第三の候補
王宮の地下で、三つ目の名前が刻まれた。
『ノア・ヴァルケイン』
その事実を、まだ誰も知らない。
石材に浮かんだ文字は、青白い光が消えると同時に薄れていった。残されたのは、円形の紋様と、三つの点を結ぶ細い線だけだった。
だが、地下構造の変化は止まっていなかった。
石材の奥深くで、何かがゆっくりと回転している。
低い振動が伝わり、遠くの壁に刻まれた古い文字が、一つずつ淡く光り始めた。
その光景を見ている者がいた。
黒い外套をまとった人物。
その隣には、灰色のローブを着た人物が立っている。
「候補が増えたか」
灰色のローブの人物が呟いた。
「予定より早い」
黒衣の人物は答えなかった。
ただ、壁に刻まれた三つの名前を見つめていた。
「このままでは、選別が完了する前に、彼女がすべてを思い出してしまう」
「それは避けなければならない」
「ならば、どうする?」
灰色のローブの人物は、ゆっくりと顔を上げた。
「三人を引き離すだけでは足りない。装置は、すでに彼らを認識している」
黒衣の人物は、懐から銀色の金属片を取り出した。
枝分かれした線。
小さな穴。
その表面には、見覚えのない細い傷が刻まれていた。
「……ならば、記録そのものを止めるしかない」
灰色のローブの人物は、しばらく沈黙した。
「本当に、それを実行するつもりか?」
「ほかに方法があるなら教えてくれ」
返事はなかった。
二人の足元で、青白い光が再び走った。
そして、地下の奥から三度の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
黒衣の人物は、静かに目を閉じた。
「時間がない」
その言葉を最後に、二人の姿は暗闇へ消えた。
王宮の地上では、何も起きていないように見えた。
だが、選別はすでに次の段階へ進んでいた。
◇
「ノア、少し待って」
ヴィオレッタが足を止めた。
王宮管理局を出てから、三人はエミリアを安全な場所へ送り届けるため、王宮外周の通路を歩いていた。
ノアは振り返った。
「どうした?」
「あなた、さっきから何か考えているでしょう」
「いつも考えているが」
「そういう意味ではないわ」
ノアは一瞬だけ目を細めた。
「……エミリアの発光現象について、気になることがある」
エミリアが不安そうに顔を上げた。
「何か、悪い兆候だったのでしょうか?」
「悪いと決まったわけではない。ただ、あの図形が金属片と似ているなら、身体に現れた光が偶然の魔力反応とは限らない」
ヴィオレッタは頷いた。
「私も同じことを考えていたわ。けれど、現象が起きた原因は分からない。エミリア自身が何かを操作したわけでもないし、魔法を使おうとしたわけでもない」
「だからこそ、本人の意思とは無関係に起きた可能性を考えるべきだ」
ノアは、エミリアを見た。
「君自身は、あのとき何を感じた?」
エミリアは少し考えた。
「最初は、誰かに呼ばれている気がしました。でも、そのあと……頭の中に、知らない景色が浮かんだんです」
「どんな景色?」
「石造りの広い部屋でした。壁には、青い線がたくさん走っていて……その中央に、何か大きなものがありました」
ヴィオレッタの表情が変わった。
「大きなもの?」
「はい。でも、はっきりとは見えませんでした。人のようにも見えたし、彫像のようにも……」
エミリアは眉を寄せた。
「それから、誰かが言ったんです。『まだ、戻してはいけない』って」
三人の間に沈黙が落ちた。
ヴィオレッタは、過去に自分が見た光景を思い返した。
暗い廊下。
幾何学模様の床。
そして、何度も繰り返される、聞き覚えのない声。
二人の記憶が同じものを指しているのかどうかは分からない。
だが、古代の構造物に関係する可能性はあった。
「エミリア。その景色を、以前にも見たことがある?」
「分かりません……。初めて見たはずなのに、どこか懐かしい気がしました」
