もう一度、あなたたちに会うために
朝の光が、窓辺のカーテンを淡く照らしていた。
ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、鏡の前で自分の姿を見つめていた。
灰銀色の髪。青紫色の瞳。整った顔立ちも、身につけているドレスも、昨日と何一つ変わっていない。
けれど、鏡の中の自分を見ていると、ひどく奇妙な気分になった。
「……本当に戻ってきたのね」
小さく呟く。
彼女の記憶には、地下遺構で起きた出来事が残っている。
黒衣の魔術師たち。永遠記憶機構。選別。そして、目の前で倒れた二人。
ノア・ヴァルケイン。
エミリア・ローゼン。
二人の最期を思い出した途端、胸の奥が強く締めつけられた。
「っ……」
ヴィオレッタは鏡台に手をついた。
息が浅くなる。
あのとき聞いた音が蘇る。魔力が弾ける轟音。床に倒れる二人。伸ばした手が届かなかった感覚。
もう終わったことだ。
そう自分に言い聞かせても、身体はあの瞬間を忘れてくれない。
「落ち着きなさい……。今は、まだ何も起きていないわ」
彼女はゆっくりと息を吸い、吐いた。
今度こそ二人を救う。
そのためには、まず二人が本当に生きていることを確かめなければならない。
机の上には、昨日開いた手帳が置かれていた。
『候補一、起点への帰還を確認』
『候補二、生存を確認』
『候補三、生存を確認』
そして、最後に現れた不可解な文字。
『未登録の変数――ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン』
彼女はそのページを開いた。
文字は消えていた。
しかし、紙の表面には、何かを強く書きつけたような跡が残っている。
「未登録の変数……。私が、以前とは違う存在になったということ?」
答えはない。
ヴィオレッタは手帳を閉じ、侍女を呼んだ。
「本日の予定を少し変更したいの。午後の用事は後日に回せるかしら」
「かしこまりました。何か急ぎのご用件でしょうか?」
「ええ。会わなければならない人がいるの」
その日の午前中。
ヴィオレッタは、王都の街へ出た。
最初に向かったのは、ノアの家だった。
ヴァルケイン家はかつて名門と呼ばれた家柄だが、現在は以前ほどの勢いを持っていない。屋敷も王都の中心から少し離れた場所にある。
馬車を降りたヴィオレッタは、門の前で一度足を止めた。
ここに来るのは初めてではない。
しかし、以前の人生で何度訪れたのか、正確には思い出せなかった。
「ヴァレンシュタイン公爵令嬢でございますね。ノア様でしたら、書斎にいらっしゃいます」
案内された部屋には、見慣れた青年がいた。
暗い灰褐色の髪。銀灰色の瞳。少し乱れた髪を指先で整えながら、彼は机の上の書類に目を通していた。
「……ヴィオレッタ嬢?」
ノアが顔を上げた。
その声を聞いた瞬間、ヴィオレッタの足が止まった。
生きている。
目の前にいる。
傷一つない姿で、いつもと同じように彼女を見ている。
「どうしたんです? そんなところで固まって」
「……何でもないわ」
「何でもない人間は、普通そんな顔をしませんよ」
いつもの皮肉だった。
その何気ない言葉に、ヴィオレッタの胸が痛んだ。
あのとき、彼はもう二度と返事をしてくれなかった。
それなのに今は、こうして自分に話しかけている。
「ノア」
「はい?」
「あなたは……今、何か身体に異常を感じていない?」
「唐突ですね」
「頭痛や、意識を失うようなことは?」
「特にありませんが」
「変な夢を見たり、聞き覚えのない声が聞こえたりは?」
ノアは少し考え込んだ。
「昨夜、古い書庫で眠ってしまう夢なら見ました。あまりにも退屈な夢だったので、目覚めたときには少し安心しましたね」
「そう……」
「何かの調査ですか?」
「いいえ。ただ、確認したかっただけよ」
ノアは彼女の顔をじっと見た。
「あなたこそ、顔色が悪い。昨夜は眠れなかったんですか?」
ヴィオレッタは答えなかった。
彼に話すべきなのだろうか。
自分が彼の死を見たことを。
何度も人生をやり直していることを。
そして、彼が自分をかばって命を落としたことを。
「……まだ、話せないわ」
「そうですか」
ノアはそれ以上追及しなかった。
