↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/95

壊れていく心の音

小鳥のさえずりが聞こえた。


ヴィオレッタは目を開けなかった。


白い天蓋も、朝日に照らされたカーテンも、窓辺の花瓶も、もう見る必要はなかった。


どうせ、同じなのだから。


「……一、二、三……」


小さく数える。


四。


五。


六。


七。


七秒後、扉が三度叩かれた。


「お嬢様、お目覚めでしょうか?」


予想どおりだった。


ヴィオレッタは寝台の中で、ゆっくりと目を開けた。


「……ええ」


自分でも驚くほど平坦な声だった。


侍女が入室する。


「おはようございます、お嬢様。本日は午前中に家庭教師の先生がお見えになります。それから午後には――」


「王宮から茶会の招待状が届く予定でしょう?」


侍女が目を丸くした。


「はい。よくご存じで……」


「知っているわ」


それ以上、何も聞きたくなかった。


侍女が部屋を出ると、ヴィオレッタは寝台から降りた。


裸足で床に立つ。


冷たい。


生きている身体の感覚だった。


彼女は自分の両腕を見下ろした。


傷はない。


青白い鎖に拘束された痕も、魔術によって焼かれた痕も、どこにも残っていない。


それでも、手首を動かすと痛むような気がした。


「……また、ここ」


鏡の前に立つ。


灰銀色の長い髪。青紫色の瞳。血色のよい頬。


そこにいるのは、十六歳の公爵令嬢だった。


何度も死んだ人間には見えなかった。


「……何回目?」


最初の人生。


その前にあったはずの人生。


地下遺構でノアとエミリアを失った人生。


二人を守ろうとして、自分だけが死んだ人生。


そして、誰も頼らず、再び機構に捕らえられた人生。


数えようとすると、記憶の境界が曖昧になった。


自分が本当に経験した死と、どこかから流れ込んできた死の記憶。


どちらがどちらなのか、もう分からない。


「……ふふ」


笑い声が漏れた。


ひどく乾いた声だった。


「何度死んでも、朝食の時間だけは変わらないのね」


その瞬間、笑っている自分が恐ろしくなった。


ヴィオレッタは口元を押さえた。


笑うようなことではない。


何一つ、おかしくない。


それなのに、涙も出なかった。


机の上には、いつもの手帳があった。


彼女は開かなかった。


どうせ、同じ文字が現れる。


候補一。


記憶保持者。


起点への帰還。


未登録の変数。


そして、次の選別。


「……もう、好きにすればいいわ」


呟いた直後、背筋が冷たくなった。


本当に、そう思っているのだろうか。


死んでもいいと。


またやり直せばいいと。


そんなことを考えるようになった自分を、彼女は認めたくなかった。


その日の午後、ヴィオレッタは王都へ出た。


目的地はノアの屋敷でも、エミリアの家でもなかった。


王立記録院だった。


彼女は一人で閲覧室に入り、古い王宮の管理記録を申請した。


「ヴァレンシュタイン公爵令嬢、こちらの資料は閲覧に特別な許可が必要です」


職員が申し訳なさそうに告げる。


以前なら、ヴィオレッタは正式な手続きを確認しただろう。


必要な申請書を提出し、許可が下りるまで待ったはずだ。


だが、今回は違った。


「この資料の移管記録に不備があることは、ご存じ?」


「え?」


「旧王都建設調査室から王宮特別保全室へ移された記録の一部が、現在の目録から消えているわ」


職員の顔色が変わった。


「な、なぜそのようなことを……」


「閲覧を拒否するなら、管理上の不備について正式な調査を求めることになるわね」


「それは……」


「もちろん、あなた個人を責めるつもりはないわ。ただ、問題を放置した責任がどこにあるのかは確認しなければならないでしょう」


ヴィオレッタは静かに微笑んだ。


「資料を見せていただける?」


