あなたを信じられない
ノアの言葉が、頭から離れなかった。
――それでも、私の命は私のものです。
何度も聞いたことのある言葉ではない。 少なくとも、今の私にとっては。
私は彼の命を守ろうとしている。 そのために、情報を集め、危険を排除し、彼の行動を制限している。
それなのに、彼は私のやり方を拒んだ。
「……どうして、理解してくれないの」
誰もいない馬車の中で、私は呟いた。
窓の外を流れる王都の景色が、ぼんやりと滲んで見える。
私は目を閉じた。
ノアが倒れる光景。 エミリアの伸ばした手。 青白い光に包まれた地下室。
忘れたくても、忘れられない。
いや、忘れることなど許されないのだ。
彼らが生きている今、この記憶を抱えているのは私だけなのだから。
屋敷に戻ると、執事が待っていた。
「ヴィオレッタ様。ご報告がございます」
「何かしら?」
「エミリア・ローゼン様が、本日、王立記録院へ向かわれました」
私は足を止めた。
「……閲覧制限は?」
「通常の資料は閲覧できるようです。ただし、地下遺構関連の資料については、すでに制限が適用されております」
「そう」
「それから、ノア・ヴァルケイン様も、エミリア様と合流されたとのことです」
胸の奥が、冷たくなった。
二人が一緒にいる。
私の知らない場所で。 私の命令に反して。
「馬車を用意して」
「どちらへ?」
「記録院よ」
私はすぐに出発した。
王立記録院の入口に到着した時、二人はすでに建物の中にいた。
閲覧室の奥。
エミリアは古い書物を広げ、ノアはその隣で記録の年代を照合している。
その光景を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。
以前の彼らと同じだった。
好奇心を持ち、互いに協力し、危険を知らずに前へ進んでいく。
その姿が、私にはひどく恐ろしかった。
「……何をしているの?」
私の声に、二人が振り返った。
エミリアは驚き、ノアは静かに本を閉じる。
「ヴィオレッタ様。こちらへいらしていたのですね」
「質問に答えてちょうだい」
私は二人の机に近づいた。
「何を調べているの?」
ノアが答える。
「旧王宮地下保全室に関する資料です。ヴァイス元技術顧問の記録と、古代遺構の接続構造について」
「その調査は中止して」
「理由を聞いても?」
「危険だからよ」
「その危険について、あなたは説明してくれません」
私はノアを睨んだ。
「説明すれば、あなたは納得するの?」
「少なくとも、判断する材料にはなります」
「判断する必要はないわ」
エミリアが、ゆっくりと立ち上がった。
「ヴィオレッタ様……私たちを、信じていただけませんか?」
その言葉に、私は一瞬だけ怯んだ。
信じる。
その言葉は、私にとって残酷だった。
彼らを信じた結果、私は何度も彼らの死を見た。
彼らを信じて協力を求めた結果、選別は進んだ。
彼らを信じて手を伸ばした結果、私は何も救えなかった。
「……信じることが、何を意味するのか」
私は低く呟いた。
「あなたたちは、知らない」
エミリアは私を見つめている。
「それでも、私は知りたいです。ヴィオレッタ様が、どうしてそんなに苦しそうなのか」
私は彼女の手を見た。
以前、彼女は私に手を伸ばしていた。
その手を、私は取れなかった。
今なら、取れるかもしれない。
そう思った瞬間、脳裏に別の光景が浮かんだ。
彼女の手が、青白い魔力に呑まれていく。
ノアの声が、途切れる。
私の指先が、震えた。
「……触らないで」
エミリアが、悲しそうに目を伏せる。
「ヴィオレッタ様……」
「あなたたちは、私の言うことを聞いていればいいの!」
閲覧室に、私の声が響いた。
周囲の人々が振り返る。
ノアが、静かに私の前に立った。
「ヴィオレッタ様。落ち着いてください」
「あなたまで、私を止めるの?」
「あなたが、あなた自身を追い詰めているように見えるからです」
私は彼の胸元を掴みかけた。
だが、手は途中で止まった。
彼の顔を見ていると、別の記憶が重なる。
彼が私を庇い、倒れる姿。
彼が私に向かって、最後に何かを言おうとする姿。
その声は、思い出せない。
「……あなたは」
私は唇を噛んだ。
「あなたは、どうしていつも私の邪魔をするの?」
ノアは答えなかった。
その沈黙が、私には拒絶に感じられた。
私は二人に背を向けた。
「調査を続けるなら、今後、ヴァレンシュタイン家の支援は一切受けられないわ」
エミリアが小さく息を呑む。
「ヴィオレッタ様、それは……」
「好きにすればいい」
私は閲覧室を出た。
廊下を歩く。
足音が、石床に響く。
胸の奥が痛い。
それでも、私は振り返らなかった。
屋敷に戻った私は、手帳を開いた。
新たな文字が浮かび上がっている。
『候補一、感情反応の増大を確認』
『候補二、候補三との接触継続』
『選別進行率、上昇』
私は手帳を握り締めた。
「……まだ、間に合う」
そう呟いた時、別の文字が現れた。
『警告』
『候補一の行動は、記録の安定性を損なっています』
『修正介入の準備を開始』
私は顔を上げた。
窓の外。
王都の北西区画で、青白い光が一瞬だけ瞬いた。
その光は、まるで私を呼んでいるようだった。
私は立ち上がる。
「……今度こそ、私が先に見つける」
そして、机の上に置かれた地図を手に取った。
もう、誰にも止めさせない。
たとえその先に待っているものが、私自身の破滅だとしても。




