↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/255

届かない背中3

 カーシュの背中が、徐々に小さくなっていく。


 燃え盛る村の方へ戻り、彼は一人、迫り来る無数の影と対峙していた。


 レオンには、どうすればいいのかわからなかった。


 戻るべきなのか。

 それとも、このまま逃げるべきなのか。


 頭では理解している。

 カーシュが何のために自分を逃がしたのかも。

 ここで自分が戻れば、彼の覚悟を無駄にしてしまうことも。


 それでも――。


 遠ざかっていく背中を、ただ見つめていることしかできなかった。


「……っ」


 気づけば、右手を伸ばしていた。


 届くはずがない。

 どれだけ手を伸ばしたところで、あの背中には届かない。


 それでも、伸ばさずにはいられなかった。


 まるで、そうすることで彼を引き止められるとでも思っているかのように。


 だが、カーシュは振り返らなかった。


 彼の視線の先には、こちらを追い続ける無数の影が蠢いている。


 黒い群れが、じわじわとその距離を詰めていく。


 逃げ場などない。


 それでもカーシュは、臆することなく剣を構えた。


 そして――。


「おおおおおおおおおッ!!」


 咆哮と共に、駆け出した。


 たった一人で。

 押し寄せる敵の群れへと。


 その姿を目にした瞬間、レオンの伸ばした手が、ぴくりと震えた。


 握り締める。


 指先に力を込め、ゆっくりと右手を引き下げる。


 胸の奥が、引き裂かれるように痛かった。


 今すぐにでも駆け戻りたい。

 もう一度、あの背中に手を伸ばしたい。


 けれど――。


 脳裏に、あの言葉が蘇った。


『生きろ』


 短く、力強い言葉。


 それは、カーシュが自分に託した最後の願いだった。


「……っ、う……」


 唇を噛み締める。


 視界が滲んだ。


 涙が溢れ、頬を伝っていく。


 止めようとしても、止まらなかった。


 それでも、レオンは振り返ることをやめた。


 森へと身体を向ける。


 一歩。


 足が震えた。


 もう一歩。


 喉の奥から嗚咽が込み上げる。


 それでも、足を動かす。


 そして――。


 レオンは走り出した。


 涙で滲む視界の中、ただひたすらに森を目指す。


 逃げなければならない。


 生きなければならない。


 カーシュが、自分を生かすために命懸けで戦っているのだから。


 その覚悟を。

 その命を。

 無駄にするわけにはいかない。


 だから、走った。


 何度も転びそうになりながら。

 何度も振り返りそうになりながら。


 必死に、前だけを見つめて。


 その時だった。


 ――ズンッ!!


「……っ!?」


 突然、地面が大きく揺れた。


 足元が跳ね上がり、木々が激しく軋む。


 次の瞬間。


 ――ドンッ!!


 凄まじい衝撃が轟いた。


 空気が弾け、森の木々が一斉に震える。


 まるで大地そのものが悲鳴を上げたかのような轟音。


「なっ……!?」


 レオンは思わず足を止めた。


 そして、弾かれたように振り返る。


 燃え盛る村の前方。


 そこには、巨大な土煙が巻き上がっていた。


 爆風が木々を揺らし、舞い上がった土砂が周囲を覆い尽くしていく。


 つい先ほどまで見えていた景色が、完全に遮られていた。


「……カーシュ?」


 胸の奥が、嫌な音を立てた。


 まさか。


 そんなはずはない。


 だって、あのカーシュが。


 あんなに強い人が。


「カーシュ!!」


 叫んだ。


 喉が張り裂けるほどの声で。


 けれど、返事はなかった。


 土煙が風に煽られ、渦を巻く。


 その向こうに、彼の姿を探す。


 どこだ。


 どこにいる。


 いつもみたいに、何でもない顔で立っているはずだ。


 剣を構えて。

 こちらを追ってくる敵を睨みつけて。


 そして、いつものように――。


「カーシュ!!!」


 もう一度、叫んだ。


 今度こそ届くように。


 今度こそ、返事が返ってくるように。


 だが。


 ――何も、返ってこなかった。


 風が吹く。


 舞い上がっていた土煙が、ゆっくりと晴れていく。


 レオンは、その場に立ち尽くしたまま、煙の向こうを見つめていた。


 震える足を、無理やり前へと動かす。


 一歩。


 また一歩。


 近づくにつれて、視界が少しずつ開けていく。


 そして――。


「…………え?」


 レオンは、目の前の光景を理解できなかった。


 そこには、何もなかった。


 人影はない。


 無数に蠢いていた影の姿もない。


 ただ、地面が深く抉れ、周囲には焼け焦げた跡が広がっているだけだった。


 まるで、そこにあったすべてが、一瞬にして消し飛んでしまったかのように。


「……は……?」


 声が漏れた。


 頭の中が真っ白になる。


 理解できない。


 いや、理解したくなかった。


 ついさっきまで、確かにいたのだ。


 あそこに。


 自分の前に立ち、剣を構えていた。


 たった一人で敵の群れに立ち向かっていった、あの背中が。


「……カーシュ?」


 呼びかける声が震えた。


 返事はない。


 もう一歩、前へ。


 視線を巡らせる。


 抉れた地面。

 焼けた木々。

 立ち込める煙。


 どこにも、彼の姿はなかった。


「……どこだよ」


 かすれた声が、口から零れる。


 足がもつれた。


 それでも、レオンは前へ進もうとした。


「……なあ、カーシュ……」


 返事はない。


「……どこにいるんだよ……」


 喉が詰まる。


 視界が歪む。


 それでも、必死に目を凝らした。


 どこかにいるはずだ。


 きっと、あの土煙の向こうに。


 少し離れた場所に倒れているだけかもしれない。


 そうだ。


 そうに違いない。


 だから――。


「……出てこいよ……」


 声が震える。


「……頼むから……出てこいよ……」


 胸が苦しかった。


 息がうまく吸えない。


 それでも、言葉だけは止まらなかった。


「……ふざけんなよ……」


 ぽたり、と。


 地面に涙が落ちた。


「……こんなの……」


 膝から力が抜けた。


 レオンは、その場に崩れ落ちる。


 両手を地面についた。


 冷たい土の感触が、掌に伝わってくる。


 あまりにも冷たくて。

 あまりにも確かで。


 それが、今この場所に残された現実のすべてだった。


「……カーシュ……」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 何度も。

 何度も。


 けれど、返事はなかった。


 いつもそこにあったはずの背中は、もうどこにも見当たらない。


 手を伸ばしても、届かなかった。


 声を上げても、届かなかった。


 最後まで、何もできなかった。


 ただ、生きろと言われたから。


 彼の願いを無駄にしないために、走ることしかできなかった。


 その結果が、これなのか。


 彼が命を懸けて守ろうとした自分だけが、こうして生き残っている。


「……う、あ……っ」


 嗚咽が漏れた。


 止めようとしても、止まらない。


 涙が溢れ、頬を濡らし、地面へと落ちていく。


 何かを叫びたかった。


 何かを否定したかった。


 けれど、言葉にならなかった。


 レオンはただ、うつむいたまま、声を押し殺して泣き続けた。


 目の前には、抉れた大地が広がっている。


 その向こうに、彼の姿はない。


 どれだけ待っても。


 どれだけ名前を呼んでも。


 あの背中が、再び自分の前に現れることはなかった。


 ――最後まで。


 レオンの手は、カーシュに届かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。