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覚えのない筆跡

観測所から戻った翌日、私は朝食を終えるとすぐに自室へ向かった。


 昨日の調査で得られた情報を整理するためだ。


 古い紋章。建物の壁に残された、後から刻まれた可能性のある溝。そして、私の記憶に浮かんだ、見知らぬ声。


 どれも無視できない手がかりだったが、現時点では互いにつながっていると断定できない。


 私はノートを開き、確認できた事実と推測を分けて書き出した。


 その途中で、手が止まった。


 ページの隅に、見覚えのない文章が書かれていたからだ。


 ――記録を読む前に、書いた者が何を残そうとしたのかを考えなさい。


 私は眉を寄せた。


 文字の形には覚えがあった。細い線の払い方も、句読点の置き方も、私自身の筆跡によく似ている。


 しかし、この文章を書いた記憶がなかった。


 私はノートを閉じ、もう一度開いた。


 文章は消えなかった。


 当然だ。目の前にある文字が、目を離しただけで消えるはずもない。


「……落ち着きなさい、ヴィオレッタ」


 自分に言い聞かせる。


 誰かが勝手に部屋へ入り、私のノートに書き込んだ可能性はある。以前に自分で書いた文章を忘れているだけかもしれない。疲労や睡眠不足で、記憶が曖昧になっている可能性も否定できなかった。


 私は筆跡を確かめるため、別のページに同じ文章を書き写した。


 文字を一つずつ比較する。


 似ている。


 だが、完全に同じではなかった。


 見覚えのない文章のほうが、わずかに文字の間隔が狭い。線の入り方にも、小さな違いがある。


 私の筆跡をまねた誰かが書いたのか。


 それとも、私自身が別の状態で書いたものなのか。


 どちらとも判断できなかった。


 私は新しい紙を取り出し、見つけた文章をそのまま書き写した。その下に、発見した日時と場所を記録する。


 これで、少なくとも今後は変化を比較できる。


 そう考えたとき、ふと別の疑問が浮かんだ。


 この文章は、いつ書かれたのだろう。


 インクの色だけでは判断できない。ノート自体も何度か持ち歩いているため、正確な時期を特定するのは難しかった。


 私はページを光にかざし、紙の表面を観察した。


 書き込みの周囲には、目立った傷や汚れはない。別のページから文字が転写された形跡も見つからなかった。


 それ以上のことは、私にはわからなかった。


 古い文書の修復に関する知識が、頭のどこかに眠っているような感覚はある。


 しかし、その知識を今の私がどこまで正確に扱えるのか、自信が持てなかった。


 私はノートを閉じた。


 今の段階で必要なのは、答えを出すことではない。


 わからないことを、わからないまま記録しておくことだ。


 それができなければ、私は自分の記憶に都合のいい説明を与えてしまうだろう。


 そして、その説明をいつか事実だと思い込むかもしれない。


 それだけは避けたかった。


 私はノートを鞄にしまい、王立記録院からの通知を確認した。


 閲覧許可は下りている。次の登院日には、旧目録と関連する移動記録を確認できるはずだった。


 あの場所に行けば、何かがわかるかもしれない。


 けれど、今は別のことも気になっていた。


 なぜ私は、覚えていない文章を自分の筆跡で残しているのだろう。


 それは過去の私からの警告なのか。


 あるいは、今の私がまだ理解していない何かについて、考えるよう促すための言葉なのか。


 どちらも、根拠のない推測にすぎなかった。


     


