創設者たちの忘れられた観測所
王立記録院から返事が届いたのは、申請書を提出してから三日後のことだった。
閲覧が許可されたのは、旧分類の目録と、対象文書に関係する移動記録の一部。原本の状態によっては閲覧できない資料もあるという条件付きだったが、最初の一歩としては十分だった。
しかし、私はその通知を読み終えると、別のことを考えていた。
あの古い建築記録に描かれていた紋章。
そして、そこに記されていた、王都から離れた丘陵地帯の観測施設。
王立記録院での調査は重要だ。けれど、あの紋章が複数の建物に共通している理由も、確かめる価値がある。
私はエミリアとノアに声をかけ、休日にその観測施設の跡地を調べに行くことを提案した。
「王都から馬車で半日ほどか。随分と遠い場所だな」
ノアは地図を見ながら言った。
「建設年代が古いだけでなく、現在の地図では施設名も確認できない。すでに取り壊されている可能性もある」
「それでも、行く価値はあると思うわ。建築記録に残っている紋章を、実際の建物で確認できるかもしれない」
「なるほど。紙の上で見つからない答えを、現地で探すわけか」
「ええ。あなたなら、もっと簡潔に説明できたでしょうけれど」
「君の説明を聞くのも、調査の一部だと思っている」
私は彼を見た。
「それは、ずいぶんと効率の悪い調査ね」
「お互い様だろう」
否定する材料がなかったので、私は地図を畳んだ。
エミリアは二人のやり取りを見て、控えめに笑っていた。
「私も行きます。あの紋章が何なのか、やっぱり気になりますから」
「足場が悪い可能性があるわ。歩きやすい靴を用意しておいて」
「わかりました!」
返事をしたエミリアは、なぜか自分の足元を確認した。
その日、彼女が履いていたのは、飾りの多い新しい靴だった。
「……エミリア。念のために言っておくけれど、現地で転んでも、古代の謎は解けないわよ」
「だ、大丈夫です! ちゃんと歩けますから!」
彼女は慌てて言い返した。
私は、少しだけ不安になった。
どうやら今回の調査では、遺跡だけでなく、彼女の足元にも注意を払う必要がありそうだった。
翌朝、私たちは王都を出発した。
馬車の窓から見える景色は、次第に街並みから田園へ、田園から低い丘陵へと変わっていく。秋の風が草原を渡り、遠くには森の濃い緑が広がっていた。
目的地に近づくにつれ、道は細くなり、石畳も途切れがちになった。
「この先は、馬車では進めそうにないな」
御者が手綱を緩めた。
私たちは荷物を持ち、残りの道を歩くことにした。
地図に記された地点へ向かうにつれて、私は妙な感覚を覚え始めた。
見覚えがある。
そう思ったのは、道の曲がり方だった。
右手に大きな岩があり、その先に二本の木が並んでいる。さらに進むと、地面がわずかに窪んだ場所があった。
私は足を止めた。
頭の奥に、薄暗い石造りの部屋が浮かぶ。
細長い窓。
床に刻まれた幾何学模様。
そして、その中央に描かれた円形の紋章。
以前、エミリアが見せてくれた図柄と、よく似ていた。
「ヴィオレッタ様?」
エミリアが心配そうに顔をのぞき込んだ。
「大丈夫。少し考え事をしていただけよ」
私はそう答え、再び歩き出した。
記憶を現実に当てはめてはいけない。
そう決めているのに、似た光景を目にするたび、どうしても過去を探そうとしてしまう。
それが私の弱さなのか、それとも調査に必要な直感なのか。
まだ判断できなかった。
やがて木々の向こうに、石造りの建物が姿を現した。
屋根の大部分は崩れ、壁には蔦が這っている。高い窓がいくつも並んでいたが、ガラスはほとんど残っていなかった。
建物の正面には、文字の削れた石板が埋め込まれていた。
「これが、観測所……」
エミリアが息をのんだ。
建物の規模は、想像していたよりも大きかった。中央の円形部分を囲むように複数の部屋が配置され、外壁には細い溝がいくつも走っている。
天体を観測するための施設だったとしても、不自然ではない。
しかし、建物の形だけでは、それ以外の用途がなかったとは言い切れなかった。
「まずは外周を確認しよう。崩落の危険がある場所には近づかないことだ」
ノアの提案に、私たちはうなずいた。
壁面には、かすかに装飾の跡が残っていた。
その一部を見た瞬間、私は息を止めた。
円の内側に三本の線。
その周囲を囲む細かな刻印。
間違いない。エミリアが持ってきた建築記録に描かれていた紋章だった。
「ここにもありますね……」
エミリアが小さくつぶやいた。
彼女は壁に近づいたが、すぐに足を止めた。紋章を見つめる表情が、以前と同じように変化する。
「何か思い出した?」
「……いいえ。でも、ここに来たことがあるような気がします」
彼女は戸惑ったように自分の胸元を押さえた。
「そんなはず、ないんですけど……」
「その感覚について、無理に答えを出す必要はないわ」
私はできるだけ穏やかに言った。
「見たことがある気がする、ということと、実際に来たことがあるということは別よ。今は、そう感じたという事実だけ記録しておきましょう」
「はい……」
エミリアは一度深呼吸し、ノートを取り出した。
その様子を見ながら、私は壁の紋章を観察した。