ただ、机の上の書類を片づけながら言った。
「何か困ったことがあるなら、相談してください。あなたが一人で抱え込むと、ろくな結果にならない気がしますので」
「それは、私への忠告?」
「経験則です」
「あなたと私は、そこまで長い付き合いだったかしら」
「さあ。少なくとも、あなたは私の予想を裏切るのが得意な人です」
ヴィオレッタは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑顔を見て、ノアは不思議そうに眉を上げた。
屋敷を出た後、ヴィオレッタは次にエミリアのもとへ向かった。
彼女の住む家は、王都の比較的静かな地区にあった。
扉を開けたエミリアは、蜂蜜色の髪を揺らしながら驚いた顔をした。
「ヴィオレッタ様!? どうされたんですか?」
「少し、あなたに会いたくなったの」
「私に、ですか?」
「ええ。迷惑だったかしら」
「そんなことありません! むしろ、嬉しいです!」
エミリアは明るく笑った。
その笑顔を見た瞬間、ヴィオレッタは視線を落とした。
彼女の手が、まだ温かい。
あの地下空間で、床に落ちていた手とは違う。
「ヴィオレッタ様?」
「……ごめんなさい。少し、あなたの顔を見ていたかったの」
「私の顔、ですか?」
「そうよ」
エミリアは困ったように笑った。
「何だか、変ですね。いつもはもっと厳しいことをおっしゃるのに」
「私だって、いつも厳しいわけではないわ」
「ふふっ。そうですね」
その声を聞いていると、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ緩んだ。
けれど、安心してはいけない。
二人が生きていることと、二人が今後も無事でいられることは別なのだから。
「エミリア。最近、夢を見たりする?」
「夢ですか?」
「古い建物や、青白い光が見えるような夢よ」
エミリアの表情がわずかに変わった。
「……どうして、それを?」
ヴィオレッタの背筋が冷たくなる。
「何か見たの?」
「いえ、最近はありません。でも、以前は何度か同じ夢を見ていました。大きな石の部屋で、誰かが私を呼んでいるんです」
「その声は、何と言っていたの?」
エミリアは少し考えた。
「はっきりとは覚えていません。ただ……『戻ってきて』と聞こえた気がします」
ヴィオレッタは手を握りしめた。
同じだ。
あの地下空間で、エミリアが聞いた声。
「でも、最近は見なくなりました。だから、もう大丈夫だと思います」
エミリアは微笑んだ。
「心配してくださったんですね。ありがとうございます」
「……ええ」
ヴィオレッタは、彼女の手をそっと握った。
今度は離さない。
何が起きても、二人を守る。
その決意を胸に、屋敷へ戻った。
しかし、夜になっても彼女は眠れなかった。
目を閉じると、ノアの倒れた姿が浮かぶ。
エミリアの手が床に落ちる瞬間が蘇る。
耳の奥では、魔術が弾ける音が何度も繰り返されていた。
「……もう、やめて」
誰もいない部屋で、ヴィオレッタは呟いた。
額に手を当て、深く息を吐く。
今は違う。
二人は生きている。
自分も生きている。
そう言い聞かせても、恐怖は消えなかった。
やがて彼女は机へ向かい、手帳を開いた。
今日確認したことを書き残す。
ノア、生存。身体に異常なし。
エミリア、生存。過去に同じ夢を見ていた可能性あり。
そして、その下に一行を付け加えた。
二人を、二度と失わない。
書き終えたとき、手帳の最後のページに、小さな文字が浮かび上がった。
『候補一、行動の変化を確認』
ヴィオレッタは息を止めた。
その下に、さらに一文が現れる。
『記録の修正を開始します』
「……何をするつもり?」
返事はなかった。
ただ、窓の外に広がる王都の夜景の一角で、青白い光が一瞬だけ瞬いた。
それは、彼女がまだ知らない場所。
そして、前の人生では一度も調査したことのない場所だった。
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
今度の人生では、先に動く。
たとえ自分がどれほど変わってしまっても。
二人を守るためなら、どんなことでもする。
その決意が、いつか自分自身を追い詰めることになるとは、このときの彼女はまだ知らなかった。




