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叔母ラヴァー  作者: 黒風月
さとし編
54/55

#54 不穏な事件

「その傷……どうしたの?」


 増田さんとシャワーを浴びている途中、彼女は尋ねてきた。僕はハッとした。そうだった。僕の両腕には忌々しい傷跡が残されていたんだった。


「えっと……その……」

「あ、ごめんね。変なこと聞いちゃって」

「い、いえ、その……いいんです」


 増田さんは気まずそうに背を向けてシャワーを浴びていた。僕はただ俯くだけだった。虚しくシャワーの音だけが響いてしまった。どうしよう。せっかく仲が深まったのに、また気まずい思いをするなんて嫌だ。


「増田さん、今日は……楽しかったです」

「うん。私も」

「あの……添い寝してもいいですか?」

「え?」

「あ、あの……嫌でしたら別に……」

「ふふ、いいよ〜! こんなおばさんで満足してくれるのなら」


 増田さんはそう言ってベッドに横たわった。改めてみるとその迫力は絶大だ。僕は静かに寝そべると快くまで彼女の温もりを堪能した。



 ホテルを出た後、増田さんは僕のためにタクシーを拾って家まで送った。けど、流石にマンションの前だと色々噂される可能性があったので、近くに止めてもらうことにした。


「おやすみ。神山くん」

「おやすみなさい」


 増田さんは窓を降ろして顔を乗り出した。僕は自然と吸い寄せられて軽いキスをした。互いのはにかんだ顔を見た後、再び窓は閉まり車は去って行ってしまった。


 排気ガスの残り香を感じながら僕は夢でも見ていたのではないかと思った。まさか増田さんとあんな風な関係になれるとは思ってもみなかった。


(早く帰って寝よう)


 そう思い、歩き出した時だった。


「どうもお久しぶりです……下山しもやまさん」


 背後からその苗字が聞こえた時、背筋が凍りそうになった。この町に僕の本当の名前を知っている者は存在しない……では、なぜ?


 ゆっくり振り返ると、見覚えのある風貌の男がいた。昭和の雰囲気が漂うコートを着ていた。


「何のようですか……刑事さん」


 僕がそう言うと、中年刑事はコートの内側からタバコを取り出した。


「いやね……ちょっと話したい事がありまして」


 中年刑事はライターをタバコに近づけた後、フゥと息を吐いた。その煙は宙に留まり、刑事の風貌が蜃気楼のように揺らいでいた。


 中年刑事は僕を車に乗せた。どこかファミレスか何かで話をするのかと思ったが、発進しないでこのまま話し始めた。


「それにしても驚きましたよ。まさか名前が変わっていたとは……」

「当然ですよ。あんな事があれば名前を変えるのは当然です」

「まぁ、そうですよね」


 中年刑事は再びタバコを吸ってフゥと吐いた。充満する煙に少し咳き込んでしまった。


「それで話は何ですか?」

「あなたの叔母さんのことですよ」


 『叔母』という単語が脳裏に浮かんだ瞬間、一気にあの頃の記憶が発掘された。叔母と食事を楽しんだ日、寝静まった叔母に触れた禁断の日、初めて心と身体を重ねた日、そして、裏切られた日……。あらゆる記憶が入り混じり、まるで汚泥となって僕に降りかかった。その瞬間、急激な吐き気が起きた。それを察した中年刑事が「どうぞ」とドアを開けた。僕は近くにある電信柱で嘔吐した。記憶を消すかと思うくらい吐いた後、ようやく落ち着きを取り戻して車に戻った。