図柄の一部は、風化によって削れている。しかし、線の配置は建築記録の写しとほぼ一致していた。
これだけなら、古い建物に共通する意匠という説明もできる。
だが、気になる部分があった。
紋章の下を横切る一本の溝。
それは装飾の一部に見えるものの、周囲の石材に刻まれた線とは、わずかに角度が異なっていた。
「ノア、これを見て」
彼は私の指先を追い、壁を観察した。
「後から刻まれた線か?」
「その可能性があるわ。周囲の風化の具合が、少し違うもの」
ノアは懐から小さな測定具を取り出し、溝の深さと角度を慎重に確かめた。
「確かに、周囲の刻印とは違う。ただし、修復時に加えられた可能性もある。これだけでは、意図的な改変とは言えないな」
「ええ。いつ、誰が刻んだのかが問題ね」
私はノートに記録した。
紋章の下に、後から加えられた可能性のある線がある。
その線は、古い図面には描かれていない。
もっとも、図面に細部が省略されていた可能性も残っている。
結論を急ぐべきではなかった。
私たちは建物の内部へ移動した。
中央の部屋には、円形の台座が残っていた。天井の一部が崩れているものの、床の模様は比較的よく保存されている。
床面には、複数の円と直線が組み合わされた図形が刻まれていた。壁際には、何かを固定するための金具も残っている。
ただし、機材らしきものは見当たらなかった。
「観測装置が置かれていた場所でしょうか?」
エミリアが尋ねた。
「そうかもしれない。ただ、天体観測に使われたと断定するには、まだ材料が足りないわ」
私は床の図形を目で追った。
その形は、どこかで見たものに似ていた。
けれど、記憶の中の図形と完全には一致しない。
円の数が違う。
線の交差する位置も違う。
それでも、似ている。
私は目を閉じ、記憶をたどろうとした。
すると、一瞬だけ、別の光景が浮かんだ。
同じような床。
しかし、そこには今よりも多くの線が刻まれていた。
誰かがその上に立っている。
顔は見えない。
ただ、低い声だけが聞こえた。
――まだ、足りない。
私は思わず目を開いた。
「ヴィオレッタ?」
ノアがこちらを見ていた。
「顔色が悪い。休んだほうがいいんじゃないか」
「大丈夫よ。少し、考え込んでいただけ」
「それをさっきも聞いた気がするな」
「便利な言葉なのよ」
「便利すぎて、信用できない言葉でもある」
私は彼をにらんだ。
ノアは肩をすくめ、再び床の調査に戻った。
そのやり取りのおかげで、頭の中に残っていた声は少しだけ遠のいた。
私たちは床の図形を写し取り、壁面の刻印を記録した。しかし、これ以上の手がかりは見つからなかった。
観測所が何のために建てられたのか。
紋章が何を意味するのか。
なぜ図面にない溝が壁に刻まれているのか。
どれも未解決のままだった。
帰る前に、私はもう一度、入口の石板を確認した。
削れた文字の中に、かろうじて読める一節があった。
――創設者たちの観測所。
それ以外の文字は失われていた。
私はその一文をノートに書き写した。
創設者たちとは誰なのか。
王国の建国に関わった人物なのか、それ以前の時代に生きた人々なのか。
そして、彼らは何を観測していたのか。
答えは見つからない。
それでも、ここに残された紋章と、後から加えられた可能性のある線は、調べる価値のある手がかりだった。
帰路につく頃には、空が赤く染まり始めていた。
エミリアは何度も振り返り、観測所の建物を見つめていた。
「また来たいです」
彼女がぽつりと言った。
「どうして?」
「わかりません。でも、何かを忘れているような気がするんです。ここに来れば、それを思い出せるんじゃないかって……」
私はすぐには答えなかった。
その気持ちを否定することはできない。
私自身も、記憶の断片を追いかけているのだから。
けれど、忘れているものを思い出すことが、必ずしも正しい答えにつながるとは限らない。
「必要な調査があれば、また来ましょう。ただし、思い出すためだけに来るのは勧めないわ」
「どうしてですか?」
「思い出したいという気持ちが強すぎると、見つけたものを答えだと思い込んでしまうことがあるから」
エミリアは少し考えた後、うなずいた。
「……わかりました。まずは、今日わかったことを整理します」
「ええ。それが一番よ」
私は観測所を振り返った。
崩れた屋根。
並んだ窓。
壁に残る紋章。
その光景は、記憶の中の場所と似ていた。
だが、同じだとは言い切れない。
私たちが見つけたのは、古い施設と、そこに残された不自然な痕跡だけだった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
この場所には、過去の誰かが刻んだものが残っている。
そして、その一部は、建物が最初に造られたときのものではない可能性がある。
誰が、何のために手を加えたのか。
その答えを知るためには、まだ調べなければならないことが多すぎた。
私はノートを抱え直し、夕暮れの道を歩き始めた。
過去は、私の記憶の中だけにあるわけではない。
少なくとも、そう考える理由が一つ増えたのだった。




