森の中②
森の中を吹き抜ける風が、木々の葉を静かに揺らした。
戦闘の余韻が残るその場所で、ニクスは目の前の兎の亜人を見つめていた。
「……レオンを知ってんのか?」
思わず漏れた問いには、僅かな驚きが滲んでいた。
問いかけられた少女――ロップは、びくりと肩を震わせる。
長い耳がぴくりと跳ね、怯えたように身を縮こませるが、逃げ出そうとはしなかった。
しばらく俯いていた彼女は、やがて小さく頷いた。
その様子を見て、ミレアが一歩前へ出る。
「……お名前を伺ってもいいですか?」
柔らかな声音だった。
怯えた相手の警戒を解くような、優しい口調。
ロップは一瞬だけ迷うような素振りを見せた後、消え入りそうな声で答えた。
「……ロップ、です……」
小さいながらも、はっきりとした返事だった。
「レオンさんとは……以前……お会いしました……」
「以前?」
ニクスが首を傾げる。
ロップは胸元で抱くように持っていた剣へ視線を落とした。
「魔装兵器獣の事件の時に……」
その言葉を聞いた瞬間、ニクスの脳裏に記憶が蘇る。
「あぁ……」
納得したように息を吐いた。
「そういやアイツ言ってたな。兎の亜人に命助けられたって」
ミレアとリシェルも顔を見合わせ、小さく頷く。
断片的にしか聞いていなかった話。
だが今、その欠けていた欠片が一つ繋がった。
ロップは無意識のように剣の柄を握り締める。
白くなるほど力が入った指先。
その仕草に、ミレアは静かに問いかけた。
「その剣は……?」
ロップの肩が震えた。
しばらく沈黙が流れる。
やがて彼女は意を決したように口を開いた。
「……姉のものです」
震える声。
「私の……姉の形見なんです……」
森が静まり返る。
風の音すら遠く感じられた。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
その一言だけで十分だった。
彼女がどれほど大切にその剣を抱えているのか。
そして、その姉がもうこの世にいないことも。
全て伝わってきた。
「……そっか」
珍しくニクスが言葉に詰まる。
頭を掻きながら視線を逸らした。
こういう話は苦手だった。
敵をぶっ飛ばす方がよほど楽だ。
「……あー、なんだ」
ぶっきらぼうに口を開く。
「とりあえずさ」
そう言って森の奥へ目を向けた。
木々の隙間から漂う不気味な気配。
魔物の気配は薄れている。
だが、完全に消えたわけではない。
「ここに一人でいるのは危ねぇ」
その言葉にロップが顔を上げる。
「……え?」
「王都まで送ってやるよ」
あまりにも自然に告げられた言葉だった。
だからこそ、ロップは目を丸くする。
信じられないものを見るような表情。
ミレアが優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
穏やかな声が森に溶ける。
「もう一人にはさせません」
その言葉を聞いた瞬間。
ロップの瞳が僅かに揺れた。
張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
ぎゅっと抱えていた剣を握る力も、ほんの少しだけ弱くなった。
その横で、リシェルは周囲への警戒を解かないまま短く告げる。
「……ここ、危険」
「だな」
ニクスが頷く。
「さっさと戻るぞ」
そう言って踵を返した。
そして数歩進んだところで片手をひらひらと振る。
「ほら、来いよ」
振り返りもしない。
だが、その背中は確かに彼女を受け入れていた。
ロップはしばらくその場に立ち尽くしていた。
姉を失ってから、ずっと一人だった。
頼れる者もいない。
守ってくれる者もいない。
そんな彼女に向けられた、何気ない優しさ。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……はい」
小さく返事をする。
先ほどよりも、ほんの少しだけ力のある声だった。
ミレアが隣に並び、リシェルが後方を警戒する。
ロップは二人に挟まれるようにして歩き出した。
来た道を戻るように。
戦いの傷跡が残る森を抜けて。
王都へ向かって。
だが――
この時の彼らはまだ知らない。
森で起きている異変が、単なる魔物の流入などではないことを。
そして。
ロップが抱くその一本の剣が、やがて訪れる戦いに深く関わっていくことを。
木々の隙間から吹き抜けた風が、少女の耳を優しく揺らした。
それはまるで、遠いどこかから見守る誰かの声のようだった。