職員はしばらく迷った末、上司への確認を約束した。


彼女はその背中を見送った。


胸の奥に、わずかな嫌悪感が生まれる。


自分の立場を利用して、相手に圧力をかけた。


以前なら、こんな方法は選ばなかった。


けれど。


「……時間がないのよ」


誰に聞かせるでもなく呟いた。


何度も同じことを調べる余裕など、もうなかった。


やがて、閲覧許可が下りた。


古い記録の中には、北西部の地下構造についての報告が残されていた。


『旧倉庫地下、独立した記録接続区画を確認』


『候補者の接触状況に応じ、区画の機能が変化する可能性あり』


その下に、小さな文字が記されていた。


『単独選別は、候補者の保護を保証するものではない』


ヴィオレッタは目を細めた。


「……知っていたのね」


二人から離れても、自分だけが選別される。


それは、機構にとって想定された反応だった。


自分が何を選んでも、機構は別の方法で接続を進める。


では、どうすればいいのか。


「ヴィオレッタ嬢?」


背後から声が聞こえた。


ノアだった。


彼は少し驚いた様子で、彼女の前に立っている。


「こんなところで会うとは。今日は一人ですか?」


ヴィオレッタは顔を上げた。


暗い灰褐色の髪。


銀灰色の瞳。


生きている。


その事実を確かめた瞬間、胸の奥に痛みが走った。


ノアが光の向こうから手を伸ばしていた。


自分の名前を叫んでいた。


彼の身体が床へ叩きつけられた。


「……ヴィオレッタ嬢?」


「近づかないで」


言葉が、勝手に口から出た。


ノアの足が止まる。


「……何かありましたか?」


「何もないわ」


「それなら――」


「あなたには関係ないと言っているの」


声が鋭くなった。


閲覧室にいた数人が振り返る。


ノアは少しだけ眉を寄せた。


「私が何か気に障ることをしましたか?」


「いいえ。あなたは何もしていない」


ヴィオレッタは書類を閉じた。


「だから、私に関わらないで」


ノアは黙った。


その沈黙が、ひどく苦しかった。


彼は何も知らない。


自分のために死にかけたことも。


彼女が何度もその姿を見てきたことも。


それなのに、自分は彼を傷つけている。


「……分かりました」


ノアは静かに答えた。


「ただ、何か困っているのなら、一人で抱え込む必要はありませんよ」


その言葉に、ヴィオレッタの胸が強く締めつけられた。


以前も、同じようなことを言われた。


そして、彼は死んだ。


「あなたに何が分かるの……」


小さな声だった。


ノアには聞こえなかったかもしれない。


ヴィオレッタは書類を抱え、彼の横を通り過ぎた。


振り返らなかった。


夕方。


王都の通りを歩いていると、遠くからエミリアの声が聞こえた。


「ヴィオレッタ様!」


足が止まった。


蜂蜜色の髪を揺らしながら、エミリアが駆け寄ってくる。


「お久しぶりです! 今日はお買い物ですか?」


無邪気な笑顔だった。


ヴィオレッタは、その顔を見つめた。


生きている。


何も知らずに笑っている。


そのことが嬉しくて、苦しかった。


「……エミリア」


「はい?」


「あなたは、私のことをどう思っているの?」


突然の質問に、エミリアは目を瞬かせた。


「えっと……とても立派な方だと思っています。少し厳しいところもありますけど、本当は優しくて……」


「優しい?」


ヴィオレッタは思わず笑った。


「私が?」


「はい!」


エミリアは迷わず頷いた。


その瞬間、ヴィオレッタの頭に別の光景が浮かんだ。


自分を助けようとして倒れた少女。


床に落ちた手。


二度と開かなかった瞳。


「……そう」


ヴィオレッタは視線を落とした。


「あなたは、私のことを何も知らないのね」


エミリアの笑顔が曇った。


「ヴィオレッタ様……?」


「もう、私に近づかない方がいいわ」


「どうしてですか?」


