存在しない地下通路
翌朝、ヴィオレッタはいつもより早く目を覚ました。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、青白い光が視界を横切る。耳の奥には、魔術が弾ける音が残っていた。
それでも、彼女は寝台から起き上がった。
今日は調べなければならない場所がある。
昨夜、手帳に浮かび上がった光景。王都の一角で瞬いた青白い光だ。
前の人生では、一度も調査したことのない場所。
つまり、今回の人生で初めて見つけた手がかりかもしれない。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
侍女が部屋に入ってくる。
「ありがとう。そこに置いてちょうだい」
カップを受け取ろうとしたとき、ヴィオレッタの指先がわずかに震えた。
陶器が小さく音を立てる。
「お嬢様? お疲れではありませんか?」
「大丈夫よ」
即座に答えた。
けれど、本当は大丈夫ではなかった。
昨夜も何度か目を覚ました。誰かが部屋に入ってきたような気がして、扉を確かめたこともある。
何もいなかった。
それでも、確認せずにはいられなかった。
「今日は外出するわ。帰りは遅くなるかもしれないから、夕食は先に済ませておいて」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ると、ヴィオレッタはカップを置いた。
温かい紅茶の表面に、自分の顔がぼんやりと映っている。
その顔を見ていると、地下遺構で最後に見た自分の姿が重なった。
「……違うわ」
彼女は目を逸らした。
今は考えない。
調査に集中しなければ。
王都の北西部。
昨夜、青白い光が瞬いた場所は、古い商業地区の外れにあった。
現在はほとんど使われていない倉庫や、取り壊しを待つ建物が並んでいる。人通りは少なく、昼間でもどこか薄暗い。
ヴィオレッタは周囲を見回した。
「この辺りだったはず……」
「何を探しているんです?」
背後から声がした。
振り返ると、ノアが立っていた。
「どうしてあなたがここに?」
「それはこちらの台詞です。昨日の様子から、何か調べているとは思っていましたが」
「偶然?」
「半分は」
「残りの半分は?」
「あなたが一人で行動すると、面倒なことに巻き込まれそうだったので」
ヴィオレッタは眉を寄せた。
「私は子供ではないわ」
「知っています。ただ、あなたは自分が危険な場所にいることを忘れる傾向がある」
反論しようとして、彼女は口を閉じた。
以前も、彼に似たようなことを言われた気がする。
その記憶が、今はひどく遠く感じられた。
「……分かったわ。一緒に来て」
「素直ですね。何か悪いものでも食べましたか?」
「帰ってもらおうかしら」
「それは困りますね」
いつものやり取り。
その平穏さが、ヴィオレッタには少しだけ苦しかった。
二人は倉庫の裏手へ回った。
昨夜の光が見えたという場所には、古びた石壁がある。表面には蔦が絡まり、長年手入れされていないことが分かった。
ノアが壁に手を触れる。
「この建物は、王都の旧管理記録にも載っています。以前は物資の保管庫だったようですが、二十年以上前に閉鎖されています」
「地下構造についての記録は?」
「ありません。少なくとも、一般の管理図には」
「つまり、記録にない地下がある可能性があるのね」
「あなたは本当に、そういう場所を見つけるのが得意ですね」
「褒めているの?」
「半分は」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
ノアが壁の一部を調べていると、彼の指先が不自然な継ぎ目に触れた。
「……ここですね」
石を押す。
微かな音が響いた。
壁の一部が、数センチほど内側へ沈み込む。
直後、足元から低い振動が伝わった。
ヴィオレッタの身体が強張る。
青白い光。
地下空間。
倒れる二人。
「ヴィオレッタ?」
ノアの声で、彼女は我に返った。
「どうしました?」
「何でもないわ」
「顔色が変わりましたよ」
「少し驚いただけ」
「本当に?」
彼女は答えず、壁の継ぎ目を見つめた。
今は大丈夫。
ノアは生きている。
自分も、ここにいる。
何度も心の中で繰り返してから、ようやく足を踏み出した。
壁の向こうには、狭い階段が続いていた。
「先に私が行きます」
ノアが前へ出る。
「待って。罠があるかもしれないわ」
「それなら、なおさら私が先に確認します」
「ノア!」
彼が振り返る。
「……一人で行かないで」
