選別を加速させる者
『候補一と候補二が同じ場所にいる場合、選別は加速する』
ヴィオレッタは、手帳に記された一文を何度も読み返した。
筆跡は自分のものに似ている。
だが、書いた記憶はない。
王宮地下の石材に現れた文章とは異なり、これは現在の王国で使われている文字だった。誰かが手帳に書き込んだ可能性もある。しかし、彼女が持ち歩いている間に、誰かが触れた形跡はなかった。
「……どうして、こんなことばかり起きるのかしら」
「君が謎を追いかけているから、という説明では不十分か?」
隣を歩くノアが言った。
「不十分どころか、説明になっていないわ」
「それは残念だ」
「少しは真面目に考えてちょうだい」
「真面目に考えているからこそ、今は結論を出さない。筆跡が似ているからといって、君が書いたとは限らないだろう」
ヴィオレッタは口を閉じた。
彼の言うとおりだった。
自分の筆跡に似ていることと、自分が書いたことは別である。
ましてや、書かれた時期さえ分からない。
「……そうね。まずは、この文章がいつ書かれたのかを考える必要があるわ」
「それに、内容も気になる」
ノアは手帳のページを見つめた。
「選別が加速するという表現だ。王宮地下の装置が使った言葉と関係しているのかもしれない」
「候補一と候補二。つまり、私とエミリアのことね」
「現時点では、その可能性が高い。ただし、候補が二人だけとは限らない」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
候補。
選別。
記憶保持者。
どれも、誰かが特定の基準に従って人間を分類していることを示唆している。
だが、誰が何のために選んでいるのかは分からない。
そして、選別が加速すると、具体的に何が起こるのか。
その答えを得るには、もう一度、王宮地下の記録を調べる必要がある。
しかし、今すぐ地下へ戻るのは危険だった。
「明日、王宮管理局へ行きましょう」
ヴィオレッタは言った。
「今夜は休んで、明朝、エミリアの様子を確認してから動くわ」
「賛成だ。君が眠らずに手帳を調べ続ける可能性を考えると、監視が必要かもしれないが」
「ノア。あなた、私を何だと思っているの?」
「質問に答えず、都合の悪い記録を夜中に調べる人間」
「……その評価、いつか撤回させてみせるわ」
「期待している」
翌朝。
ヴィオレッタが王宮管理局へ到着すると、エミリアはすでに待機室にいた。
顔色は前日よりもよくなっていたが、落ち着かない様子で何度も指先を握り直している。
「おはよう、エミリア。体調はどう?」
「おはようございます。もう大丈夫です。少し眠れましたし、昨日ほど怖くはありません」
「無理はしないでね」
「はい。でも、私も知りたいんです。どうして、あの場所に私の名前があったのか」
ヴィオレッタは頷いた。
「分かったわ。ただし、無理に何かを思い出そうとしないこと。感じたことと、実際に確認できたことは分けて考えましょう」
「はい」
三人は王宮管理局の調査室へ向かった。
昨日、地下構造の文字を記録した魔術師が、追加の報告書を用意していた。
「昨夜の反応について、分かったことがあります」
彼は机の上に二枚の図面を広げた。
一枚は、ヴィオレッタとエミリアの名前が現れた石材の配置図。
もう一枚は、青白い光が走った経路を記録したものだった。
「文字が現れた際、二つの石材は同時に発光したわけではありません。最初に反応したのは、ヴィオレッタ様のお名前が記された石材でした。その後、約十秒遅れて、エミリア様のお名前が記された石材が反応しています」
「十秒……」
ヴィオレッタは図面を見つめた。
「反応の順番は、毎回同じなのですか?」
「まだ一度しか確認できていないため、分かりません。ただ、二つの石材をつなぐ線に沿って、光が移動したことは確認されています」
ノアが図面を覗き込んだ。
「つまり、一方の反応がもう一方へ伝わった可能性がある」
「はい。ただし、二つの石材が直接つながっているのか、それとも別の構造を経由しているのかは不明です」
ヴィオレッタは、図面の線を目で追った。
二つの石材は、地下構造の異なる位置にある。
それなのに、光は一方からもう一方へ移動した。
「この線の先は?」
「地中に続いていると考えられます。現在のところ、終点は確認できていません」
「地下通路につながっている可能性は?」
「否定できません。ただ、通路が実際に存在するかどうかも、まだ分かっていないのです」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「分かりました。では、現時点で確認できた事実として記録してください。二つの石材は異なる時刻に反応し、光が線に沿って移動した。それ以上の解釈は、別に記載するべきです」
魔術師は感心したように頷いた。
「承知しました」
そのとき、調査室の扉が開いた。
現場責任者が、緊迫した表情で入ってきた。
「緊急報告です。王宮北西区画の封鎖区域で、再び異常が発生しました」
ヴィオレッタは立ち上がった。
「何があったのですか?」
「地盤の沈下はありません。しかし、石材の表面に新しい文字が現れました」
「どんな文字ですか?」
責任者は、一枚の写しを机に置いた。
そこには、古い言語で短い文章が記されていた。
『候補一、確認済み』
その下には、さらに一行。
