死の記憶を抱いて
小鳥のさえずりが聞こえた。
ヴィオレッタは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天蓋。白いカーテン。朝日を受けて輝く銀細工の鏡。窓辺には、昨日と同じ場所に置かれた花瓶がある。
自室だった。
「……え?」
彼女は勢いよく身体を起こした。
胸に手を当てる。呼吸は正常。手足も動く。額にも、首にも、傷一つない。
あの地下空間で感じた痛みも、光の鎖に拘束された感触も、すべて消えていた。
けれど。
「ノア……エミリア……」
二人の名前を口にした瞬間、喉が詰まった。
倒れていたノア。
伸ばしかけた手を床に落としたエミリア。
自分の目の前で、二人の命が失われた光景。
忘れるはずがなかった。
「夢……ではないわ」
夢なら、あれほど鮮明な絶望を覚えているはずがない。
彼女は震える手で寝台の脇にある小机を探った。いつもの手帳が置かれている。表紙には傷も汚れもなく、地下遺構で最後に見た光景とは何の関係もない、平穏な朝の姿をしていた。
ページを開く。
最初の数ページには、王立記録院で見つけた記録の不一致や、エミリアと調査した古い建造物についての覚え書きが並んでいる。
そして、途中に挟まれた一枚の紙。
見覚えのない文字が、そこに記されていた。
『この死の記憶を、信じてはいけない』
ヴィオレッタは息を止めた。
昨夜、いや、あの地下空間で死ぬ直前に聞いた声。
同じ言葉だった。
しかし、紙に書かれた筆跡は彼女自身のものに似ている。完全に同じとは言い切れない。文字の払い方も、筆圧も、わずかに違っていた。
「……誰が、これを?」
紙を裏返しても、何も書かれていない。
彼女はしばらくそれを見つめていたが、やがて慎重に手帳へ戻した。
信じるな。
何を?
自分が見た死を?
それとも、記憶そのものを?
答えはどこにもなかった。
扉の向こうから、控えめなノックが聞こえた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
侍女の声だった。
ヴィオレッタは一度深呼吸してから返事をした。
「ええ。入ってちょうだい」
侍女が入室し、カーテンを整えながら朝の予定を告げる。
「本日は午前中に家庭教師の先生がお見えになります。それから、午後には王宮より茶会の招待状が届く予定です」
ヴィオレッタは、思わず侍女の顔を見た。
家庭教師。
王宮からの招待。
どちらも、以前の記憶の中で何度も耳にした言葉だった。
けれど、いつの人生の出来事なのかは分からない。
「……今日は何月何日?」
侍女は不思議そうに答えた。
その日付を聞いた瞬間、ヴィオレッタの指先が冷たくなった。
物語の始まりに近い時期。
まだ、王宮地下の異常も、選別も、三人の名前が刻まれた石板も知らなかった頃。
彼女は確かに、ここから何度もやり直してきた。
だが、今回は違う。
前の人生の記憶が、あまりにも鮮明に残っている。
ノアの声も。
エミリアの笑顔も。
二人を失った痛みも。
何一つ、薄れていなかった。
「お嬢様?」
「……何でもないわ。少し、嫌な夢を見ただけよ」
そう答えるのが精いっぱいだった。
侍女が退室すると、ヴィオレッタは寝台から降り、鏡の前に立った。
鏡の中には、いつもの自分がいる。
灰銀色の髪。青紫色の瞳。どこにも変化は見当たらない。
それなのに、自分が自分ではないような感覚が消えなかった。
『お前が経験してきた人生のすべてが、同じ一人の人生だったとは限らない』
あの魔術師の言葉が蘇る。
自分の記憶には、別の誰かの記憶が混じっている。
そうだとしたら、今まで自分が「以前の人生」と呼んできたもののうち、どれが本当の自分のものなのだろう。
黒瀬美咲として生きた記憶さえ、疑うべきなのだろうか。
「……いいえ」
ヴィオレッタは鏡の中の自分を見据えた。
「今は、考えても仕方がないわ」
分からないことを分からないままにしておく。
それは、彼女が記録を調べる中で学んだことだった。
ただし、今回は一つだけ違う。
彼女は、何が起きるのかを知っている。
少なくとも、あの地下空間で何が起きたかは。
そして、ノアとエミリアが死ぬ未来を、二度と受け入れるつもりはなかった。
たとえ、あの光景が偽りの記憶だったとしても。
二人が今、生きていることを確かめるまでは、安心できない。
「まずは、二人に会わなくては……」
そのとき、机の上の手帳がひとりでに開いた。
風は吹いていない。
窓も閉じている。
ヴィオレッタはゆっくりと振り返った。
手帳のページには、先ほどまでなかった一文が浮かび上がっていた。
『候補一、起点への帰還を確認』
その下に、さらに文字が続く。
『候補二、生存を確認』
『候補三、生存を確認』
ヴィオレッタは机へ駆け寄った。
「……生存?」
ノアとエミリアが、生きている。
それは、彼女が最も望んでいた事実だった。
しかし、手帳の文字はそこで終わらなかった。
最後の一文が、ゆっくりと浮かび上がる。
『未登録の変数――ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン』
「未登録……?」
その文字を見つめていると、胸の奥に冷たいものが広がった。
前の人生と同じ場所に戻ったのなら、何もかもが元どおりになったはずだ。
それなのに、機構は彼女を未登録だと告げている。
まるで、今回の彼女だけが、これまでの記録から外れているかのように。
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
もう、偶然だとは思えなかった。
自分の死。
二人の死。
そして、巻き戻し。
すべてがあの古代の機構とつながっているのかもしれない。
だが、機構が何を目的としているのかは、まだ分からない。
黒衣の魔術師たちが真実を知っている保証もない。
彼女が信じられるのは、自分の目で確かめたことだけだった。
「今度は、私が先に動くわ」
ヴィオレッタは窓の外を見た。
いつもと変わらない王都の朝。
まだ誰も、これから起きることを知らない。
ノアも、エミリアも、自分が死んだことを知らない。
そして、彼女の記憶の中には、二人が命を懸けて守ろうとした何かが残されている。
「二人を守る。それから、機構の正体を突き止める」
静かな決意が、胸の奥に形を成した。
ただし、彼女はまだ知らなかった。
今回の手帳に浮かんだ文字の最後に、誰にも読めないほど小さな一文が、ほんの一瞬だけ現れていたことを。
『記録外個体の発生を確認』
『監視者へ通知――送信失敗』
その文字は、彼女が手帳を閉じたときには、跡形もなく消えていた。




