誰にも届かない叫び
暗闇の中で、ヴィオレッタは自分の名前を呼ぶ声を聞いていた。
「ヴィオレッタ!」
ノアの声だった。
彼がこちらへ手を伸ばしている。
けれど、その姿は青白い光の向こう側にあり、どれほど手を伸ばしても届かなかった。
「来ないで……!」
声を張り上げる。
「お願いだから、ここへ来ないで!」
返事はなかった。
代わりに、彼女の足元に幾何学模様の魔法陣が広がっていく。
『候補一、単独選別を開始』
『記憶保持者の接続を確認』
『過去記録との照合を開始します』
「やめなさい……!」
ヴィオレッタは床に手をつき、立ち上がろうとした。
しかし、手足に力が入らない。
青白い光が腕に絡みつき、身体を床へ押さえつける。抵抗するたびに、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
目の前に、いくつもの光景が浮かび上がる。
王立記録院。
古い温室。
地下遺構。
そして、崩れた石床の上で倒れているノアとエミリア。
「違う……」
彼女は首を振った。
「それはもう終わったことよ……!」
だが、映像は消えない。
むしろ、次々と別の光景が重なっていく。
知らない王都。
見たことのない人物。
自分と同じ銀灰色の髪を持つ誰か。
その人物は、崩壊する建物の中で一人、膝をついていた。
『どうして、また私だけが……』
聞き覚えのある声だった。
ヴィオレッタは目を見開いた。
それは自分の声に似ていた。
けれど、彼女が口にした覚えのない言葉だった。
「あなたは……誰なの?」
答えはない。
『記憶の混入を確認』
『第七の記録との照合を継続』
その無機質な声とともに、光が強まった。
頭の中で何かが引き裂かれるような感覚がした。
ヴィオレッタは悲鳴を上げた。
自分が経験したこと。
経験したはずのないこと。
誰かが残した悲しみ。
それらが区別できなくなっていく。
「もう、やめて……!」
彼女は必死に手を伸ばした。
何かにつかまろうとした。
しかし、そこには冷たい石床しかなかった。
そのとき、壁の向こうから声が聞こえた。
『抵抗をやめろ』
灰色のローブの人物だった。
「あなた……!」
『記憶を差し出せば、苦痛は終わる』
「嘘よ……。あなたたちは、私を助けるつもりなんてない」
『我々は機構を停止させようとしている』
「なら、どうして私をこんな目に遭わせるの!」
『お前の記憶が必要だからだ』
「私の記憶を取り出したら、何が起きるの?」
沈黙。
そのわずかな間が、答えのように感じられた。
「知らないのね……」
ヴィオレッタは苦痛に顔を歪めながら、笑った。
「あなたたちも、何も分かっていないんでしょう?」
『黙れ』
「機構の正体も、私が何度も戻される理由も。何も知らないのに、私から記憶を奪おうとしている」
『黙れと言った』
灰色のローブの人物が手をかざす。
魔法陣がさらに輝いた。
ヴィオレッタの意識が揺らぐ。
それでも、彼女は目を閉じなかった。
そのとき、遠くから別の声が聞こえた。
「ヴィオレッタ!」
ノアだった。
「そこにいるんですか!」
「来ないで!」
彼女は声を振り絞った。
「ノア、逃げて! ここへ来ては駄目!」
「何を言っているんです!」
彼の声が近づいてくる。
続いて、もう一つの声が響いた。
「ヴィオレッタ様!」
エミリアだった。
「お願いです、返事をしてください!」
「エミリアまで……どうして……!」
ヴィオレッタの頬を涙が伝った。
どうして二人は来てしまったのか。
自分が遠ざけようとしたのに。
傷つけたくなかったのに。
「二人とも、お願い……!」
壁の向こうで何かが砕ける音がした。
ノアが入口を破ろうとしている。
しかし、魔術師たちがそれを阻んだ。
「侵入を許すな!」
「候補三を近づけるな!」
青白い術式が通路を覆う。
その光の中で、ヴィオレッタはノアの姿を一瞬だけ見た。
彼は負傷していた。
それでも立ち止まらず、こちらへ向かおうとしている。
「ノア……!」
彼の唇が動いた。
何かを叫んでいる。
けれど、声は届かない。
次の瞬間、魔術師の術式が彼の足元で弾けた。
ノアの身体が床へ叩きつけられる。
「いや……!」
ヴィオレッタは拘束された身体を無理やり動かそうとした。
鎖が皮膚に食い込み、腕に痛みが走る。
それでも、彼女は手を伸ばした。
「ノア! 立って! お願い!」
彼は片膝をつき、再び立ち上がろうとした。
その隣で、エミリアが魔法を放つ。
彼女の手の甲に、枝分かれした紋様が浮かび上がっていた。
「もう、やめてください!」
エミリアの魔力が魔術師たちの術式にぶつかる。
一瞬、青白い壁に亀裂が入った。
だが、次の瞬間には別の魔法陣が展開され、二人の間に新たな障壁が生まれた。
「候補二の接続を確認!」
「候補三の記録が不安定だ!」
魔術師たちの声が飛び交う。
その混乱の中で、ヴィオレッタは理解した。
二人はまた、自分を助けようとしている。
そして、自分はまた二人を危険に巻き込んでいる。
「違う……」
彼女の目から涙が溢れた。
「私が、一人で来たのに……。二人を遠ざけたのに……」
誰も答えない。
「どうして、いつもこうなるの……!」
その叫びに反応するように、床の紋様が一斉に輝いた。
『候補一、記憶の深層へ到達』
『第七の記録との不一致を確認』
『記録修正を実行します』
ヴィオレッタの視界が白く染まった。
身体の感覚が遠ざかる。
痛みさえも、次第に分からなくなっていく。
けれど、最後まで聞こえていたのは二人の声だった。
「ヴィオレッタ!」
「ヴィオレッタ様!」
彼女は答えようとした。
大丈夫だと。
もう来なくていいと。
あなたたちは生きていてほしいと。
しかし、唇は動かなかった。
やがて、光が消えた。
ヴィオレッタの身体は、冷たい石床に横たわっていた。
魔術師たちは彼女を囲み、術式の状態を確認している。
「候補一の生命反応が低下している」
「記憶の抽出は?」
「成功していない。第七の記録に到達する前に、記録が崩壊している」
「そんなはずはない。もう一度接続しろ!」
「無理だ。機構が巻き戻しを始めている!」
その声を、ヴィオレッタはもう聞いていなかった。
彼女の意識は、ゆっくりと遠ざかっていた。
最後に思い出したのは、二人の笑顔だった。
ノアが少し呆れたように笑う顔。
エミリアが嬉しそうに微笑む顔。
あの二人と一緒に過ごした、何でもない時間。
「……ごめんなさい」
声にならない言葉が、胸の奥に残った。
今度こそ守りたかった。
それだけだった。
『候補一、生命反応消失』
『死亡を確認』
『起点への巻き戻しを開始します』
機構の声が響く。
その直後、誰もいないはずの空間に、別の文字が浮かび上がった。
『候補一の記憶に、前回記録との重複を確認』
『精神的負荷、許容値を超過』
『次回記録における行動予測――不安定』
そして、最後に。
『記録保持者の人格変化を確認』
青白い光が、すべてを包み込んだ。
世界が再び巻き戻っていく。
ヴィオレッタは、また同じ朝へ帰る。
けれど、彼女の心には、もう一つの死の記憶が刻まれていた。




