七番目の記録
目を開けた瞬間、ヴィオレッタは自分が落下しているのだと思った。
だが、身体に衝撃はなかった。
足元に広がっていたのは、青白い光の線が幾重にも走る石床だった。天井は遥か高く、壁には見覚えのある枝分かれの紋様が刻まれている。
王宮地下で見つかった遺構。
その最奥に、彼女は立っていた。
「……ノア? エミリア?」
返事はない。
周囲を見回すと、離れた場所に二つの光の柱が立っていた。その向こう側に、人影がある。
「ヴィオレッタ!」
ノアだった。
彼は透明な壁のようなものに阻まれ、こちらへ近づけずにいた。銀灰色の瞳が、普段の落ち着きを失っている。
「そこから動くな! 床の線が変化している!」
「あなたこそ、余計なことをしないで!」
「こんな状況で、いつもどおりの命令口調だな」
「あなたがいつもどおり皮肉を言うからでしょう!」
言い返した直後、ヴィオレッタは自分の声が震えていることに気づいた。
ノアが生きている。
エミリアも、もう一つの光の柱の中にいた。彼女は膝をつきながらも、こちらを見て小さく手を振っている。
三人とも無事だ。
そう思った瞬間、床の紋様が一斉に輝いた。
『第三の記録、接続完了』
無機質な声が、空間そのものから響いた。
『記憶保持者三名を確認。選別を開始します』
「選別って、いったい何をするつもりなの……!」
ヴィオレッタの問いに答えたのは、背後から現れた黒衣の人物だった。
「お前の記憶を取り出す」
振り向くと、黒い外套をまとった魔術師が五人、円陣を組むように立っていた。以前、遺構で遭遇した者たちだ。
彼らの中央にいる人物は、顔を覆う仮面の奥からヴィオレッタを見つめていた。
「ようやく、ここまで来たな。ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン」
「あなたたちは何者なの? どうして私の名前を知っているの?」
「知っているのは名前だけではない」
魔術師は、床に浮かぶ文字を指さした。
『記憶保持者、候補一』
「お前が繰り返してきた人生についても、ある程度は把握している」
その言葉に、ヴィオレッタの呼吸が止まった。
繰り返してきた人生。
断片的な記憶。覚えのない筆跡。知らないはずの場所で感じる懐かしさ。そして、何度も聞こえてきた、誰かの声。
今度こそ。
間に合わせる。
「……私の過去を、あなたたちは知っているの?」
「すべてではない。だが、お前が何度も同じ起点へ戻されていることは知っている」
「戻されている……?」
「この遺構は、古代文明が残した記憶保存機構だ。永遠記憶機構。その本来の機能について、我々も全容を理解しているわけではない」
魔術師の声は淡々としていた。
「ただ一つ、確認されている事実がある。第七の記録が目覚めるとき、特定の記憶を持つ者は選別される。そして、記録が破損するか、選別が失敗した場合、機構は過去の特定地点へ記録を巻き戻すことがある」
「過去へ……記録を?」
「お前が経験してきた人生のすべてが、同じ一人の人生だったとは限らない」
ヴィオレッタの胸の奥で、何かが軋んだ。
「どういう意味……?」
「お前の中にある記憶には、別々の時代のものが混在している可能性がある。お前自身の記憶もあれば、別の記録から流れ込んだものもある。何が真実で、何が混入した記憶なのか、我々にも完全には判別できない」
彼女は一歩後ずさった。
自分が誰なのか。
どこまでが自分の経験なのか。
それを疑うことだけは、ずっと避けてきた。
「では、私が人生をやり直しているのは……この機構のせいなの?」
「その可能性は高い。だが、誰が最初に機構を起動したのか、なぜお前が選ばれたのか、そして何を完成させようとしているのか。それはまだ分かっていない」
「分からないことばかりなのに、私の記憶を奪うつもりなの?」
「記憶を取り出せば、選別を停止できるかもしれない。お前がこれ以上、過去へ引き戻されることもなくなる」
その説明は、あまりにも都合がよかった。
ヴィオレッタは魔術師を睨みつけた。
「あなたたちは、私を救うためにここへ来たの?」
「必要なのは、お前の記憶だ」
答えはそれだけだった。
「……そう。なら、交渉の余地はないわね」
ヴィオレッタは、ノアとエミリアのいる方向を見た。
「二人をここから出して。私の記憶が必要なら、私だけを連れていけばいい」
「候補二と候補三は、すでに機構と接続されている。切り離せば、記録の崩壊を引き起こす可能性がある」
「そんなこと、あなたたちが勝手に決めただけでしょう!」
エミリアが立ち上がった。
「ヴィオレッタ様を、どこにも連れていかせません!」