 昼過ぎ、学園の図書室でノアと合流した。


 彼は机に広げた資料を整理していたが、私を見るとすぐに顔を上げた。


「何か見つかったのか?」


「どうしてそう思うの?」


「いつもより考え込んでいる。それに、君は調査が進んだときほど、余計なことを話さなくなる」


「人間観察が趣味なの?」


「矛盾を見つけるのが趣味なんだ」


「それなら、私を観察している時間は無駄ではなくて?」


「君自身が矛盾している可能性もあるからな」


 私は彼を見つめた。


「……あなた、時々とても失礼ね」


「事実を述べただけだ」


「その言い方を便利に使う人間は、あまり信用されないわよ」


「覚えておこう」


 いつものような会話だった。


 だからこそ、私は少し迷った。


 ノートのことを話すべきだろうか。


 彼は記録の矛盾を調べている。筆跡や記録の作成時期について、私よりも多くの知識を持っている可能性がある。


 一方で、私の記憶に関する問題をどこまで明かすべきなのかは、まだ判断できなかった。


 彼が信用できないからではない。


 私自身が、何を説明できるのかさえわからないからだ。


「ノア。少し意見を聞きたいのだけれど」


「何だ?」


「ある記録に、書いた覚えのない文章が残されていたとしたら、あなたならどう考える?」


 彼の表情がわずかに変わった。


「まずは、誰がその記録を管理していたのかを調べる。次に、文章が追加された時期を推定する。最後に、内容が周囲の記録と一致するか確認する」


「書いた人間の記憶がない場合は?」


「記録そのものから、書いた人間の記憶までは判断できない」


 迷いのない答えだった。


「本人が忘れている可能性もある。別人が書き加えた可能性もある。そもそも、本人が書いたという前提が間違っているのかもしれない」


 私は黙って彼の言葉を聞いた。


「重要なのは、説明を一つに絞らないことだ。最初に思いついた答えが正しいとは限らないからな」


 その言葉に、私はノートに書かれていた警告を思い出した。


 最初に思い出した記憶を、決して信じてはいけない。


 偶然の一致かもしれない。


 だが、今の私には、その言葉を単なる偶然として片づけることもできなかった。


「……ありがとう。参考になったわ」


「何か事情があるようだが、話したくないなら無理に聞くつもりはない」


 ノアは資料を整え直した。


「ただし、調査に関係することなら、証拠を残しておいたほうがいい。後から自分の記憶が変わっても、記録があれば比較できる」


「そうね」


 私は小さくうなずいた。


 彼の助言は、私がすでに始めていたことと同じだった。


 それでも、誰かの口から聞くことで、少しだけ考えが整理された。


     


 帰宅後、私は机の上にノートを置いた。


 見覚えのない文章の写し。その下には、発見した日時と、筆跡を比較した結果が記されている。


 私は新しいページを開き、今日の会話も書き加えた。


 書いた覚えのない文章がある。


 筆跡は自分のものに似ているが、完全には一致しない。


 書かれた時期は不明。


 第三者による書き込みも、自分が忘れている可能性も否定できない。


 そこまで書いて、私はペンを止めた。


 ふと、ノートの最後のページが目に入った。


 そこには、以前から残されていた短い一文がある。


 ――目録から失われたものを、失われたと決めつけてはいけない。


 私はその文字を見つめた。


 旧目録から失われたページ。


 存在しないはずなのに、別の記録には残っている文書。


 そして、自分で書いたはずなのに覚えていない文章。


 これらが同じ原因によって生じたと考えるには、まだ証拠が足りない。


 けれど、共通している点はあった。


 そこに何かが存在したという痕跡は残っている。


 それでも、現在の記録や私の記憶だけでは、その全体像を確認できないのだ。


 私はノートを閉じた。


 真実に近づいているのかどうかさえ、まだわからない。


 ただ、これから調べるべきことは、少しずつ明確になっていた。


 王立記録院で、旧目録の原本を確認すること。


 観測所の紋章について、学園の建築記録をさらに調べること。


 そして、覚えのない文章が残された時期を、可能な限り特定すること。


 私は机の明かりを消した。


 暗くなった部屋の中で、最後にもう一度だけノートを見た。


 そこに記された文字は、何も語らない。


 それでも私は、今まで以上に慎重に調査を続けようと決めた。


 記憶を疑うことと、記憶を捨てることは違う。


 疑いながら、確かめる。


 今の私にできるのは、それだけだった。

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