選別の始まり
王宮の鐘が、夕刻を告げた。
ヴィオレッタは窓辺に立ち、北西区画の方角を見つめていた。
地下構造の封鎖は続いている。黒衣の侵入者は姿を消し、灰色のローブをまとった人物の行方も分からない。回収された金属片についても、用途を特定できるほどの情報は得られていなかった。
何も解決していない。
それどころか、ヴィオレッタの名前と記憶を知る者がいることだけが、以前よりもはっきりしてしまった。
「……考えても仕方がないわね」
自分に言い聞かせるように呟き、机へ戻る。
彼女は手帳を開き、これまでの調査記録を読み返した。
北方の観測地点。
エーベルハルト家の温室。
王都の地下構造。
王宮北西区画。
それぞれの場所で、青白い光と幾何学模様が確認されている。さらに、枝分かれした線と小さな穴を持つ金属片も複数発見された。
共通点はある。
だが、どの場所が中心なのか、何が起動条件なのかは分からない。
そして、すべての調査記録に共通しているわけではないものの、古い資料には奇妙な指示が残されていた。
入口を記録しないこと。
地下部分を調べないこと。
個人記録と照合しないこと。
「個人記録……」
その言葉を口にした瞬間、ヴィオレッタの脳裏に、黒衣の人物の顔が浮かんだ。
『お前の記憶を、これ以上目覚めさせるな』
彼女は眉間を押さえた。
自分の記憶に何があるというのだろう。
繰り返し見る夢。
書いた覚えのない文章。
知らないはずの場所に対する既視感。
それらが、古代の装置と関係しているとしたら。
いや、関係していると考えるのは早い。
ヴィオレッタは、手帳の余白にそう書き込んだ。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「ヴィオレッタ様、お客様がお見えです」
侍女の声だった。
「どなた?」
「王宮管理局からの使者です。緊急の伝言をお持ちだそうです」
ヴィオレッタは顔を上げた。
王宮管理局から、わざわざ自分のもとへ使者が来る理由は限られている。
彼女は手帳を閉じ、扉を開けた。
廊下に立っていたのは、見覚えのある若い職員だった。
「夜分に失礼いたします、ヴィオレッタ様」
「何かあったの?」
「北西区画の封鎖区域で、異常が確認されました」
職員は緊張した面持ちで続けた。
「地下構造の周辺に設置していた測定器が、ほぼ同時に反応したそうです。それと、石材の表面に新しい文字が現れました」
ヴィオレッタの胸がざわついた。
「どんな文字?」
「詳細はまだ確認中ですが、現場の魔術師によれば、以前に発見されたものと同じ古い言語だそうです」
「それで、私に何を?」
職員は一瞬ためらった。
「現場で、ヴィオレッタ様のお名前が確認されたとのことです」
静寂が落ちた。
「……私の名前?」
「はい。文字列の一部に、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインという名前が含まれていたと報告されています」
ヴィオレッタは、すぐには答えられなかった。
黒衣の人物に名前を呼ばれたのは、偶然ではなかったのか。
地下構造が、自分の名前に反応したのか。
それとも、誰かが意図的に名前を刻んだのか。
「ノアとエミリアには?」
「すでに連絡を差し上げました。お二人とも、王宮へ向かっているとのことです」
「分かったわ。現場責任者には、私が到着するまで誰も文字に触れないよう伝えてちょうだい」
「承知しました」
職員が去ると、ヴィオレッタはすぐに外套を手に取った。
侍女が心配そうに声をかける。
「ヴィオレッタ様、もう夜も遅いです。危険ではありませんか?」
「危険だからこそ、状況を確認する必要があるの」
「ですが……」
「安心して。勝手に地下へ入るつもりはないわ」
侍女は、何か言いたそうにしながらも、最後には頷いた。
ヴィオレッタは護衛を伴い、王宮へ向かった。
夜の王都は、昼間よりも静かだった。
街路の灯りは少なく、兵士たちの足音が石畳に響いている。北西区画へ近づくにつれ、警備は厳しくなり、通行できる道も限られていた。
封鎖区域の入口には、ノアとエミリアが待っていた。
「遅かったな」
ノアが言った。
「使者が来たのが少し前だったのよ」
「そうか。こちらも、今しがた到着したところだ」
エミリアは心配そうにヴィオレッタを見つめた。
「本当に、お名前が刻まれていたんでしょうか……」
「現物を確認するまでは分からないわ」
三人は現場責任者の案内で、封鎖区域の外側まで進んだ。
地下構造が露出した場所には、複数の魔術師が集まっていた。石材を囲むように設置された測定器は、どれも微弱な反応を示している。
その中央に、青白い光が浮かんでいた。
光は石材の表面をゆっくりと移動し、円形の紋様を描き出している。
そして、その下に文字が現れていた。
ヴィオレッタは目を凝らした。
古い言語。
ところどころ欠けているが、報告された名前は確かにそこにあった。
『ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン』
その下には、さらに短い文章が刻まれている。
『記憶保持者、候補一』
エミリアが息を呑んだ。
「記憶保持者……?」
ノアは険しい表情で文字を見つめた。
「候補一、ということは、ほかにも候補がいるのか?」
「そう考えられるけれど、まだ断定できないわ。翻訳が正しいかも確認が必要よ」
ヴィオレッタはそう答えながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
記憶保持者。
その言葉は、単なる記憶を持つ人間という意味ではないのだろう。
でなければ、わざわざ名前を記録する必要はない。
そして、候補という表現。
