黒衣の魔術師たち
王宮北西区画で地下構造が再び反応してから、半日が過ぎていた。
露出した石材は厚い覆いで保護され、周囲には王宮直属の魔術師と護衛兵が配置されている。現場責任者は追加調査を禁じ、地下へ通じる可能性のある場所をすべて封鎖するよう命じていた。
それでも、ヴィオレッタの不安は消えなかった。
『記憶を持つ者を、ここへ通すな』
『第七の記録が目覚めるとき、記憶の持ち主は選別される』
地下に刻まれていた二つの文章。
そして、手帳に残された、自分が書いたのかどうかも分からない警告。
それらが偶然に結びついているとは思えなかった。
しかし、だからといって、すべてが同じ目的を持つとも限らない。
「考え込んでいるところ悪いが、そろそろ顔を上げたらどうだ?」
隣からノアの声がした。
ヴィオレッタは、王宮管理局から借り受けた古い配置図を机に置いた。
「顔を上げたところで、問題が解決するわけではないでしょう?」
「少なくとも、紙に穴が開く心配はなくなる」
「この程度で穴が開くなら、王立記録院の予算を見直すべきね」
「君は本当に、どこへ行っても予算の心配をするな」
「資料がなくなるよりは、よほど健全な心配だと思うわ」
エミリアが苦笑した。
「でも、ヴィオレッタ様。少し休憩しませんか? 朝からずっと地図とにらめっこしています」
「そうね。少しだけ休みましょう」
ヴィオレッタが椅子から立ち上がった、そのときだった。
廊下の向こうで、激しい足音が響いた。
「緊急報告です!」
王宮管理局の職員が部屋へ飛び込んできた。
「北西区画の封鎖区域に、侵入者が現れました!」
ノアの表情が変わった。
「侵入者?」
「はい。警備兵が確認したところ、黒い外套をまとった複数の人物が、封鎖線を越えて地下構造へ接近したそうです」
ヴィオレッタは立ち上がった。
「人数は?」
「確認できたのは五人です。ただし、魔術による妨害が発生し、正確な数は分かっていません」
五人。
魔術による妨害。
彼女の脳裏に、倉庫の壁の向こうへ消えた黒衣の人物がよみがえった。
「現場へ案内してください」
「お待ちください。現場は危険です!」
「承知しています。無断で封鎖区域へ入るつもりはありません。外から状況を確認するだけです」
「……責任者の許可が必要です」
「では、許可を取ってください。今すぐに」
ヴィオレッタの声には、いつもの軽い調子がなかった。
職員は一瞬たじろぎ、すぐに部屋を飛び出した。
ノアが彼女の横に並んだ。
「黒衣の人物と、これまでの侵入者が同じ連中だと考えているのか?」
「まだ断定できないわ。ただ、確認する価値はある」
「なら、先に言っておく。相手が古代の装置を動かせるなら、こちらの知識だけで対処できるとは限らない」
「分かっているわ」
「本当に?」
「……あなた、今日は私を信用するつもりがないのね」
「信用しているからこそ、危険なときに止める必要があるんだ」
ヴィオレッタは反論しかけて、口を閉じた。
彼の言うことは正しかった。
自分が謎を追うことと、仲間を危険にさらすことは別だ。
「分かったわ。現場責任者の指示に従う。勝手な行動はしない」
「その言葉を覚えておこう」
「ええ。あなたも、勝手に私を止めて英雄気取りにならないことね」
「努力する」
エミリアが慌てて二人の間に入った。
「お願いですから、今はお二人とも約束を守ってください!」
やがて現場責任者から許可が下り、三人は護衛兵とともに北西区画へ向かった。
現場は緊張に包まれていた。
封鎖区域の入口には兵士が集まり、魔術師たちが防御結界を展開している。地面には淡い青白い光が残り、露出した石材の周囲で、時折小さな火花が散っていた。
「侵入者はどこへ?」
ヴィオレッタが尋ねた。
「地下構造の近くまで進みましたが、結界を展開した直後に姿を消しました」
現場責任者が答えた。
「姿を消した?」
「転移魔法のような反応がありました。ただし、通常の転移魔法とは異なります。空間そのものが一瞬、折り畳まれたように見えたと報告されています」
ノアが眉を寄せた。
「そんな魔法が、現在の魔術体系に存在するのか?」
「少なくとも、一般的な転移術ではありません」
魔術師の一人が答えた。
「正確には、転移が起きたと断定することもできません。視界が乱れたあと、侵入者が消えていた。それが確認できた事実です」
