 先程までの怒気はもうない。


 代わりにそこにあったのは深い疲労と悲しみだった。


 レオンも表情を引き締める。


 するとイレーネは――


 ゆっくりと頭を下げた。


 周囲がざわつく。


 兵士達も驚きを隠せない。


「……すまなかった」


 重い言葉だった。


 イレーネは俯いたまま続ける。


「あいつは……ラヴィーナは私の弟子だったんだ」


 レオン達が目を見開く。


 イレーネは遠くを見るような目をした。


「幼い頃から剣を教えた」


 脳裏に浮かんでいるのだろう。


 まだ小さかったラヴィーナの姿が。


「妹のような弟子だ」


 震える声。


 握られた拳には力が入っていた。


「だから……つい……我を忘れてしまった」


 レオンは静かに頷く。


 責める気持ちはなかった。


「……謝るのは俺の方だ」


 苦しそうに言う。


「俺が……弱かったせいだ」


 イレーネは何も答えなかった。


 ただ、レオンの腰へ視線を向ける。


 そこにある一本の剣。


 ラヴィーナの剣だった。


 懐かしむように目を細める。


 そして。


「……ラヴィーナの最後を教えてくれ」


 静かな問いだった。


 レオンは少しだけ空を見上げる。


 青空の向こう。


 あの日の光景が蘇る。


 迫る死。


 絶望。


 それでも前へ出た背中。


 守るために剣を振るった女性の姿。


 レオンはゆっくりと口を開いた。


「……あいつは」


 風が吹く。


 木々が静かに揺れた。


「最後まで俺の事を守ってくれた」


 イレーネは黙って聞いている。


「怖かったはずなのに」


 レオンは拳を握る。


「最後まで前に立って――」


 そして、少しだけ笑った。


「……すげぇカッコよかった」


 その言葉を聞いた瞬間。


 イレーネの瞳が大きく揺れた。


 幼い頃のラヴィーナ。


 木剣を振り回していた日々。


 何度転んでも立ち上がった姿。


 悔し涙を流しながら強くなろうとしていた少女。


 様々な思い出が胸を駆け巡る。


 そして。


 イレーネは小さく俯いた。


「……馬鹿弟子が」


 震える声。


 ぽたり――


 一粒の涙が地面へ落ちた。


 その後も。


 ぽたり、ぽたりと続く。


 イレーネは顔を隠すこともせず、静かに肩を震わせていた。


 長い年月を共に歩んできた弟子を失った悲しみを。


 今ようやく、吐き出すように。


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