その言葉に、ノアは少し目を見開いた。
ヴィオレッタ自身も、自分が何を言ったのか理解するまでに数秒かかった。
「危険だからよ」
「分かっています」
ノアはそれ以上何も聞かず、彼女の隣に並んだ。
二人は慎重に階段を下りていった。
地下通路の壁には、古代のものと思われる細い線が刻まれている。枝分かれした紋様は、以前見つけた金属片の模様とよく似ていた。
しかし、今回は少し違う。
線の先に、小さな円が三つ並んでいる。
その中央に、見覚えのない文字があった。
「読めますか?」
ノアが尋ねる。
「完全には無理ね。ただ、これは古代文字の一種だと思う」
ヴィオレッタは手帳を取り出した。
その瞬間、ページがひとりでに開いた。
新しい文字が浮かび上がる。
『候補一、接近を確認』
『候補三、同行を確認』
ヴィオレッタの指が止まった。
「……またなの?」
ノアが手帳を覗き込む。
「候補一と候補三?」
「説明は後でするわ」
その直後、通路の奥から小さな音がした。
コツ。
コツ。
誰かが石床を歩いている。
ノアはすぐにヴィオレッタを背後へ下がらせた。
「誰かいます」
二人は息を潜めた。
暗闇の奥に、人影が現れる。
灰色のローブをまとった人物だった。
顔はフードに隠れている。
その人物は二人の姿を見ると、驚いたように足を止めた。
「……どうして、もうここにいる?」
低い声だった。
ノアが一歩前へ出る。
「あなたは何者ですか?」
灰色のローブの人物は答えなかった。
代わりに、ヴィオレッタへ視線を向ける。
「候補一……。また、記録が変わったのか」
「あなたは私を知っているの?」
「知っているとも。だが、今のお前は以前とは違う」
その言葉に、ヴィオレッタの背筋が冷たくなった。
「以前とは、どういう意味?」
「まだ気づいていないのか。お前は今回、最初から記憶を持ち帰っている」
「……!」
ノアがヴィオレッタを振り返った。
その一瞬の隙に、灰色のローブの人物は壁へ手を触れた。
青白い光が走る。
「待ちなさい!」
ヴィオレッタが駆け出したときには、すでに壁の一部が開き始めていた。
人物はその向こうへ消えていく。
最後に、フードの奥から声が聞こえた。
「次は、あの二人を近づけるな。お前が何度繰り返しても、結末は変わらない」
壁が閉じた。
静寂が戻る。
ヴィオレッタは、その場から動けなかった。
あの二人。
ノアとエミリアのことだ。
そして、何度繰り返しても結末は変わらない。
「ヴィオレッタ」
ノアの声が聞こえた。
「今の人物は、あなたの知り合いですか?」
「……知らないわ」
嘘ではない。
顔も名前も知らなかった。
けれど、あの人物は自分の過去を知っている。
今回の人生だけではない、以前の人生まで。
ノアは彼女の様子を見て、追及するのをやめた。
「ここは危険です。一度戻りましょう」
「ええ……」
二人は地上へ戻った。
帰り道、ヴィオレッタは一度もノアの姿を見失わないようにしていた。
そのことに気づいたノアが、怪訝そうに尋ねる。
「そんなに私が心配ですか?」
「ええ」
今度は迷わず答えた。
「……あなたが思っている以上に」
ノアは少しだけ目を細めた。
「それは光栄ですね」
彼の何気ない返事に、ヴィオレッタは微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
夜。
屋敷へ戻ったヴィオレッタは、手帳を開いた。
灰色のローブの人物について書き残そうとしたが、ペンを持つ手が震えていた。
何度か書き直し、ようやく文章を完成させる。
その下に、もう一つの言葉が浮かび上がった。
『記録修正の準備が完了しました』
続いて、見たことのない文字が現れる。
『候補三の排除を推奨』
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
「……ふざけないで」
声が震えていた。
誰にも聞こえない部屋の中で、彼女は強く手帳を握りしめた。
ノアを排除する。
それは、あの機構が彼を危険視しているということなのか。
それとも、彼を失うことが次の結末につながるという意味なのか。
答えは分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
今度は、絶対にノアを失わない。
その決意の裏側で、ヴィオレッタの心に、静かな恐怖が根を張り始めていた。
もし、彼を守るために、彼自身の意思を無視しなければならなくなったら。
そのとき、自分はどうするのだろう。
彼女はまだ、その答えを持っていなかった。