何かを選ぶための分類。
地下構造が、彼女を何らかの基準で認識している。
そう考えれば、これまでの出来事にも説明がつくように思えた。
だが、説明がつくことと、それが真実であることは別だ。
「現場責任者。文字が現れた直前の状況を教えてください」
ヴィオレッタが尋ねた。
「午後六時十二分、測定器が同時に反応しました。その後、石材の中央に光が現れ、文字が浮かび上がったとのことです。誰も石材には触れていません」
「侵入者は?」
「確認されていません。周辺の警備も異常ありませんでした」
「文字が現れる前に、何か音は?」
「三度、低い音が響いたと報告されています」
ヴィオレッタは目を閉じた。
三度の音。
やはり、地下構造の反応と関係している可能性がある。
「文字が現れたのは、私の名前だけですか?」
「いいえ」
責任者は、少し離れた石材を指した。
「その先にも、別の文字列が現れています。ただし、こちらはまだ解読できていません」
ヴィオレッタは視線を移した。
そこには、複数の短い線と、円形の印が並んでいた。
そして、その中央に、一つの名前があった。
『エミリア・ローゼン』
「……え?」
エミリアの声が震えた。
彼女は自分の名前を見つめたまま、動けずにいた。
その下には、ヴィオレッタの記録とは異なる文言が刻まれている。
『記憶保持者、候補二』
ノアが、ゆっくりとエミリアを振り返った。
「エミリア。君も、何か心当たりがあるのか?」
「ありません……。本当に、何も……」
彼女は首を横に振った。
「私、こんな場所に来たことも、こんな文字を見たこともありません」
ヴィオレッタは、エミリアの顔を見つめた。
彼女が嘘をついているようには見えない。
だが、それだけで何も知らないと断定することもできない。
以前、エミリアは古代の紋様を見た際、理由の分からない親近感を覚えていた。
それが今、地下構造の記録と結びついたのだ。
「……エミリア。今、何か感じている?」
ヴィオレッタが尋ねた。
エミリアはしばらく黙っていた。
やがて、かすれた声で答えた。
「音が……聞こえる気がするんです」
「音?」
「はい。遠くから、誰かが呼んでいるような……。でも、何を言っているのか分からなくて」
彼女は両手で耳を押さえた。
「怖いんです。私、どうしてこんなに怖いのか、分からないのに……」
ヴィオレッタは彼女の肩に手を置いた。
「無理に思い出そうとしなくていいわ。今は、ここから離れましょう」
ノアも頷いた。
「同意する。これ以上、ここにいる必要はない」
現場責任者は、三人を安全な場所へ誘導した。
その間も、石材の文字は青白く光り続けていた。
候補一。
候補二。
そして、二つの名前。
ヴィオレッタは振り返らなかった。
今は、答えを求めるよりも、エミリアを落ち着かせることが先だった。
封鎖区域を離れたあと、エミリアは近くの待機室で休むことになった。
ノアは彼女のそばに残り、ヴィオレッタは現場責任者から追加の説明を受けるため、廊下へ出た。
「ヴィオレッタ様」
責任者は、慎重な口調で言った。
「今回の文字について、王宮管理局としても重大な事案と考えています。地下構造とお二人の名前がどのような関係にあるのか、調査を進める必要があります」
「ええ。ただし、本人たちの安全を最優先にしてください。無断で実験の対象にするようなことは、認められません」
「もちろんです」
ヴィオレッタは責任者を見つめた。
「もう一つ、お願いがあります。今回の記録を、一般の資料とは分けて保管してください。原本の記録、翻訳、解釈を別々に残し、誰が何を確認したのかも明記してほしいのです」
「その理由は?」
「この文字が示す意味は、まだ確定していません。後から別の解釈が見つかったとき、最初の観察結果まで失われないようにするためです」
責任者は深く頷いた。
「承知しました」
ヴィオレッタは待機室へ戻った。
エミリアは落ち着きを取り戻しつつあったが、顔色はまだ悪い。
ノアが、彼女のそばで静かに座っている。
「大丈夫か?」
ヴィオレッタが尋ねると、エミリアは弱々しく微笑んだ。
「はい……。でも、少しだけ怖いです」
「当然よ。自分の名前が、知らない装置に記録されていたのだから」
「ヴィオレッタ様も、怖いですか?」
ヴィオレッタはすぐには答えなかった。
怖くないと言えば、嘘になる。
自分の記憶について何かを知る者がいる。
古代の装置が、自分とエミリアを候補として記録した。
そして、その記録が何を意味するのか、誰も説明できない。
「ええ。怖いわ」
彼女は正直に答えた。
「でも、怖いからといって、何も考えずに逃げるわけにはいかない。少なくとも、今はね」
エミリアはゆっくりと頷いた。
ノアが立ち上がる。
「今日はもう戻ろう。今後の調査方針は、明日改めて考えるべきだ」
「そうね」
ヴィオレッタは同意した。
三人は王宮を後にした。
夜風は冷たく、街路には人影が少なかった。
ヴィオレッタは歩きながら、何度も地下構造の文字を思い返した。
『記憶保持者、候補一』
『記憶保持者、候補二』
もし、この装置が人間の記憶を分類しているのなら、何を基準に候補を選んでいるのだろう。
過去の記憶か。
失われた記憶か。
それとも、まだ思い出していない記憶か。
彼女は懐の手帳に触れた。
そのとき、指先に紙の感触とは異なる、硬いものが当たった。
ヴィオレッタは足を止めた。
手帳を取り出し、最後のページを開く。
そこには、新しい文字が記されていた。
『候補一と候補二が同じ場所にいる場合、選別は加速する』
彼女の呼吸が止まった。
その文章は、地下構造に現れた文字と同じ古い言語ではない。
現在の王国で使われている文字だった。
しかも、その筆跡は。
ヴィオレッタ自身のものに、よく似ていた。




