交渉
翌朝。
まだ陽は昇りきっておらず、空気には夜の冷たさが残っていた。
王都の一角に設けられた簡易施設。その前の広場には、ルミナリア魔法学院の生徒達が整列している。
昨夜はまともな休息など取れなかった。
慣れない寝床。
周囲を行き交う兵士達の気配。
いつ何が起きてもおかしくないという緊張感。
それらが、生徒達から静かに体力を削り取っていた。
「……ねみぃ……」
ニクスが大きな欠伸を噛み殺す。
肩をぐるりと回し、重たい首を鳴らす。
周囲を見渡せば、誰もが似たような顔をしていた。
疲労。
不安。
そして寝不足。
だが、それでも列を乱す者はいない。
戦場に近い場所へ来たことで、生徒達もまた状況の重さを理解していた。
「……戦争って感じだね」
隣でミレアがぽつりと呟く。
視線の先では、ゼルガリア兵達が慌ただしく走り回っていた。
飛び交う怒号。
絶え間なく続く指示。
武器を抱え、駆け抜けていく兵士達。
昨日とは明らかに違う。
王都全体が、巨大な嵐を迎え撃つために動き出していた。
その前へ、一人の男が歩み出る。
ディルクだった。
鋭い眼光が生徒達を見渡す。
「……全員、聞け」
低く通る声。
広場を包んでいたざわめきが一瞬で消えた。
「昨日、王都北部――裏山方面より大量の魔物の群れが確認された」
一拍。
誰も言葉を発しない。
「現在、ゼルガリア兵が交戦中だ」
生徒達の表情が引き締まる。
魔物の群れ。
その言葉だけで十分だった。
だがディルクの話は終わらない。
「万が一に備え、諸君らには市民の護衛及び避難支援、そして逃げ遅れた者の捜索を担当してもらう」
静かな声だった。
だが、その責任の重さは誰もが理解できた。
守るべきは兵士ではない。
武器を持たない一般市民だ。
失敗すれば人が死ぬ。
ディルクは列の間を歩きながら任務書を配っていく。
「内容を確認しろ。すぐに行動開始だ」
短い指示。
ニクスは受け取った紙を開いた。
「んー……俺達は海岸沿いか」
「避難ルートの確認と探索任務みたいだね」
ミレアが横から覗き込む。
その横でリシェルはすでに歩き出していた。
「……行く」
「いや早ぇって」
ニクスが苦笑しながら後を追う。
三人はそのまま広場を後にした。
王都南部。
海へ続く道を進む。
避難が始まっているのか、人通りは普段より少ない。
それでも街中には緊張が漂っていた。
遠くから聞こえる鐘の音。
兵士達の掛け声。
住民達の不安げな表情。
戦いの気配が確実に近付いている。
やがて潮風が頬を撫でた。
「……港か」
ニクスが呟く。
その時だった。
「あれ……?」
ミレアが足を止める。
視線の先。
港の桟橋近くに、一人の小さな少女の姿があった。
ロップだ。
三人は思わず足を止める。
ロップは誰かと向き合い、真剣な表情で話をしていた。
相手は大柄な狼の亜人。
灰色の毛並みに逞しい体躯。
腕を組み、鋭い眼差しでロップを見下ろしている。
「あのっ! ウェルフさん!」
ロップが意を決したように声を上げた。
「おぉ……ラビィーナの妹じゃねぇか」
ウェルフが目を細める。
どこか懐かしそうな声音だった。
ロップは胸の前で拳を握り締める。
「お願いがあるんです!」
「ん?」
「船を出す準備を手伝ってもらえませんか?」
ウェルフの眉がぴくりと動く。
「……お前、今がどういう状況か分かって言ってんのか?」
低い声が響く。
周囲では兵士達が走り回っている。
誰もが戦いの準備に追われている状況だ。
それでもロップは怯まなかった。
「はい」
小さな声。
だがその瞳に迷いはない。
「でも……レオンさんがリュクシアへ行きたいみたいなんです」
「レオン?」
ウェルフが首を傾げる。
数秒考え――
「あぁ、あのガキか」
思い出したように鼻を鳴らした。
「なんでまたリュクシアなんかに?」
ロップは胸に手を当てる。
「ご友人を助けるために……魔鉱岩が必要なんです」
その言葉に、ウェルフは黙った。
風が吹く。
波の音だけが聞こえる。
しばらくして――
「……はぁ」
大きなため息。
頭をがしがしと掻く。
「ラビィーナには世話になったからなぁ……」
ぼそりと漏れた言葉。
そして。
「……しゃーねぇ」
口元に苦笑を浮かべる。
「仲間にも声かけてやるよ」
ロップの耳がぴくりと立った。
「ほ、本当ですか!?」
「あぁ。ただし――」
ウェルフが指を一本立てる。
「差し入れぐらい頼むぜ!」
「……はい!」
ロップは力強く頷いた。
その返事にウェルフは豪快に笑う。
「なら問題ねぇ」
そう言い残し、仲間達のいる方へ歩いていく。
ロップはその背中を見送った。
そして。
「ふぅ……」
大きく息を吐く。
緊張で固まっていた肩から力が抜ける。
その瞬間――
「――よっ」
ぽん、と背中を叩かれた。
「ひゃっ!?」
ロップが飛び上がるように振り返る。
そこにはニクスが立っていた。
にやにやと笑いながら親指を立てている。
「やるじゃねーか」
「ニ、ニクスさん!?」
いつの間に見られていたのか。
ロップの顔が赤くなる。
ミレアも優しく笑った。
「すごかったよ、ロップ」
「ちゃんと自分で交渉してたもんね」
リシェルも小さく頷く。
「……上出来」
短い一言。
だが彼女なりの最大級の賞賛だった。
三人の言葉を受け、ロップは目をぱちぱちと瞬かせる。
そして――
「……はい」
少し照れながら笑った。
昨日までの不安げな少女の笑顔ではない。
誰かのために動き、自分の意志で道を切り開いた者の顔だった。
遠くでは波が静かに打ち寄せている。
迫り来る戦いの気配は消えない。
それでも今だけは――
その小さな成長を祝福するかのように、穏やかな潮風が港を吹き抜けていた。