「おば……あの人がどうかしたんですか?」

「実はあなたの叔母…… 上川真奈美かみかわまなみさんが植物状態なんです」


 植物……その言葉に僕の心は揺らいだが、すぐに平静を取り戻した。


「どうしてですか? あの人は……事件で後遺症が残ったんですか」

「いえ、そうではないんです」


 中年刑事は短くなったタバコを消すと、再び新しいのを付けた。


「銃撃事件のこととか、過去に起きた下山……神山さんのご両親の殺害事件のことをお伺いしようとしたんですがね……だんまりなんですよ」

「だんまり?」

「えぇ、まるで人形みたいに黙ってしまって。何を言ってもずっと一点を見つめたままなんです」


 何だそれ。僕の家族を殺したくせに黙秘を貫くなんてどうかしている。


「証拠は揃ってるんですか?」

「今、集めている最中です」

「まだ集まっていないんですか? あの事件から一年以上が経ったんですよ?!」


 僕の声が大きくなっていった。中年刑事は「落ち着いてください」とタバコの箱を見せた。


「吸うわけないじゃないですか」

「おや、そこまでやさぐれてはいないんですね」

「……これ以上茶化すつもりでしたら帰ります」

「あなたの事を聞くと反応するんですよ」


 僕がドアを開けようとした瞬間、中年刑事は遮るようにそう言った。思わず手が止まってしまった。


「……」

「あなたの事を尋ねるとまるでスイッチが入ったように話すんです。あなたが幼い時とか、一緒に食事をしたこと……あの事件の日以外は」


 僕は『そんなの知るか』と叫ぼうとした。が、なぜか言葉が出てこなかった。脳裏に叔母との思い出が否が応でも押し寄せてきた。


 中年刑事の話は続く。


「これが不思議なんですけどね……彼女の仕事や仲の良かった友人の事を聞いても返って来ないんですよ。あなただけなんです」


 中年刑事の『あなただけ』という言葉に不覚にも僕の心がミキサーで掻き乱されてしまった。


 だが、僕は押し殺した。許してはいけない。僕の本来手に入れるはずだった人生を壊した悪魔なんかに同情してはいけないと言い聞かせた。


「……話はそれだけですか? 僕は今後一切会うつもりはありませんし、あの人の事も話したくもありません」


 僕はドアを蹴破る勢いで開けようとしたが、中年刑事は「話はこれからが本番なんです」と少し強めな口調で言った。


「だから、僕はあの人のことは……」

「いえ、叔母さんの事ではありません」


 中年刑事はそう言うと、コートの内ポケットから一枚の紙を取り出した。見てみると、眼鏡をかけた根暗そうな男の証明写真だった。


「誰ですか?」

加藤諭かとうさとるさんです。四十代のシステムエンジニア」


 全く知らない名前だった。なぜ刑事はこんな人の写真を見せてきたのだろうか。僕は首を傾げると、刑事は二枚目を見せてきた。今度は白髪の生えた顔の薄い男だった。


「この人は松田哲まつださとるさんです。五十代の証券会社勤務」


 僕は少しある引っ掛かりを覚えた。その引っ掛かりが何か鮮明になる前に三枚目を見せてきた。先程の二人とは打って変わって若いチャラそうな男だった。


斉藤聡さいとうさとるさん。二十代でフリーター」


 僕はようやく引っ掛かりの正体を見つけた。それと同時にある不安が芽生えた。声を少し震わせながら刑事に聞いた。


「この……方達がどうかしたんですか?」

「殺されました」

「こ、殺された……?」

「えぇ。一人は縄で、もう一人はナイフで、もう一人は毒で殺されました」


 身体の震えが止まらなかった。赤の他人のはずなのになぜか今度は自分の番のような心地がした。


「その……この方達と僕とどんな関係があるんですか?」

「おや? 名前を言わなかったですか? 加藤諭さん、松田……」

「いえ、全員名前が僕の前のと同じなのは分かっています。どうして彼らが僕と関係あるのかと聞いているんです」

「……あぁ、それはですね」


 中年刑事は三枚の写真をコートの胸ポケットにしまうと咳払いした。


「この三件の事件……神山さんが住んでいたマンションの周辺で起こっているんですよ」

「……え?」


 しばらく言葉が出なかった。どう返したらいいのか、分からなかった。脳裏にはエレベーターで起きた赤い女のトラウマなどが浮かんでは急速に流れていった。


「……知りませんよ。そんなの」


 ようやく言えた言葉を吐き出して、僕は車から飛び出した。道中振り返ったが、中年刑事は追って来なかった。


 僕は逃げるように内田さんの部屋に向かった。内田さんからもらった合鍵で中に入ると真っ暗だった。まだ帰ってきていないらしい。今の気分は内田さんに慰めてもらいたかったが、贅沢は言えないので軽くシャワー浴びて寝ることにした。


 頭の中では中年刑事の言葉が何度も繰り返されていた。もしもと考えてしまう。


 もし誰かが『さとる』という名前を狙って殺しているのだとしたら、犯人は僕と関係のある人……あるいは叔母か美智子さんのファンかもしれない。


 でも、仮に僕が狙われていたとしても大丈夫だ。僕は名前を変えた。住む場所も変えた。昔住んでいた事件なんて今の僕には関係ない。


 僕はそう言い聞かせながら布団を深く被った。

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