記憶を証拠に変えるために
王立記録院から閲覧許可の通知が届いた翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、屋敷の廊下にも人影は少ない。
机の上には、これまでの調査記録をまとめたノートが置かれていた。
文書の焼却記録と移動記録の矛盾。旧目録に残された不自然な欠落。創設者たちの観測所に刻まれていた紋章。そして、私自身の筆跡に似た、覚えのない文章。
それぞれを単独で見れば、偶然や記載ミスで説明できる可能性がある。
しかし、すべてを無関係なものとして片づけるには、気になる点が多すぎた。
私はノートを開き、最初のページから読み返した。
そこには、何度も書き直された推測と、慎重に区別された事実が並んでいる。
以前の私なら、記憶の中に答えを探していたかもしれない。
けれど、今は違う。
記憶は手がかりになる。
ただし、それだけでは証拠にならない。
そう考えるようになってから、少しだけ息がしやすくなった。
自分が何を忘れているのか、何を間違えて覚えているのか。それを今すぐ知る必要はない。
まずは、目の前にあるものを確かめればいいのだ。
王立学園の図書室で、私はエミリアとノアを待っていた。
最初にやって来たのはエミリアだった。両腕に資料を抱え、少し急ぎ足でこちらへ向かってくる。
「お待たせしました、ヴィオレッタ様!」
「走らなくても、私は逃げないわよ」
「わ、わかっています。でも、今日は早く来ようと思って……」
彼女は息を整えながら、机の上に資料を置いた。
「建築記録をもう一度調べてみたんです。観測所と旧礼拝堂以外にも、似たような紋章が使われていた可能性があると思って」
「何か見つかった?」
「残念ながら、同じ図柄は見つかりませんでした。でも、創設期に建てられた施設の中には、用途がはっきりしていないものがいくつかありました」
エミリアは該当する箇所を開いた。
そこには、王都周辺に建設された古い施設の一覧が記されていた。大半は倉庫や礼拝堂、研究室など、一般的な用途が書かれている。
しかし、一部の施設には、用途不明、記録欠落、現存せずといった短い注記しかなかった。
「これだけで、観測所と関係があるとは言えないわね」
「はい。でも、調べる対象を絞ることはできると思います」
私は彼女を見た。
以前よりも、調査の進め方が慎重になっている。
既視感を覚えたからといって、すぐに答えを求めるのではなく、まず資料を集めようとしているのだ。
「いい進め方ね。記録の出典も忘れずに書いておいて」
「はい!」
エミリアは嬉しそうにうなずいた。
その直後、抱えていた資料の一枚が床に滑り落ちた。
「あっ!」
彼女が慌てて拾おうとしたため、今度は別の紙が机の下へ落ちた。
私は静かにそれを拾い上げた。
「エミリア」
「は、はい……」
「資料を増やす前に、持ち運び方を研究したほうがよさそうね」
「うう……。調査対象が増えるたびに、持ち物まで増えてしまうんです」
「それなら、次からは鞄を使いましょう」
「……その方法がありましたね」
私は思わずため息をついた。
優秀なのか、少し抜けているのか。
おそらく、その両方なのだろう。
少し遅れて、ノアが姿を現した。
彼は挨拶を済ませると、すぐに机の上の資料へ目を向けた。
「新しい手がかりか?」
「まだ手がかりと呼べるほどではないわ。創設期の施設について、追加の資料が見つかっただけよ」
「それでも、対象を絞れるなら十分だ」
ノアは椅子に座り、持参した書類を取り出した。
「こちらも進展があった。以前調べた文書の移動記録について、旧分類と現行分類の対応表を確認できた」
「対応表?」
「分類体系が変更された際、旧番号と新番号を照合するために作られたものだ。すべての資料を網羅しているわけではないが、一部の記録については番号の変遷を追える」
彼は一枚の紙を机に置いた。
私は記載内容を確認した。
問題の文書に関係する番号の一つが、旧分類では別の資料に割り当てられていたことがわかった。後に分類が変更された際、その番号が別の文書に付け替えられている。
「これなら、記録の食い違いの一部を説明できるかもしれないわね」
「ああ。少なくとも、すべてが意図的な改変だと考える必要はなくなった」
私はうなずいた。
疑いが一つ解消されることは、調査が後退することではない。
むしろ、誤りと本当に説明できない事象を分けるために必要な作業だった。
「ただし、これで全部が解決したわけではない」
ノアが続けた。
「分類番号の変更は確認できたが、文書が焼却されたという記録と、その後に閲覧されたという記録の矛盾は残っている。対応表だけでは説明できない」
「つまり、旧目録の原本を確認する必要があるということね」
「そういうことだ」
私はノートに新しい情報を書き加えた。
これで、記録の矛盾の一部は分類変更によって生じた可能性が高まった。
