#10 思わぬ隣人
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
美智子さんは突然酔いが醒めたのか、ベッドの縁に腰を降ろして目元を拭っていた。僕はその隣に座って彼女を慰めていた。
「美智子さんは何も悪くないです。僕の方ですよ。誘惑に負けてしまったから……」
「それは私が先にしたからでしょ? 私、夫が浮気したからって、その……親友の甥っ子になんか手を出して……しかも、智くんの初めてをこんなオバさんに……」
「美智子さん」
僕は彼女の手を握りしめた。突然触れられた事に驚いたのだろう、僕の顔を見て目を丸くしていた。
「オバさんだなんて言わないでください。僕は初めての相手が美智子さんでとても嬉しかったです。普段テレビとかで見ている人とエッチできるなんて、めったに体験できないですよ」
「智くん……」
美智子さんは静かに握り返した。見つめ合い、ドラマみたいに熱烈なキスをした。二人同時にベッドに倒れて、揉み合うように口づけを交わした。
※
気がついたら、朝になっていた。全身に見えない重りが乗っかったかのように気だるかった。隣を見ると、美智子さんの姿はなかった。
(もう帰ったのかな)
なんて思いながら起き上がると、スマホから通知音が聞こえてきた。辺りを見渡してみると、机の上にあった。いつ置いたのか分からなかったが、ベッドから降りて手に取ると、『MICHIKO』と英字の名前が目に入った。
(MICHIKO……みちこ……美智子?!)
まさかの人物に僕は二度見してしまった。昨日の夜の事を思い出しても、彼女と連絡先を交換した覚えはなかった。おそるおそる開いて見てることにした。
『智くん、昨日はごめんね。でも、楽しかったよ♡ また何かあったらいつでも相談して! 今度会えたら何かごちそうするね!』
どうやら昨日は夢ではなかったみたいだ。改めて思い出してみると、まさか自分が芸能人と甘美な時間を過ごす事ができるなんて――ファンがどれだけ大金を注ぎ込んでも成し得ない経験だ。
僕は制服姿のままである事を思い出し、適当に着替えて洗面所に行き、歯磨きと顔を洗った後、リビングに向かった。
叔母はまだ眠っていた。宴の痕跡がまだ残っていて、アルコールの匂いがまだ抜けていなかった。さすがにこのままにしておくのはマズイので、叔母は布団だけかけて寝かせ、散乱した瓶やグラスは急いでキッチンに持っていて洗って片付けた。
匂いも消臭力抜群のものを置き、テーブルを拭いた。そして、目覚めた時に食べれるように朝ごはんを作ることにした。
お米を研いで水を入れて炊飯器を早炊きにセットした後、玉子焼を作った。叔母も僕も甘めのが好みなので、砂糖を多めにして焼いた。
冷蔵庫に鮭があったのでそれを二尾焼き、残るは味噌汁だけとなった。叔母は間違いなく二日酔いになっていると思うので、シジミの味噌汁がいいのだが、どこを探しても見つからなかった。
(買いに行くか)
僕はそう思って部屋に戻り、財布を持って家を出た。
「ん?」
「あれ?」
ドアを開けた瞬間、隣の部屋からも人が出てきたが、その人物が山岸先生だった。
「や、山岸……先生?」
「下山じゃないか!」
お互い声を上げて、しばらく硬直していた。
※
山岸先生の話によると、最近僕が住んでいたマンションに引っ越してきたらしい。そういえば、僕と叔母が住んでいる隣は空き部屋なのを忘れていた。
それにしても、いつの間に来ていたのだろう。僕が学校に行っている間に引っ越し作業を済ませていたのかな。
「住所を見て下山が住んでいる所だなとは思ったけど、まさか隣だとはな」
「挨拶に来た覚えはないんですけど」
「タオルだけ入れておいたんだ。もしかして知らなかったのか?」
「え? うーん……」
郵便物の管理は叔母が担当しているから、もしタオルが入っているのだとしたら気づいているはずなんだけど。単純に言い忘れたか、それとも見てないのか。
「休みなのにこんな朝早くに起きるなんて、何か用事があるのか?」
僕が思案を巡っていると、山岸先生に話しかけられた。
「は、はい。朝ごはんの材料を買いに……先生は?」
「朝練だ。もうすぐ大会が近いからな」
そっか。先生は女子サッカー部の顧問だっけ。
「大変ですね。朝、起きるの辛くないんですか?」
「まぁ、嫌だなと思うことはあるが、慣れたよ」
そんな会話をしているうちに、コンビニに着いた。カゴを持ってシジミを探した。
「何を探しているんだ?」
「シジミです。できれば素材が欲しいんですけど……」
「コンビニじゃあ、即席で作れるやつしかないんじゃないかな」
「……ですね。そうしましょう」
僕はシジミのカップスープを手に取って、カゴに入れた。すると、先生が「おごってやる」とカゴを取った。
「いいんですか?」
「ご近所づきあいは大切にしないとな……ついでにこれも買っちゃえ」
山岸先生はおにぎり二個とサラダチキン、500mlの水を入れた。そして、レジに持っていくと、「フランクフルトでも食べるか?」と聞いてきたので、お言葉に甘える事にした。
コンビニの前で、フランクフルトを食べる事にした。たっぷりマスタードとケチャップをつけ頬張った。先生が買ったおにぎりなどはリュックにしまい、カップスープが入ったコンビニの袋は当然僕が持つ事になった。
朝ごはん前に先生とこうやって食べる機会もないので、こういうのも悪くないなと思いながら食べた。
「うまいか?」
「えぇ、久しぶりに食べました」
モグモグと頬張っていると、隣から艶めかしい音が聞こえてきた。チラッと見てみると、山岸先生はフランクフルトをまるで愛でるように食べていた。
ケチャップとマスタードを舌先で丁寧に舐めた後、ずるむけになった肉塊を咥えて上下に動かしていた。
「んっ、くっ、ふっ、はぁ……」
「……先生?」
僕が声をかけると、山岸先生は我に返って「あ、あぁ……美味しいな。これ」と押し込むように噛んでいた。




