変わった未来、残された違和感
その出来事を思い出したのは、昼休みが終わる少し前だった。
学園の中庭へ続く回廊を歩いていた私は、前方から聞こえた甲高い音に足を止めた。
金属が石畳を転がる音。
続いて、誰かの短い悲鳴が響いた。
――ああ、これだ。
脳裏に、見覚えのある光景がよみがえる。
中庭へ続く階段。倒れた装飾用の燭台。散らばった破片。そして、巻き込まれた生徒が手を負傷する光景。
以前にも、私はこの出来事を見ていた。
ただし、いつの人生で起きたことなのかはわからない。
記憶の中では、私は現場に到着したとき、すでに騒ぎが収まった後だった。誰が燭台を倒したのかも、なぜ倒れたのかも、はっきりとは覚えていない。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
あのとき、誰かが怪我をした。
「……間に合うかしら」
私は回廊の角を曲がり、足早に中庭へ向かった。
中庭では、数人の生徒が立ち止まっていた。
階段の脇には、装飾用の燭台が傾いている。金属製の支柱は石の台座から半分ほど外れ、今にも倒れそうになっていた。
そのすぐそばで、一人の男子生徒が落とした書類を拾おうとしている。
「触らないで!」
私の声に、彼は驚いて顔を上げた。
次の瞬間、燭台の支柱が大きく傾いた。
私は近くにいた生徒へ声を飛ばした。
「そこの二人、先生を呼んで! あなたは彼を階段から離して!」
指示を受けた生徒たちが動く。
私は男子生徒の腕をつかみ、後方へ引いた。直後、燭台が石畳へ倒れ、鈍い音を立てた。
幸い、誰にも当たらなかった。
周囲から安堵の息が漏れる。
「た、助かりました……!」
男子生徒は青ざめた顔で頭を下げた。
「お礼はいいわ。それより、怪我は?」
「ありません。ありがとうございます、本当に……」
彼は何度も頭を下げた。
私は燭台へ目を向けた。
記憶していた出来事とは、少し違っていた。
以前の光景では、燭台が倒れた後に悲鳴が上がり、誰かが手を押さえていたはずだ。
しかし今回は、誰も怪我をしていない。
私が早く動いたからだろうか。
おそらく、そうなのだろう。
少なくとも、目の前の結果には説明がつく。
「ヴィオレッタ様!」
駆け寄ってきたのは、エミリアだった。
「今の音、こちらから聞こえたので……。皆さん、ご無事ですか?」
「ええ。怪我人はいないわ」
「よかった……」
彼女は胸をなで下ろした。
その表情を見て、私はようやく自分の手がわずかに震えていることに気づいた。
記憶の中の光景と、現実の出来事が重なったせいだろう。
予知をしたわけではない。
未来を変えたと断言できるわけでもない。
私はただ、過去に見たことがあると思った出来事に対して、今回は違う行動を取った。
その結果が違った。
それだけだ。
それだけのはずだった。
燭台の台座を調べた教員によれば、固定用の金具が劣化していたらしい。
以前から緩んでいたのか、今日になって破損したのかはわからない。生徒がぶつかった形跡もあったが、それが倒れる直接の原因だったかどうかは断定できなかった。
事故は、単なる設備の不具合として処理されることになった。
私は教員に必要な説明を済ませた後、回廊の端でエミリアと並んでいた。
「ヴィオレッタ様は、どうして倒れる前に気づいたんですか?」
彼女が不思議そうに尋ねた。
「支柱が傾いていたからよ。見ればわかるわ」
「でも、私は音がするまで気づきませんでした」
「周囲を見ながら歩いていなかったのでしょう」
「うっ……。それは否定できません」
エミリアはしょんぼりと肩を落とした。
「次からは気をつけます」
「ええ。できれば、何かにぶつかる前にね」
「はい……」
少し言いすぎただろうか。
そう思った直後、彼女は顔を上げた。
「でも、ヴィオレッタ様も、いつもあんなに素早く動けるんですか?」
「必要に迫られればね」
「私も見習わないと」
「まずは、歩きながら本を読む癖を直すことから始めましょう」
「……どうしてわかったんですか?」
「あなたの手にある本、上下が逆よ」
エミリアは自分の手元を見た。
そして、慌てて本を持ち直した。
「こ、これは考え事をしていたからです!」
「そういうことにしておきましょう」
彼女が赤くなっているのを見て、私は小さく息をついた。
少なくとも、今の会話には不可解な記憶も、矛盾した記録も必要なかった。
ただの、いつもどおりの昼休みだった。
そのことに、私は少しだけ救われた気がした。
放課後、私は図書室の隅でノートを開いた。
今日の出来事について、覚えていることを順番に書き留める。
燭台の固定金具が劣化していたこと。
倒れる前に危険に気づき、男子生徒を遠ざけたこと。
結果として、負傷者は出なかったこと。
そして、記憶していた光景と現実には違いがあったこと。
私は最後の項目に線を引いた。
記憶の中では、誰かが怪我をしていた。
しかし、今日の出来事では、誰も怪我をしなかった。
この違いは、私の行動によって生まれた可能性が高い。
だが、それ以上のことはわからない。
記憶が正確だったのか。
以前の人生でも同じ場所で似た事故が起きたのか。
あるいは、別々の出来事を私が一つの記憶として結びつけているのか。
どれも、まだ否定できなかった。
私はペンを動かし、ノートの端に短く記した。
――記憶と現実の不一致は、記憶の誤りを示すとは限らない。
書き終えたところで、ふと手が止まった。
何かがおかしい。
今日の事故についてではない。
事故が起きた場所についてだ。
私の記憶では、燭台は階段の中央寄りに倒れていた。
だが、実際に倒れたのは階段脇の通路だった。
その差は、私が男子生徒を引き離したことによるものではない。燭台が倒れる方向そのものが、記憶と異なっていたのだ。
私は眉を寄せた。
金具の劣化具合。風の向き。誰かが触れた位置。
わずかな違いで、倒れる方向が変わることはあるだろう。
だが、私が思い出した光景は、そこまで細かく記憶できるほど鮮明だっただろうか。
そもそも、私は本当にこの事故を見たことがあるのだろうか。
確信が、少しずつ揺らいでいく。
帰宅後、私は机の引き出しから、以前のノートを取り出した。
記憶を信じるな。
最初に思い出した記憶を、決して信じてはいけない。
あの言葉を書いたのは誰なのか。いつ書いたのか。まだ何もわかっていない。
けれど、今日の出来事は、ひとつのことを教えてくれた。
記憶していた未来と現実が異なったとしても、どちらかが必ず嘘だとは限らない。
私の行動が変化を生んだのかもしれない。
記憶が不完全だったのかもしれない。
あるいは、そもそも私が思い出している出来事の解釈そのものが間違っているのかもしれない。
どれか一つに決めるには、証拠が足りなかった。
私はノートを閉じた。
明日になれば、王立記録院から返事が届くかもしれない。
旧目録を調べれば、今日とは別の手がかりが見つかる可能性もある。
それでも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
もし私が覚えている出来事が、実際に起きた過去そのものではないのだとしたら。
私はいったい、何を思い出しているのだろう。
答えは、まだ見つからない。
ただ、今日、誰も怪我をしなかったことだけは確かな事実だった。
私はその事実を、記憶よりも優先してノートに残した。