彼女の手の甲に、枝分かれした紋様が浮かび上がる。
青白い光が走り、透明な壁に亀裂が入った。
「エミリア、やめて!」
ヴィオレッタが叫んだときには、すでに遅かった。
魔術師たちが一斉に杖を掲げる。空間が歪み、床の線が蛇のようにうねった。
ノアは壁の亀裂へ手を伸ばした。
「ヴィオレッタ! エミリアを止めろ! このままでは機構が暴走する!」
「分かっているわ!」
分かっている。
分かっているのに、何もできない。
彼女は再び、誰かの記憶を見た。
崩壊する石造りの部屋。
倒れた人々。
血に染まった手。
そして、涙をこらえる誰かの声。
『今度こそ、間に合わせる』
その声の主は、目の前にいる誰かだったのかもしれない。
あるいは、もう失われた過去の誰かだったのかもしれない。
「……っ!」
ヴィオレッタが頭を押さえた瞬間、エミリアの光が弾けた。
透明な壁が砕け散る。
彼女はヴィオレッタへ駆け寄ろうとしたが、黒衣の魔術師が放った術式が、その進路を塞いだ。
「エミリア!」
ノアが叫ぶ。
彼は自分の前に残っていた壁を、手元の魔導具で無理やりこじ開けた。砕けた光の破片が舞い散る中、ノアはエミリアをかばうように飛び込んだ。
轟音。
青白い閃光。
二人の姿が、光の向こうへ消えた。
「ノア……?」
ヴィオレッタの声は、ほとんど息になっていなかった。
光が消えたあと、床には二人が倒れていた。
ノアは、もう動かなかった。
エミリアもまた、ヴィオレッタへ伸ばしかけた手を床に落としていた。
「……嘘」
足が動かない。
頭が、何も考えることを拒んでいた。
「嘘よ……。起きなさい、ノア。あなた、まだ私に説明していないことがあるでしょう。エミリアだって……あなた、まだ行きたい場所があるって言っていたじゃない……」
返事はなかった。
「ねえ……お願いだから……」
彼女は膝をつき、二人のもとへ行こうとした。
だが、魔術師たちが動いた。
床から伸びた光の鎖がヴィオレッタの手足を縛り、彼女をその場に押さえつけた。
「離して!」
魔術師は答えず、彼女の額に手をかざした。
「記憶の深層へ接続する。第七の記録を特定できれば、機構を停止できるはずだ」
「やめて……!」
頭の中へ、知らない光景が流れ込んできた。
見たことのない王都。
滅びる前の古代文明。
同じ顔をした誰か。
自分のものではないはずの悲しみ。
いくつもの人生が、互いに重なり、輪郭を失っていく。
「やめなさい……! それ以上、私の中に入らないで!」
「抵抗するな。記憶が壊れる」
「あなたたちが……壊しているんでしょう!」
魔術師の術式が強まった。
痛みとともに、ヴィオレッタの意識が引き裂かれていく。
その中で、彼女は一つの記憶を見た。
薄暗い部屋。
青白い円環。
そして、目の前に立つ人物の背中。
顔は見えない。
ただ、その人物は泣いていた。
『ごめん』
聞き覚えのある声だった。
『次は、きっと……』
記憶はそこで途切れた。
「第七の記録を確認できない……なぜだ?」
魔術師の声に焦りが混じった。
「候補一の記憶が、機構の記録と一致しない。これは……誰の記憶だ?」
ヴィオレッタは、かすかに笑った。
何も分からない。
自分が何者なのかも。
何を繰り返してきたのかも。
なぜノアとエミリアが死ななければならなかったのかも。
それでも、一つだけ分かった。
この人々に記憶を渡してはいけない。
「……あなたたちには、渡さない」
最後の力で、彼女は額に触れていた魔術師の手を振り払った。
その瞬間、床の紋様が黒く染まった。
『選別、失敗』
『記録の破損を確認』
『巻き戻し処理を開始します』
魔術師たちが一斉に振り返った。
「待て! まだ何も終わっていない!」
「機構を止めろ! このままでは――」
声が遠ざかる。
光が、世界を塗り潰していく。
ヴィオレッタは、床に倒れたノアとエミリアを見つめた。
二人の顔を、忘れたくなかった。
どんな人生に戻されても。
どれほど記憶が壊れても。
この二人が自分のために命を落としたことだけは、忘れたくなかった。
「……ごめんなさい」
涙が頬を伝った。
「今度は……私が、あなたたちを……」
最後まで言葉にはならなかった。
身体から力が抜ける。
視界が暗くなっていく。
そして、世界が終わる直前。
誰かが、彼女の耳元で囁いた。
『この死の記憶を、信じてはいけない』
ヴィオレッタは目を見開いた。
その声が誰のものだったのか、確かめることはできなかった。
彼女の意識は、完全な闇へと沈んだ。
『記録を巻き戻します』
『起点を再設定』
『ただし――』
機構の声が、途切れた。
『今回の記録には、未登録の変数が存在します』
そして、すべての光が消えた。