しかし、残る矛盾については、まだ説明がつかない。
調査は少しだけ前進した。
資料を整理していると、エミリアが不意に口を開いた。
「ヴィオレッタ様は、記憶が曖昧なとき、どうしていますか?」
私はペンを止めた。
「どういう意味?」
「夢や、見覚えのあるものを見たときです。私は最近、あの紋章について考えることが増えました。でも、考えれば考えるほど、本当に何かを知っているのか、それとも知っていると思い込んでいるだけなのか、わからなくなるんです」
彼女は少し困ったように笑った。
「思い出そうとすればするほど、何が本当なのかわからなくなってしまって」
私は、彼女の言葉を急いで否定しなかった。
それは、私自身が抱えている疑問とよく似ていた。
「無理に思い出そうとしないことね」
「でも、忘れたままでいいんでしょうか?」
「忘れていること自体が問題なのかどうかも、まだわからないわ。大切なのは、今わかっていることと、わかっていないことを分けることよ」
私は自分のノートを彼女に見せた。
「例えば、私たちが観測所で紋章を見たことは事実。あなたがその紋章に既視感を覚えたことも事実。でも、その感覚が何を意味するのかは、まだわからない」
エミリアはノートを見つめた。
「感じたことまで、記録していいんですね」
「もちろん。ただし、感じたことと、それが意味すると思ったことは分けて書くのよ」
「……わかりました」
彼女は自分のノートを開き、何かを書き始めた。
その横顔を見ながら、私はふと思った。
彼女が私と同じような記憶を持っているのかどうかは、まだわからない。
そもそも、私の記憶が本当に過去の人生に由来するものなのかさえ、今の私は証明できない。
だから、彼女に私と同じ答えを求めてはいけないのだ。
彼女には彼女自身の経験がある。
それを、私の仮説に合わせて解釈するつもりはなかった。
その日の調査を終える頃、私はノートの最後に新しい項目を書き加えた。
第一に、王立記録院で旧目録の原本を確認すること。
第二に、問題の文書について、焼却記録と閲覧記録がどのように残されたのかを調べること。
第三に、観測所の紋章が使われた施設を、記録に基づいて特定すること。
第四に、自分のノートに残された、覚えのない文章について、発見した状態を保ったまま記録すること。
今の私たちにできることは、それだけだった。
調査の終わりに、ノアが私のノートをちらりと見た。
「ずいぶん整理されたな」
「情報が増えたからこそ、整理しないと混乱するのよ」
「最初からそうしていれば、もう少し早く進んだかもしれないな」
「あなたも最初から協力していれば、もっと早かったのではなくて?」
「それは否定しない」
あっさり認められ、私は言葉に詰まった。
エミリアが小さく笑う。
「お二人は、言い合いをしているのに、なんだか息が合っていますね」
「気のせいよ」
私とノアの声が、ほとんど同時に重なった。
エミリアは目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「やっぱり、息が合っています」
私は返事をしなかった。
反論する材料を探すよりも、調査を進めるほうが有意義だと判断したからだ。
少なくとも、そういうことにしておこう。
帰宅した私は、机の引き出しから最初のノートを取り出した。
ページの隅に残された、覚えのない文章。
――最初に思い出した記憶を、決して信じてはいけない。
――目録から失われたものを、失われたと決めつけてはいけない。
そして、今日、新しく整理した調査記録。
それぞれの言葉が、何か一つの答えを示しているように感じられることはある。
しかし、今はまだ、それを確かめる術がない。
私はノートを閉じ、机の上に置いた。
これまで、私は自分の記憶を取り戻すことばかり考えていた。
忘れた人生を思い出せば、何が起きたのかがわかると思っていた。
けれど、記憶が戻ったとしても、それが正確である保証はない。
記憶の中に答えがあるとは限らない。
ならば、記憶だけに頼る必要もないのだ。
文書を調べる。
記録を照合する。
人の話を聞く。
そして、わからないことを、わからないまま残す。
私はノートの表紙に手を置いた。
過去を思い出すことが、私の目的ではない。
私が知りたいのは、なぜこの王国の歴史に説明できない空白があるのか。そして、なぜ私自身の記憶にも、同じように埋められない空白が存在するのかということだ。
この二つが本当に関係しているのかどうかは、まだわからない。
それでも、調査を続ける理由は十分にあった。
私は窓の外を見た。
夕暮れの光が、王都の屋根を淡く染めている。
次に王立記録院を訪れれば、何かがわかるかもしれない。
あるいは、新しい疑問が増えるだけかもしれない。
どちらでも構わなかった。
今度こそ、私は記憶だけで結論を出さない。
手に入れた証拠を一つずつ積み重ね、自分の目で確かめる。
それが、今の私に選べる道だった。




