#48 久しぶりの暖かい食事
内田さんの家はマンションの五階だった。一軒家に住んでいたはずだと思っていたが、どうやら僕が退職した直後、離婚したらしい。訳を聞いたら「一緒に暮らすのが嫌になった」とだけ言ってエレベーターに乗った。
僕と内田さんだけの二人だけの空間。だけど、誰か背後から見ているのではないかと不安になってしまう。きっと赤いコートを着た女性のトラウマがまだ根強く残っているせいだ。
「どうしたの、悟くん?」
内田さんが首を傾げていた。僕は『何でもないです』と返そうとしたが、喉と口が乾いてうまく言葉が発せなかった。
すると、僕の手を握ってきた。三ヶ月ぶりの内田さんの手はカイロみたいに熱くて心地よかった。
僕は我に返って「平気ですから! その……もう子供じゃないですし」と離そうとしたが彼女の手は接着剤でくっついているのかと思うくらい離れなかった。
「だって、こんなに震えているじゃない。きっと『あの事件のトラウマ』を思い出したんでしょ?」
あぁ、そうだった。内田さんには本当の僕を打ち明けたんだった。僕は軽く頷くと内田さんは「恥ずかしがる事はないから。私の前だけ子供のままでいいの」と聖職者のような微笑みを見せてきた。
こんな清らかな笑顔の持ち主がどうしてあんな下衆(ガタイのでかいゴツゴツした顔の男)な奴の妻になったのか理解できなかった。あの時も話してくれなかったっけ。
なんて事を思っているうちに五階に着いた。一瞬だけ赤いコートの女性が現れたかと思ったが、ただの幻だった。
まるで恋人みたいに手を繋いで内田さんが住んでいる部屋に向かった。鍵を開けて中に入ると、アロマの香りがした。
「さぁ、遠慮なく入って」
「お、お邪魔します……」
キチンと靴を揃えてから廊下を歩き、中に入ると、ごく普通のリビングだった。テーブル、椅子、テレビ、キッチン、奥へと続く扉――どこにでもありそうな個性のないものだが、非常に懐かしく感じた。
あのテーブルに叔母と美智子さんと僕が仲良く食事をしている光景が浮かんだ。美智子さんの手作りの卵焼き――あれ? 叔母だったっけ。あぁ、もうどっちが料理がうまいかも忘れるくらい月日が経ってしまったのか。
「悟くん、どうしたの? ご飯、食べよ」
内田さんが心配そうに話しかけてきたので、僕は「ごめんなさい。ちょっと疲れちゃって」と言ってキッチンに向かった。そこで手を洗っていると内田さんは「何か作ろうか?」と優しく聞いてきた。
「お手数を煩わせる訳には」
「いいの! 久しぶりに会ったから何か手料理を食べさせたいなって……何か食べたいのある? あ、でも、難しいのは止めてね。料理、そんなに得意じゃないから」
内田さんは照れた様子で僕を見つめていた。本当にこの人は聖人だ。
「卵焼きが食べたいです」
「いいの? もっとスタミナのつくものでもいいけど」
「今、卵焼きがものすごく食べたいんです」
「そっか。甘いのがいい? それともしょっぱいの?」
「しょっぱいのでお願いします」
「分かった! よーし、久しぶりに張り切っちゃうぞー!」
内田さんは腕まくりして冷蔵庫から卵を取り出した。その光景を見ていると、美智子さんが卵を割ってかき混ぜている思い出がフラッシュバックされた。
が、耳の奥から銃声が聞こえてきた。幻聴は分かっているが、居ても立ってもいられずキッチンから離れてテレビを付けた。音量を上げても銃声と悲鳴が消え去る事はなかった。
※
「さぁっ! 食べて食べて!」
内田さんは嬉しそうにテーブルに料理を出してきた熱々のご飯、ワカメの味噌汁、卵焼き――シンプルな定食だが、なぜか胸の奥がジーンと響いた。
「い、いただきます!」
僕は箸を取ってたまご焼きを一口大に切った。口の中に入れると、ジュワッと出汁が溢れてきた。
「……美味しい」
僕の心の中にガソリンが灯火されたかのように急に加速しだした。ご飯を頬張って、味噌汁で流し込む。また卵焼きを口に入れて米を押し込む――もう何日も食事をしていないかのような勢いで食べた。
頭の中が叔母と美智子さんとの食事と今の食卓が交互に入れ替わり、感情が入り乱れていた。
「悟くん、泣いてるの?」
内田さんがティッシュを出して目元を拭いてくれた。妙に塩味が濃かったのは出汁ではなくて涙のせいだったのか。
僕はコップに注がれたお茶を一気に飲むと、ホゥと息を吐いた。まるで生き返ったかのような心地だった。
「悟くん、工場を辞めてから今までのこと話してくれる?」
流石に僕の行動に違和感を覚えたのか、真剣な眼差しで聞いてきた。僕は今日に至る事を全て話すと、内田さんは「ごめんね」と涙目になっていた。
「内田さんは謝らなくていいんですよ。悪いのは僕なんですから」
「あなたは一つも悪くない」
「最初に近づいたのは僕なんですから……こうなったのも自業自得です」
「あなたのせいじゃない」
すると、内田さんが僕の手を握ってきた。エレベーターの時のように母性に包まれた心地がした。
「きっかけを作ってくれたのはあなただけど、受け入れたのは私よ。あの人には得られないものをあなたは持っていた。だから、浮気したの」
浮気という言葉は嫌いだったが、なぜか内田さんが言うと清い言葉に聞こえてしまう。
内田さんの淀みのない瞳に吸い込まれそうになった。包まれた手は堅く離れそうになった。手だけではなく僕の身体も動かなかった。メドゥーサに石にされてしまったかのように彼女の瞳を見つめていた。
「あなたと再会した時、運命だと思った。これはきっと神様が私達を引き寄せてくれたのよ」
「……ドラマの見過ぎ――」
僕が言い終える前に内田さんの唇で塞がられてしまった。心臓が跳ね上がり、全身の血流が盛んになった。ドッドッと鼓動が大きく聞こえた後、彼女は唇を離した。
「このキスは演技じゃないから」
内田さんはまた唇を重ねてきた。




