お前の名前を知る者
黒衣の人物が消えたあとも、王宮北西区画の緊張は解けなかった。
青白い線が残る石畳を魔術師たちが取り囲み、護衛兵は周囲の建物まで警戒範囲を広げている。現場責任者は負傷者の確認と報告を優先し、封鎖区域への立ち入りを全面的に禁止した。
ヴィオレッタは、その様子を見つめながら拳を握りしめていた。
『ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン。お前の記憶を、これ以上目覚めさせるな』
あの人物は、確かにそう言った。
偶然、名前を知っていたというだけではない。
彼女の記憶が目覚めることを警戒していた。
まるで、ヴィオレッタ自身が何かの鍵であるかのように。
「ヴィオレッタ、少し離れよう」
ノアの声に、彼女は顔を上げた。
「ここにいても、今は何も分からない。現場の調査は専門家に任せて、まずは分かったことを整理するべきだ」
「……そうね」
ヴィオレッタは頷いた。
いつものように軽口を返す余裕はなかった。
エミリアも彼女の様子を気にしているようだったが、何も尋ねず、そっと隣を歩いた。
三人は封鎖区域から離れ、王宮の外壁沿いに設けられた臨時の待機所へ向かった。
そこで、現場責任者から簡単な説明を受けた。
黒衣の人物が使用した魔術は、現在知られている一般的な属性魔法とは異なるらしい。
炎や氷のように、特定の現象を直接引き起こすものではなかった。
魔術師たちの報告によれば、青白い線が走った場所では、地面の位置関係そのものが一瞬だけ変化したように見えたという。
ただし、空間が移動したのか、視覚が乱されたのか、あるいは古代の装置が反応したのかは分からない。
「相手の術式を解析することはできそうですか?」
ヴィオレッタが尋ねた。
「難しいだろうな」
責任者は首を横に振った。
「術式の痕跡は残っているが、現代の魔術理論に当てはまらない部分が多い。しかも、魔術師たちが記録を取ろうとした途端、線の一部が消えたそうだ」
「消えた?」
「正確には、線が薄れ、形を保てなくなったらしい。誰かが意図的に消したのか、時間の経過で失われたのかも分からない」
ノアが腕を組んだ。
「相手は、自分の魔術についても、痕跡を残したくないということか」
「そう考えることはできる。ただし、断定はできない」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
痕跡が消えること自体も、重要な観察結果だ。
しかし、そこから相手の目的まで決めつけることはできない。
彼女は手帳を取り出し、現場で確認できた事実を整理し始めた。
黒衣の人物は、王宮北西区画へ侵入した。
古代の装置に似た模様を持つ術式を展開した。
ヴィオレッタの名前を知っていた。
そして、彼女の記憶を目覚めさせるなと警告した。
ここまでは確かなことだ。
一方で、相手が装置を完全に制御していたかどうかは不明だった。
彼女を守ろうとしていたのか、利用しようとしていたのかも分からない。
「……やっぱり、何も分からないわね」
思わず呟くと、ノアが横から手帳を覗き込んだ。
「何も分からないことが分かった。調査としては前進だ」
「慰めのつもり?」
「事実だ」
「あなたの事実は、どうしてこうも人を慰めないのかしら」
「慰めを求めていたのか?」
「今の質問で、求める気が失せたわ」
エミリアが小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、彼女の表情から不安が和らいだ。
そのとき、待機所の入口で兵士が声を上げた。
「現場から追加の報告です!」
責任者が振り返る。
「どうした?」
「侵入者が消えた地点で、金属片が発見されました。魔術師の方々が調査したところ、北方の観測地点で見つかったものと類似する特徴があるそうです」
ヴィオレッタの目が細くなった。
北方の観測地点。
エーベルハルト家の温室。
王都の地下構造。
そして、今回の侵入者。
それぞれの現場で、枝分かれした線や小さな穴を持つ金属片が見つかっている。
偶然の可能性は、まだ否定できない。
だが、共通する形状がある以上、比較する必要はあった。
「現物は、どこに保管されていますか?」
「現在、王宮管理局の調査班が回収し、封印容器に保管しています。閲覧には責任者の許可が必要です」
「許可を申請します」
ヴィオレッタは即座に答えた。
「これまでに発見された金属片との比較を行いたいのです。形状や加工痕が一致するか確認できれば、複数の現場を結びつける手がかりになるかもしれません」
責任者は彼女の申し出を聞き、少し考えた。
「分かった。比較調査に限り、立ち会いのもとで確認を認めよう。ただし、封印容器を開けることはできない」
「承知しました」
しばらくして、三人は調査室へ案内された。
机の上には、小さな封印容器が置かれていた。
中にある金属片は、黒ずんだ銀色をしていた。枝分かれした線の先には、小さな穴が開いている。
ヴィオレッタは、過去に見つかった金属片の記録を取り出した。
温室で発見されたもの。
北方の観測地点で回収されたもの。
倉庫の侵入者が持っていたもの。
現場の図面を並べ、形状を比較していく。
すると、奇妙な違いが見つかった。
どの金属片も、枝分かれした線の形状は似ている。
しかし、小さな穴の位置が微妙に異なっていた。
「同じものではない……?」
