ケツァルコアトル 馬車
荷馬車の車輪が、乾いた大地を軋ませながら進んでいく。
揺れは単調で、一定だ。
御者台に座るファルガの手綱さばきは無駄がなく、道の荒れ具合すら感じさせない。
そんな穏やかな移動が、すでに数時間は続いていた。
「……暇だな」
ぽつりと、ニクスが呟いた。
荷台に寝転がり、腕を頭の後ろで組んだまま空を見上げている。雲ひとつない青空が、逆に退屈さを助長していた。
「それ、贅沢な悩みだよ」
すぐ隣で、ユージンが苦笑する。
「戦闘が無いってことは、それだけ順調ってことなんだから」
「分かってるけどさ。こう、何も起きないと逆に調子狂うだろ」
「君は常に火の中に飛び込んでいたいの?」
「極端だな……」
軽口の応酬に、空気がわずかに和らぐ。
その様子を、少し離れた位置からミレアが静かに見ていた。
「……問題なし。半径三百メートル以内、魔物の反応はありません」
淡々とした報告。
だがその一言が、この“何も起きない時間”を支えている。
「本当に助かるよ、ミレア」
レオンが感心したように言う。
「誤差はあります。でも、この規模なら十分回避可能です」
視線はすでに次の範囲へ向けられている。
探知は常に継続中だ。
「ありがとう。正直、ここまで何も出ないとは思ってなかった」
ユージンが短く付け加える。
彼女の視線は周囲の地形――逃げ場や死角――を常に確認していた。
何も起きていない今も、戦場を前提にしている。
「だろ?普通なら一回くらいは群れに当たるはずなんだがな」
御者台から、ファルガが振り返らずに言う。
「全部ミレアのおかげだ。ルート取りも完璧だしな」
「そっ…そんなこと無いですよ…」
称賛に、ミレアは頬を赤くする。
―ほんのわずかに、視線が逸れた。
ニクスがそれを見て、くくっと笑う。
「おい、今ちょっと照れただろ」
「照れていません」
「いや絶対——」
「ニクス」
リシェルの一言。
それだけで、ニクスは肩をすくめて口を閉じた。
「はいはい、分かってますよ」
だが懲りてはいない声音だった。
そんなやり取りを聞きながら、レオンは静かに目を細める。
――順調すぎる。
それは喜ぶべきことだ。
だが同時に、どこか引っかかる感覚もあった。
言葉にするほどではない。
ただの直感だ。
「……レオン?」
ユージンが顔を覗き込む。
「どうかした?」
「いや……なんでもない」
小さく首を振る。
今は、考えすぎる必要はない。
そう判断して、視線を前方へ戻した。
やがて。
「そろそろ見えてくるぞ」
ファルガの声。
進行方向の先――なだらかな丘を越えた先に、小さな町が姿を現した。
石造りの建物が点在し、外周には簡素な柵。
大きくはないが、山へ向かう者たちの中継地点としては十分な規模だ。
「ここが中継の町か」
レオンが呟く。
「ああ。ハウリス山脈に入る前の最後の補給地点だな」
ファルガは手綱を軽く引きながら続ける。
「この先は道が一気に悪くなる。岩場と傾斜だらけで、荷馬車はまず無理だ」
「ってことは——」
「ここで荷馬車は置いていく。必要な荷だけ持って徒歩だ」
ニクスが起き上がり、面倒そうに顔をしかめた。
「マジかよ。楽できるのここまでか」
「山を舐めるな。むしろここまで楽だったのが異常だ」
ユージンが即座に切り返す。
「はいはい、正論は聞き飽きたっての」
「聞き飽きても現実は変わらない」
淡々とした応酬。
その間に、馬車は町の入口へと近づいていく。
「今日はここで一泊だな」
ファルガがそう言った。
「装備の最終確認と、食料の補充。それと体を休める」
「明日、山に入るってことか」
レオンが確認する。
「ああ。早朝に出る。天候も安定してるしな、今が一番いい」
短く、的確な判断。
長年の経験に裏打ちされた声音だった。
「異論あるやつは?」
ファルガが一応、といった調子で聞く。
「…特に無い」
リシェルがすぐに答える。
「休める時に休んでおくべきだしね」
「同意」
「問題ない」
「……まあ、飯がまともなら文句はねぇ」
ニクス。
全員一致だった。
「よし、決まりだな」
ファルガが小さく笑う。
荷馬車はそのまま、町の中へと入っていった。
何事もなく。
あまりにも穏やかに。
――この時点では、まだ誰も知らない。
別の場所で起きた出来事が、どれほど大きな波となって彼らに迫っているのかを。




