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見覚えのない紋章

翌日の昼休み、私は学園の旧礼拝堂にいた。


 王立記録院からの返事を待つ間、何もせずにいるつもりはない。昨日までに集めた資料を整理し、文書に記された分類番号と、学園に保管されている古い目録の番号を照合していた。


 しかし、成果は芳しくなかった。


 分類体系が変更された時期については記録が残っているものの、すべての資料が新しい体系へ移されたわけではない。移行時にどのような基準が用いられたのかも、細部まではわからなかった。


 つまり、今のところ、記録の食い違いを説明できる材料は増えていない。


「……謎を解くために必要なのが、別の謎の解読だなんて。ずいぶんと親切な世界ね」


 独り言をこぼし、私は資料を閉じた。


 そのとき、礼拝堂の扉が遠慮がちに開いた。


「ヴィオレッタ様?」


 顔をのぞかせたのは、エミリア・ローゼンだった。


 蜂蜜色の髪が肩の上で揺れ、緑の瞳がこちらを見つけて明るくなる。彼女は両手に古びた本を抱えていた。


「ここにいらしたんですね。図書室にもいらっしゃらなかったので、探してしまいました」


「何か用かしら?」


「いえ、その……少しお見せしたいものがあって」


 エミリアは本を抱え直した。


「授業で使う資料を探していたら、古い記録の間に挟まっていたんです。先生に尋ねても、何の資料なのかわからなくて……」


「それで私のところへ?」


「古い文書に詳しいと聞いたので」


 誰から聞いたのかは、あえて尋ねなかった。


 私は彼女の手元を見た。表紙には題名がなく、背表紙にも分類番号らしいものがない。紙の端は擦り切れていたが、破損はそれほどひどくなかった。


「見せてもらえる?」


「はい」


 エミリアが本を開いた。


 中身は、学園が所蔵する古い建築物の記録らしかった。かつて王都周辺に建てられた施設の図面や、修繕費用の記録、使用目的の変遷などが、年代順にまとめられている。


 ところどころ文字が薄くなっているものの、資料としては十分に読める。


 そして、数ページ進んだところで、私は手を止めた。


 紙面の中央に、小さな紋章が描かれていた。


 円の内側に、三本の線が交差している。その周囲には、文字とも装飾ともつかない細かな刻印が並んでいた。


 昨日まで調べていた文書には、同じ紋章はなかった。


 けれど、私はこの形に見覚えがあった。


 いや、正確には、見覚えがあるような気がした。


 頭の奥に浮かんだのは、薄暗い石造りの部屋だった。床に刻まれた幾何学模様。壁に並ぶ細長い窓。そして、誰かの手が、この紋章に触れようとしている光景。


 そこまで考えた瞬間、映像は霧のように消えた。


「ヴィオレッタ様?」


 エミリアの声で我に返る。


「……少し考え事をしていたわ。これは、どこにあったの?」


「この本の後ろのほうです。建物の図面に混ざっていました。最初は装飾の一種かと思ったんですが……」


 エミリアは紋章をのぞき込んだ。


 そして、不意に息を止めた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


 彼女は答えなかった。


 緑の瞳が、紙面に描かれた紋章をじっと見つめている。先ほどまでの穏やかな表情が消え、何かを思い出そうとするように眉を寄せていた。


「この模様……」


「知っているの?」


「わかりません。でも……」


 エミリアの指先が、紋章のすぐ手前で止まった。


「見たことがある気がするんです」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が冷たくなった。


 私と同じだ。


 彼女もまた、根拠のない既視感を覚えている。


 だが、それだけで彼女と私の記憶が同じものだと判断することはできない。似た意匠をどこかで見た可能性もある。夢の中の光景が、現実の図柄と結びついたのかもしれない。


 何より、私は自分の記憶さえ信用できていないのだ。


「どこで見たのか、思い出せる?」


「……いいえ。頭の中に何かが浮かびそうなのに、あと少しのところで消えてしまうんです」


 エミリアは困ったように笑った。


「変ですよね。こんな古い模様、知っているはずがないのに」


「変だと決めつけるには、まだ早いわ」


 私は本を少し引き寄せ、紋章の周囲を調べた。


 図柄の下には、小さな文字が添えられていた。大半は薄れていたが、かろうじて読める部分がある。


 ――創設期の施設に見られる標式。


 それだけだった。


 どの施設を指しているのか、なぜこの図がここにあるのかは書かれていない。


「この本の出所も確認する必要があるわね。誰が作成したのか、いつ学園に収蔵されたのか」


「また記録を調べるんですか?」


「ええ。どうやら、私たちの学園は調査対象に事欠かない場所らしいから」


 エミリアは少しだけ笑った。


