消失という名の救済
『起点変更には、起点保持者自身の消失が必要である』
手帳に刻まれた文字を、私は見つめ続けていた。
消失。
その二文字が、頭の中で何度も繰り返される。
「……ヴィオレッタ様」
エミリアの声が聞こえた。
私は手帳を閉じた。
「大丈夫よ」
そう答えたものの、声はひどく掠れていた。
ノアが机の上の金属片を手に取る。
「この記述だけでは、消失の意味が分かりません。起点保持者の記録が消えるのか、それとも本人の存在が失われるのか」
「どちらにしても、私が原因なのでしょうね」
「そうとは限りません」
彼は即座に否定した。
「機構が提示した条件です。まだ、その条件が正しいとは確認できていない」
私は彼を見つめた。
以前なら、その言葉を聞いても信じられなかっただろう。
今も、完全には信じられない。
けれど、彼が私の言葉を否定するためではなく、私自身を守るために話していることは分かった。
「……そうね。まずは、調べましょう」
私は机に広げられた古代の記録を手に取った。
「起点変更に関する資料を探すわ。機構の初期設計についても確認したい」
エミリアが頷く。
「私も、古い魔力記録を調べます。これまでの反応と比較できるかもしれません」
ノアは金属片を机に戻した。
「では、私は管理番号と移管記録を調べます。起点保持者という概念が、いつから記録されているのかを確認しましょう」
三人で調査を始めた。
それは、以前の私たちとは違う光景だった。
私は情報を隠していない。 彼らの判断を奪っていない。
少なくとも、今は。
しかし、心の奥には、別の感情が残っていた。
もし、私が消えることで巻き戻しが止まるのなら。
それは、救済なのだろうか。
それとも、逃げ道なのだろうか。
私は、答えを出せなかった。
◇
夕刻。
ノアが、一冊の古い記録を持ってきた。
「見つかりました」
「何を?」
「永遠記憶機構の初期設計に関する資料です」
私は彼の手から記録を受け取った。
古びた羊皮紙には、複雑な魔法陣と説明文が記されている。
その中に、一つの記述があった。
『起点保持者は、記録の安定化を担う存在である』
私は眉を寄せた。
「安定化……?」
ノアが説明する。
「機構が記録を修正する際、基準となる記憶が必要だったようです。その役割を担うのが、起点保持者だった」
「では、私が消えれば、機構は安定するの?」
「その可能性はあります。ただし、別の記述もあります」
彼は頁をめくった。
そこには、さらに古い文字が記されていた。
『起点保持者の記録が損傷した場合、機構は代替起点を選定する』
私は息を呑んだ。
「……代替起点?」
「つまり、あなたが消失したとしても、機構が別の起点保持者を選ぶ可能性がある」
エミリアが顔を上げた。
「それでは、巻き戻しが止まらないかもしれないということですか?」
「ええ。起点を変更するだけでは、問題の根本的な解決にはならない」
私は記録を見つめた。
起点保持者の消失。
代替起点の選定。
そして、繰り返される記録の修正。
「……機構は、誰かを起点にし続ける必要があるのね」
ノアが頷いた。
「少なくとも、現在の設計では」
私は手帳を取り出した。
その表紙に、指先を触れる。
青白い光が浮かび上がった。
『起点保持者、記録の理解を確認』
『第七の記録、接続条件を更新』
その下に、新たな文字が現れた。
『起点変更の代替条件』
私は息を止めた。
文字は、ゆっくりと刻まれていく。
『起点保持者が、他者の記録を自身のものとして扱うことを放棄した場合』
『記録の分離が可能となる』
「……これは」
ノアが手帳を覗き込んだ。
「他者の記録を、自分のものとして扱うことを放棄する……?」
エミリアが静かに呟く。
「ヴィオレッタ様が、私たちの未来を決めないということですか?」
私は、言葉を失った。
自分のものとして扱う。
私が、何度もしてきたこと。
ノアが死ぬ記録。 エミリアが失われる記録。
それらを、私だけが覚えている。
私はその記憶を根拠に、二人の未来を決めようとしてきた。
危険だから。 死ぬから。 私が知っているから。
だから、私の言うことを聞いてほしい。
それは、彼らの記録を私のものとして扱うことだったのかもしれない。
「……そういうことなのね」
私は手帳を閉じた。
「私が、彼らの未来を所有しようとすることをやめればいい」
ノアは、静かに私を見た。
「ですが、それは簡単なことではありません」
「ええ」
私は頷いた。
「私が何度も見てきた死を、忘れることはできない」
エミリアが私の手を握った。
「忘れなくても、いいのではありませんか?」
私は顔を上げた。
「……え?」
「ヴィオレッタ様が経験したことを、無理に消す必要はないと思います」
彼女は、優しく微笑んだ。
「ただ、その記憶だけで、私たちの未来を決めないでほしいんです」
胸の奥が、静かに痛んだ。
それは、私がずっと聞きたかった言葉だった。
そして、私がずっと拒んできた言葉でもあった。
「……ありがとう」
私は、彼女の手を握り返した。
◇
その夜。
王宮地下の最深部で、古代の機構が再び起動した。
青白い光が、無数の石柱を照らす。
中央の巨大な記録装置。
そこに刻まれた三つの名前が、同時に輝いた。
ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン。
エミリア・ローゼン。
ノア・ヴァルケイン。
その下に、新たな文字が浮かび上がる。
『起点保持者、記録の分離を開始』
『第七の記録、開放準備』
『代替起点の選定を停止』
そして、最後に。
『記録保持者三名の意思を確認する』
地下の暗闇で、誰かが静かに呟いた。
「……ようやく、ここまで来たか」
その声は、かつて私が聞いたものと同じだった。
しかし、その人物が誰なのか。
私は、まだ知らなかった。