「あなたが思っているような人間ではないからよ」


エミリアは何か言いかけた。


けれど、ヴィオレッタは背を向けた。


そのまま歩き出す。


背後から呼び止める声が聞こえたが、足を止めなかった。


屋敷へ戻った頃には、空が暗くなっていた。


ヴィオレッタは自室の扉を閉め、鍵をかけた。


それから、ようやく壁に背中を預けた。


「……っ」


呼吸が乱れる。


ノアの顔。


エミリアの声。


二人を傷つけたときの表情が、頭から離れなかった。


守るためだった。


そう言い聞かせる。


けれど、今日の自分は本当に二人を守ろうとしていたのだろうか。


それとも、二人の顔を見るのが怖かっただけなのだろうか。


「……分からない」


ヴィオレッタは床に座り込んだ。


膝を抱え、額を押しつける。


「もう……何が正しいのか、分からない……」


涙が一滴、床に落ちた。


そのとき、机の上で手帳が開く音がした。


ヴィオレッタは顔を上げた。


青白い文字が浮かび上がっている。


『候補一、精神的負荷の増大を確認』


『対人関係の断絶傾向を確認』


『記録保持状態、不安定』


彼女はゆっくりと立ち上がった。


手帳を手に取る。


「……私を観察して、楽しい?」


返事はない。


「何度死んだかも、何を失ったかも、全部記録しているんでしょう?」


文字が一つ増えた。


『観測を継続します』


その瞬間、ヴィオレッタは手帳を床へ叩きつけた。


乾いた音が部屋に響く。


「いい加減にしなさい!」


声が震えていた。


「私は記録じゃない! あなたたちの実験道具でもない!」


荒い呼吸が続く。


手帳は床に落ちたまま、静かに開いていた。


ヴィオレッタはしばらくそれを見下ろしていたが、やがて力なく膝をついた。


「……お願いだから」


今度は、かすれた声だった。


「もう、誰も殺さないで……」


返事はなかった。


ただ、手帳の最後のページに、新しい文字が現れた。


『候補一、感情反応の変質を確認』


『次回選別に向けた記録を保存』


その下に、もう一つ。


『保護対象への執着、増大』


ヴィオレッタはその文字を見つめた。


執着。


そうなのかもしれない。


彼女はもう、二人が生きているだけでは安心できなかった。


自分の目の届く場所にいなければ、何が起きるか分からない。


けれど、近づけば危険に巻き込む。


遠ざければ、自分を助けようとして追いかけてくる。


ならば。


「……二人が、私の言うことを聞いてくれればいいのに」


その言葉が口から出た瞬間、ヴィオレッタは息を止めた。


それは、守るという言葉とは違っていた。


相手の意思を尊重することでもなかった。


ただ、自分の恐怖を消すために、二人を思いどおりに動かしたいという願いだった。


「……最低ね、私」


ヴィオレッタは小さく笑った。


しかし、その笑顔にはもう、以前のような温かさはなかった。


窓の外では、王都の灯りが静かに揺れていた。


その夜、彼女は一つの決意をした。


次に機構へ近づくときは、誰にも頼らない。


誰にも知らせない。


そして、必要ならば、公爵令嬢としての権力も、人脈も、秘密も、すべて利用する。


たとえ誰かに恨まれても。


たとえ、ノアやエミリアに嫌われても。


二人を生かすためなら、どんな手段でも選ぶ。


ヴィオレッタは床に落ちた手帳を拾い上げた。


その最後のページに、短い一文を書き加える。


『次は、私がすべてを決める』


書き終えた瞬間、彼女の知らないところで、永遠記憶機構の一部が静かに反応した。


『候補一、行動傾向の変化を確認』


『強制的介入の可能性、上昇』


『観測を継続』


そして、さらに深い場所で、誰かが呟いた。


「……ついに、ここまで来たか」


その声の主は、まだ姿を現さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。