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抜け殻  作者: 桃空文伽
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3-吹き出物

~続き~

「そう言えばさっきの店でおかしなこと言ってたな」

 十人あまりが集まった一次会ではみんなが知っている社内の昔話や、難儀な得意先での苦労話、秘められた社内不倫ネタなどで盛り上がり、本人とゆっくり話す時間が持てなかったので、お開きになった後、善人は田辺とごく少人数の仲間だけをなじみのスナックに誘った。田辺が転任先から帰ってきたら急に老けていたという話を一次会ではそうかなと思って聞いていたが、あらためて田辺の顔を見ると、六十歳とはこんなに老けているものだったかなという気がした。善人が知っている田辺はエリート営業でゴルフ焼けした健康的な肌を持つ若々しい男だったはずだ。それが目の前にいるのは額と眼のまわりに深い皺が刻みこまれ、肌全体がくすんで垂れ下っている、七十とも八十とも見えそうな老人の姿だった。よほど転任先で苦労したのだろうかと思っていたら田辺から話題が振り出された。

「おいおい、なんだよ。俺の顔になんかついてるのか?」

 善人はあまりにも田辺の顔を凝視していたらしい。

「ああ、すいません。ちょっと」

「さっきの話だろう。俺が急に老けたっていう」

「いや、別にそんな」

「嘘つけ。何があったのか気になるんだろう」

「ああ、まぁ……その……田辺さんは確かにもっと若々しかったような」

 田辺は注文した湯割りの焼酎を少し舐めてから喉に流し込んで言った。

「小菅もきっと同じだと思うんだが……」

田辺は年下の善人を名字で呼び捨てにする。

「三十歳、四十歳と大台を越えるたびに何か氏ら体力の衰えとか、記憶力の衰えとか、感じなかったか? 俺はそういうのがあった。それで五十歳を越えたときにもやっぱりそういうのがあって、まだまだ現役バリバリだと思っていたのに、会社側も五十を過ぎた者の仕事を若い社員にシフトしていくような動きがあってな、それで地方へ飛ばされてしまった。それでもまだ俺は若いと思っていたんだが、向こうに行ってしばらくすると体にちょっとした異変が起きたんだ」

 異変という言葉はさびれた飲み屋の赤いカウンターにも湯気を立てて甘ったるい匂いを放っている焼酎グラスにもそぐわなかった。

「異変って、なんか不穏な言い方ですね。病気にでも……なったんですか?」

「いや、病気ではないんだけれど、なんていうか……異変としか言いようがないなぁ」

「そんなもったいぶらずに」

「このあたりにな」

 田辺は人差し指で鼻の頭を指差した。

「なんか妙な吹き出物みたいなモノができてな、なんか嫌なものが出たなぁと思ったんだ。そういう面疔っていうんかな、顔の真ん中にできるものはよくないっていうじゃあないか。そいつがな、腫れるでもなく、痛むでもなく、じわじわ皮膚の中にめり込んで行くような感じで何日もかかって広がっていってな」

「なんだか奇妙な感じですねぇ」

「そうなんだよ、それでいつの間にか消えてしまったんだが……」

「なんだ、ただのできものじゃないですか」

「ところがだな、その頃から急に老けてしまったんだ。ある朝鏡を見て驚いた。俺、こんな老人みたいな顔だったかなとな。皺やたるみや肌の色とかも、爺さんみたいになってて、それどころか後で気がついたんだがな、足腰の感じとか、関節の具合とかもなんだか油が切れた感じでな、おいおい、老人みたいになるのは早すぎるだろうって思った」

 夫が田辺から聞いた話はいかにも不思議な感じがした。けれども、その吹き出物と老化を意図的に関係あるもののように話すから奇妙に思えるのだ。毎日鏡を見ているわたしだって、あるとき不意に肌のシミを見つけて衝撃を受けることがある。眼の下のたるみだって、寝不足の朝なんてひどいことになっていてびっくりするくらいだもの。まして男の人なんて普段は鏡を見ることもないのだろうから、しばらくぶりにしげしげと自分の顔を見て老けこんだなぁと思うことだってあるんじゃないのかな。

「変な話ね、その田辺さんのお話」

「そうだろう? そんな急に老けたりするものかな」

「それもそうだけど、その吹き出物と何の関係があるのかしらね」

「ああ、そっちか。そう言われればそうだな。どうして吹き出物を異変だなんて言って老化の原因みたいな言い方をしたんだろうな、田辺さんは」

 昔聞きかじった心理学で、迷信行動と呼ばれるものがある。それは、箱に入れられた実験動物が偶然とった行動に対して餌を与えることによって、まったく無関係な二つの事象が結び付いてしまう、たとえば片足を上げると餌がもらえるとか、ボタンをつつくと餌がもらえる、といった具合に因果関係が形成されるというものだ。人間社会の迷信も、いってみればそのようなものだ。たまたま左足から歩きはじめたら躓いたとか、霊柩車が走っているのに親指を隠さなかったから親の具合が悪くなっただとか、偶然起きたことが奇妙に結びついてしまう。田辺さんの話も、そんな具合に偶然起きたふたつの事柄が頭の中で結びついてしまったに違いない。

 もう寝るわと言って夫は額に垂れ下っていた髪をかき上げながら立ちあがった。そうね、酔っぱらってるからお風呂はやめたほうがいいわねと夫の顔に目をやったとき、なんか違和感があった。あら、なにかしら。

「あなたちょっと、こっち見て?」

「え?」

寝室に行きかけた夫は立ち止まって振り向いた。そろそろ酔いも冷めてきたようで日焼けの赤さだけを残した額の上の方、生え際の真中あたりに他の皮膚よりはもう少し赤い頂を持った小さな膨らみができていた。

「なによ、それ」

「なにって、なに?」

 洗面所の鏡で膨らみを確認して指で触りながら戻ってきた夫が言った。

「これ……田辺さんのと同じものかなぁ」

「馬鹿ね、そんなわけないじゃない。そういうの、触っちゃだめよ」

「そうだな、そんなわけないな」

 食卓の上に置いたままになっていた湯呑の残りを飲み干して、夫は寝室に消えた。

 翌朝、いつもどおりに夫を送り出してから家の用事を済ませ、インターネットを立ち上げた。吹き出物、老化、ふたつの言葉を打ち込んで検索してみると美容系の記事がたくさんヒットしたが、そのふたつを原因、結果として結びつけるようなものはひとつとしてなかった。しばらくしてパートに出かけてしまうと、吹き出物のことはすっかり忘れてしまった。

                           ~続く~

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