「そう」
ヴィオレッタは、それ以上尋ねなかった。
記憶を無理に掘り起こすことが、彼女にどのような影響を与えるのか分からないからだ。
そのとき、ノアが突然足を止めた。
「二人とも、動くな」
彼の声が低くなる。
ヴィオレッタは、すぐに周囲を見回した。
通路の先に、二人の人影が立っていた。
黒い外套。
灰色のローブ。
先ほど、王宮北西区画で目撃された人物たちと、よく似た装いだった。
「……また、あなたたちなの?」
ヴィオレッタが問いかけた。
黒衣の人物が一歩前に出る。
「ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン」
「私の名前を知っている理由を、今度こそ説明してもらうわ」
「説明する時間はない」
「それは、あなたたちの都合でしょう」
灰色のローブの人物が、エミリアへ視線を向けた。
「候補二を確認した」
その言葉に、エミリアが身を強張らせた。
ノアが一歩前へ出る。
「人を番号で呼ぶな」
灰色のローブの人物は、初めてノアを見た。
その瞬間、彼の動きが止まった。
「……三人目まで、ここにいるのか」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
「三人目?」
黒衣の人物が、灰色のローブの人物を制した。
「余計なことを話すな」
「だが、もう遅い。装置は彼を認識している」
ノアは二人を睨んだ。
「何の話だ?」
返事の代わりに、灰色のローブの人物が手を上げた。
空中に、青白い魔法陣が浮かび上がる。
ヴィオレッタは即座にエミリアの腕を引いた。
「下がって!」
魔法陣から放たれた光が、通路の床を走った。
ノアは腰の剣を抜き、二人の前に立つ。
だが、光は彼らを直接狙わなかった。
床に描かれた線が、三人の足元を囲むように広がっていく。
「これは……!」
ヴィオレッタは、王宮地下で見た図形を思い出した。
三つの点。
それらを結ぶ線。
そして、中央に浮かぶ円。
「ノア、エミリア、線の外へ!」
三人は別々の方向へ飛び退いた。
しかし、光は彼らの動きに合わせて形を変えた。
まるで、三人の位置を認識しているかのように。
「逃げろ!」
黒衣の人物が叫んだ。
だが、その声は仲間へ向けられたものではなかった。
ヴィオレッタたちへ向けられたものだった。
次の瞬間、灰色のローブの人物が杖を振り下ろした。
床が激しく揺れた。
石畳が持ち上がり、通路の両側から青白い光が噴き出す。
ノアはエミリアをかばいながら後退した。
ヴィオレッタは壁際へ飛び、崩れかけた石材を避けた。
「何をしたの!?」
彼女が叫ぶ。
灰色のローブの人物は、苦しそうに答えた。
「我々ではない……。装置が、勝手に反応している!」
その言葉に、ヴィオレッタは凍りついた。
彼らも制御できていない。
もし本当なら、目の前で起きている現象は、誰かが意図的に仕掛けた攻撃ではない可能性がある。
しかし、確認している余裕はなかった。
床の中央に、黒い亀裂が走った。
そこから、冷たい風が吹き上がる。
そして、亀裂の奥から、低い声が響いた。
『第三の記録を確認』
ヴィオレッタは息を呑んだ。
『選別を開始する』
青白い光が、三人を包み込んだ。
ノアがヴィオレッタへ手を伸ばす。
エミリアも、必死に彼女の名前を呼んでいた。
だが、光は三人の間に壁のように立ち上がり、それぞれの姿を遮っていく。
「ノア!」
ヴィオレッタが叫んだ。
「エミリア!」
二人の姿が、光の向こうへ消えていく。
最後に見えたのは、ノアが剣を構え、エミリアを守ろうとする姿だった。
そして、ヴィオレッタの視界が白く染まった。
意識が遠のく直前、彼女は誰かの声を聞いた。
「……今度こそ、間に合わせる」
その声が誰のものだったのか。
彼女には、分からなかった。