エミリアが呟いた。
「少なくとも、完全に同じ形状ではないわね」
ヴィオレッタは答えた。
「ただし、同じ設計に基づいて作られた可能性はある。加工の違いなのか、用途の違いなのか、それとも別の理由があるのかは分からない」
ノアは図面を見比べた。
「穴の位置を基準に並べると、線の向きが少しずつ変わっているな」
「ええ。まるで、同じ図形の異なる部分を切り取ったようにも見える」
ヴィオレッタは、三枚の図面を横に並べた。
それぞれの線を、想像上でつなげてみる。
枝分かれした線。
小さな穴。
円形の印。
すると、三つの図形は、ひとつの大きな図形の一部であるかのように見えた。
「……待って」
彼女は手帳を取り出した。
王宮地下の石材に刻まれていた模様を、記憶を頼りに描いた図がある。
三つの円を結ぶ線。
その先に伸びる四角形。
ヴィオレッタは金属片の図面を、その周囲に並べた。
完全には一致しない。
それでも、いくつかの線の角度は似ていた。
「金属片は、単なる鍵ではないのかもしれないわ」
「どういうことだ?」
ノアが尋ねた。
「もし、それぞれが大きな図形の一部なら、装置の状態を示すもの、あるいは特定の場所を識別するためのものかもしれない」
「つまり、扉を開ける道具とは限らないわけか」
「そう。これまで、私たちは金属片を鍵のように考えていた。でも、その前提自体を見直す必要があるわね」
エミリアが目を輝かせた。
「それなら、金属片を持っていた人たちは、扉を開けるためではなく、何かを確認するために使っていた可能性もあるんですね」
「ええ。ただし、それも仮説よ」
ヴィオレッタは図面に注記を加えた。
「似ていることと、同じ目的で使われたことは別だから」
そのとき、調査室の扉が開いた。
入ってきたのは、王宮直属の魔術師だった。
「失礼します。ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン嬢は、いらっしゃいますか?」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「私ですが」
「現場責任者からの伝言です。黒衣の侵入者について、追加の証言が得られました」
「どのような?」
魔術師は周囲を確認し、声を落とした。
「侵入者が姿を消す直前、別の人物が現場の外に立っていたそうです」
ノアが眉をひそめた。
「別の人物?」
「はい。黒い外套ではなく、灰色のローブを着た人物です。顔は確認できませんでしたが、侵入者が消えたあと、しばらく地下構造を見つめていたとのことです」
「その人物は、どこへ?」
「分かりません。兵士が確認に向かったときには、すでに姿がありませんでした」
ヴィオレッタは、ゆっくりと息を吐いた。
黒衣の人物だけではない。
灰色のローブを着た人物も、同じ現場にいた。
彼らは協力関係にあるのだろうか。
それとも、互いを監視していたのか。
「その人物が何かをしたという証拠はありますか?」
「ありません。目撃されたのは、現場を見ていたという事実だけです」
「分かりました。証言の時刻と位置を記録しておいてください。黒衣の人物との関係は、現時点では不明として扱います」
魔術師は頷き、部屋を出ていった。
エミリアが不安そうに言った。
「関係者が、ほかにもいるんでしょうか……」
「その可能性はあるわ。でも、人数が増えたからといって、全員が同じ目的を持っているとは限らない」
ノアが静かに続けた。
「敵同士が同じ場所を調べていることもある。少なくとも、今は誰が誰の味方なのか判断できない」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
彼女の名前を知る黒衣の人物。
地下構造を観察していた灰色のローブの人物。
そして、異なる形状を持つ複数の金属片。
情報は増えている。
しかし、謎はむしろ深くなっていた。
「今日はここまでにしましょう」
ヴィオレッタが言った。
「これ以上調べても、同じ資料を何度も見比べるだけになりそうだわ。現場の証言を整理してから、次の調査方針を決めましょう」
ノアは意外そうに彼女を見た。
「本当に切り上げるのか?」
「ええ。何か不満でも?」
「いや。ようやく常識的な判断をするようになったと思ってな」
「あなたの常識は、私の行動を評価するために存在しているの?」
「そういうわけではない」
「では、次からは黙って評価してちょうだい」
「それは難しい注文だな」
エミリアが笑った。
三人は調査室を出た。
王宮の廊下を歩きながら、ヴィオレッタは窓の外に目を向けた。
北西区画では、兵士たちが交代で警戒に当たっている。
地下構造は閉じたままだ。
しかし、あの黒衣の人物は、再び現れるかもしれない。
そして、彼女の記憶について知っている人物は、一人だけとは限らない。
ヴィオレッタは手帳を取り出しかけ、思いとどまった。
今は、新しい記述を探すよりも、すでに分かっていることを整理するべきだ。
それでも、胸の奥には、あの人物の声が残っていた。
『お前の記憶を、これ以上目覚めさせるな』
なぜ、そこまで恐れるのか。
記憶が目覚めたとき、何が起きるというのか。
彼女はまだ、その答えを知らない。
だが、答えに近づくほど、周囲の人間が彼女を遠ざけようとしているように感じられた。
その感覚が正しいのかどうかも、まだ分からなかった。