『候補二、接続開始』
エミリアが息を呑んだ。
「接続……?」
彼女の指先が震え始めた。
ヴィオレッタはすぐに彼女のそばへ移動した。
「エミリア、私を見て」
「はい……」
「ゆっくり息をして。ここは調査室よ。今、地下にはいないわ」
エミリアは何度か深呼吸した。
しかし、彼女の表情は次第に青ざめていった。
「ヴィオレッタ様……聞こえます」
「何が?」
「昨日と同じ声です。遠くから、誰かが呼んでいるような……」
彼女は耳を押さえた。
「でも、今度は言葉が分かります」
ノアが立ち上がった。
「エミリア、何と言っている?」
エミリアは震える唇を開いた。
「『戻ってきて』……そう聞こえます」
室内が静まり返った。
「誰が、どこへ戻ってきてほしいと言っているの?」
ヴィオレッタが尋ねる。
エミリアは首を横に振った。
「分かりません。でも……」
彼女は自分の胸元を押さえた。
「その声を聞いたとき、私は、そこへ行ったことがあるような気がしたんです」
「いつ?」
「分かりません。今の私ではないような……でも、私のことのような気もして……」
ヴィオレッタは、彼女の肩を支えた。
「それ以上、無理に思い出さなくていいわ」
エミリアは何度も頷いた。
ノアが現場責任者へ向き直る。
「地下への立ち入りは?」
「許可していません。異常が確認された直後に封鎖を強化しました」
「その判断は正しい。今は、エミリアを地下へ近づけるべきではない」
ヴィオレッタも同意した。
「ええ。今回の反応がエミリアと関係している可能性はあります。でも、それを確かめるために彼女を危険にさらすわけにはいきません」
責任者は頷いた。
「王宮管理局としても、同じ方針です。追加の調査は、専門家の分析が終わるまで延期します」
だが、その瞬間だった。
エミリアの身体が、びくりと震えた。
「……あ」
彼女は、自分の手を見つめた。
指先に、淡い青白い光が浮かんでいた。
「エミリア!」
ヴィオレッタが彼女の手を取ろうとした。
しかし、ノアがすぐに制止した。
「待て。まずは触れずに様子を見よう」
光は手の甲から指先へと広がり、小さな線を描いていた。
枝分かれした線。
その先に、小さな円。
そして、円の中央に三つの点。
ヴィオレッタは息を呑んだ。
金属片に刻まれていた模様と、よく似ている。
「これは……」
エミリアは、自分の手を見つめたまま呟いた。
「私、こんな魔法を使ったことはありません……」
「分かっているわ。落ち着いて」
ヴィオレッタは彼女の目を見た。
「あなたが何かをしたと決めつける必要はない。まずは、何が起きているのか確認しましょう」
青白い光は数秒間だけ輝き、やがて消えた。
エミリアの手には、何の痕跡も残っていなかった。
調査室の魔術師たちは、すぐに記録を取り始めた。
しかし、ヴィオレッタは、エミリアから目を離せなかった。
彼女の名前が地下構造に記録された。
候補二として分類された。
そして、今度は身体に古代の図形と似た光が現れた。
これは、単なる偶然なのだろうか。
それとも、地下構造がエミリアに何らかの反応を示しているのか。
「……ヴィオレッタ様」
エミリアが、小さな声で呼んだ。
「私、何か悪いことをしたのでしょうか」
「いいえ」
ヴィオレッタは、はっきりと答えた。
「あなたは何も悪くないわ。何が起きているのか分からないからといって、あなた自身に責任があるわけではないもの」
エミリアは、ようやく少しだけ表情を緩めた。
ノアも静かに頷いた。
「そのとおりだ。原因が分からない以上、誰かを責める理由はない」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
昨日の文章が、最後のページに残っている。
『候補一と候補二が同じ場所にいる場合、選別は加速する』
彼女は、その下に新しい記録を書き加えた。
『候補二に分類されたエミリア・ローゼンの身体に、短時間の発光現象が発生。図形は既知の金属片と類似するが、同一であるかは未確認』
書き終えたあと、彼女は一つの疑問に行き着いた。
もし、二人が同じ場所にいることで選別が加速するのなら。
離れれば、反応を抑えられるのだろうか。
それとも、すでに始まった選別は、二人が離れても進み続けるのか。
ヴィオレッタは顔を上げた。
「ノア。エミリアを安全な場所へ送り届けたいの。そのうえで、王宮管理局に二つの石材の反応を別々に監視してもらうよう頼みましょう」
「分かった。だが、君も一人で動くなよ」
「ええ。約束するわ」
エミリアは不安そうに二人を見た。
「私が離れたほうがいいのでしょうか……?」
「今は、安全を確認するためよ。あなたが原因だと決まったわけではないわ」
ヴィオレッタは、彼女の手を優しく握った。
「何が起きても、あなたを一人にするつもりはないから」
その言葉を聞いたエミリアは、静かに頷いた。
三人は調査室を後にした。
しかし、彼らが去ったあと、王宮北西区画の地下では、新たな反応が始まっていた。
青白い光が、二つの石材をつなぐ線を走る。
候補一の記録。
候補二の記録。
その間に、第三の線が浮かび上がった。
そして、石材の表面に、新しい文字が刻まれた。
『選別対象、二名から三名へ変更』
その下には、まだ誰にも知られていない名前が、一つだけ現れていた。
『ノア・ヴァルケイン』
光が消えた。
地下は再び静寂に包まれた。