「それなら、私もお手伝いします。見つけたのは私ですし」


「無理はしなくていいのよ」


「無理ではありません。私も……気になるんです」


 彼女の声は、いつもより静かだった。


 私はその表情を見つめた。


 好奇心だけではない。彼女自身にも説明できない何かが、この紋章に結びついているように見えた。


 だが、それが何なのかはわからない。


     *


 放課後、私たちは図書室で古い建築記録を調べた。


 紋章が描かれたページを慎重に写し取り、同じ図柄がほかの資料にないかを確認する。エミリアは建物の名称を拾い上げ、私は収蔵年代と分類番号を整理した。


 結果は、予想以上に奇妙なものだった。


 同じ紋章が、二つの資料に見つかったのである。


 一つは、学園の旧礼拝堂について記した建築記録。


 もう一つは、王都から離れた丘陵地帯に存在した、古い観測施設の図面だった。


 その施設の名称は、かすれていて読めなかった。


「観測施設……ですか?」


 エミリアが写しを見つめる。


「ええ。ただし、天体観測のための建物だったのか、それ以外の目的があったのかは不明ね」


「同じ紋章があるなら、関係があるんでしょうか」


「可能性はある。でも、同じ時代の建物に共通の職人が関わっていたのかもしれないし、後世に図柄が模写された可能性もある」


「何でも可能性があるんですね……」


「調査とは、そういうものよ。答えが見つかるまでは、可能性を一つずつ減らしていくしかないわ」


 口にしてから、私は少しだけ苦笑した。


 自分自身の記憶についても、同じことが言えるのかもしれない。


 思い出したからといって、それが真実とは限らない。


 忘れているからといって、それが存在しなかったとも限らない。


 私たちはさらに資料を調べたが、紋章の意味を示す記述は見つからなかった。観測施設についても、建設年代と大まかな所在地が記されているだけだった。


 それでも、収穫がなかったわけではない。


 少なくとも、この紋章は一冊の本に偶然描かれた落書きではなさそうだった。


 私はノートに、確認できた事実だけを書き留めた。


 紋章は複数の古い資料に存在する。


 その資料は、異なる建物について記している。


 エミリアは紋章を見て既視感を覚えた。


 私自身も、説明できない光景を思い出しかけた。


 そして、そのどれもが、まだ結論にはならない。


     *


 帰り際、エミリアは図書室の扉の前で足を止めた。


「ヴィオレッタ様。ひとつ、聞いてもいいですか?」


「何かしら」


「私、時々、夢を見るんです。窓がたくさんある古い建物で、誰かを待っている夢……以前、お話ししましたよね」


「ええ、覚えているわ」


「今日の紋章を見たとき、その夢と少し似た感じがしたんです。でも、夢の中にこの模様があったのかどうかは、思い出せなくて」


 彼女は自分の手を見つめた。


「もし、また同じ夢を見たら、何か記録しておこうと思います。目が覚めたら忘れてしまうことも多いので」


「それがいいわ。場所や模様だけでなく、目が覚めたときに何を感じたのかも書いておくといい」


「感じたことも?」


「記憶が曖昧でも、感情だけは残ることがあるから」


 口にした途端、胸の奥に小さな痛みが走った。


 それは、誰かに教えられた言葉だっただろうか。


 それとも、私自身が何度も経験してきたことなのだろうか。


 確かめようとしても、答えは浮かばなかった。


 エミリアは真剣な顔でうなずいた。


「わかりました。次に夢を見たら、必ず書き留めます」


「ええ。ただし、夢の内容を無理に現実へ当てはめないこと。似ているものを見つけても、同じものだとは限らないわ」


「……ヴィオレッタ様は、慎重なんですね」


「慎重なのではなく、失敗したくないだけよ」


「それを慎重と言うんだと思います」


 思いがけず真面目な反論をされ、私は返す言葉に困った。


 エミリアが小さく笑う。


 その笑顔を見ていると、胸の奥にあった緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。


 彼女が何を知っているのか。


 何を忘れているのか。


 あるいは、何も知らず、ただ偶然に似た感覚を抱いただけなのか。


 今は、まだわからない。


 だからこそ、彼女の言葉を勝手に意味づけるべきではない。


 私はノートを閉じ、紋章の写しを挟み込んだ。


 王立記録院からの返事は、まだ届いていない。


 だが、調べるべき場所が一つ増えた。


 そして、私の記憶だけを頼りにしていた調査に、初めて別の人間の不可解な感覚が加わった。


 それが真実へ近づく一歩なのか、それとも新たな思い込みの始まりなのか。


 判断するのは、証拠を集めてからでいい。


 そう自分に言い聞かせながら、私は夕暮れの学園を後にした。

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