ヴィオレッタは頷いた。
「そのとおりです。原因と観察結果を混同しないようにしましょう」
彼女は現場の様子を見回した。
兵士たちに目立った負傷はない。
だが、封鎖線の内側に置かれた金属製の測定器が、すべて同じ方向へ傾いていた。
「これは?」
「侵入者が現れた直後から、計測器が異常な値を示しています。磁気の影響か、魔力の干渉かは不明です」
ヴィオレッタは測定器の位置を確認した。
どれも、地下構造の中央へ向かって傾いている。
「侵入者は、地下の装置に何かをしたのかしら」
「可能性はあります。ただし、直接触れたところは目撃されていません」
そのとき、封鎖区域の奥で声が響いた。
「動くな!」
兵士の叫び。
続いて、金属がぶつかり合う音がした。
護衛兵たちが一斉に振り返る。
地下構造の近くに、黒衣の人物が立っていた。
その手には、銀色の金属片が握られている。
枝分かれした線と、小さな穴。
倉庫で見つかったものとよく似た形状だった。
「そこまでだ!」
護衛兵が剣を抜き、魔術師たちが詠唱を始める。
黒衣の人物は、彼らを見ても動じなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げた。
フードの奥に見えたのは、年齢も性別も分からない、影のような顔だった。
「……やはり、ここまで来たか」
その声を聞いた瞬間、ヴィオレッタの身体が強張った。
倉庫の壁の向こうで聞いた声と、よく似ていた。
「あなたは誰?」
彼女が問いかける。
黒衣の人物は、わずかに首を傾けた。
「お前が知るべき名前ではない」
「なら、どうして私たちの調査を妨害するの?」
「妨害?」
人物は短く笑った。
「違う。お前たちは、まだ何も理解していない」
「理解していないから調べているのよ」
「調べることそのものが、危険なのだ」
「それを決めるのは、あなたではないわ」
黒衣の人物は黙った。
その瞬間、別の場所から青白い光が走った。
一人の魔術師が結界を強化しようとしたが、術式が完成する前に光が弾けた。
「術式が消えた!?」
魔術師が叫ぶ。
結界が崩れ、封鎖区域の空気が震えた。
黒衣の人物の周囲に、複数の魔法陣が浮かび上がる。
炎でも氷でもない。
青白い幾何学模様が、空中に重なり合っていた。
ヴィオレッタは息を呑んだ。
それは、王宮地下の床に刻まれていた模様と同じ系統に見えた。
だが、規模が違う。
一つの魔法陣が消えるたび、別の魔法陣がその位置を補い、周囲の空間そのものを歪ませていく。
「全員、後退しろ!」
現場責任者が叫んだ。
護衛兵たちが下がる。
しかし、一人の兵士が間に合わなかった。
黒衣の人物が指を動かす。
兵士の足元に青い線が走り、石畳が持ち上がった。
兵士は転倒しかけたが、ノアが駆け寄って腕をつかみ、封鎖線の外へ引きずり出した。
「走れ!」
兵士が逃げ出す。
その直後、石畳が砕けた。
ヴィオレッタはエミリアの腕を引き、倒れた石材から遠ざけた。
「怪我は?」
「ありません!」
エミリアは震えながらも答えた。
「よかった。絶対に私から離れないで」
「はい!」
黒衣の人物は、追撃してこなかった。
代わりに、地下構造へ視線を向けた。
「第七の記録が反応している……」
その呟きは、ヴィオレッタにも聞こえた。
「第七の記録?」
彼女が問い返す。
黒衣の人物は、ゆっくりと彼女を振り向いた。
「お前は、まだ何も知らない」
そして、フードの奥から、はっきりと告げた。
「ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン。お前の記憶を、これ以上目覚めさせるな」
ヴィオレッタの心臓が止まりそうになった。
名前を知っている。
それだけではない。
彼女の記憶について、何かを知っている。
「どうして、私の名前を……?」
黒衣の人物は答えなかった。
空中に浮かんでいた魔法陣が、一斉に回転を始めた。
青白い光が収束し、人物の足元に円形の紋様が広がる。
「待ちなさい!」
ヴィオレッタが叫ぶ。
「あなたは何を知っているの? 私の記憶とは何なの? 第七の記録は、何を意味しているの?」
黒衣の人物は、一瞬だけ動きを止めた。
そして、最後にこう言った。
「知りたければ、次に扉が開く前に逃げろ」
光が弾けた。
強風が封鎖区域を吹き抜け、兵士たちが腕で顔を覆う。
数秒後、風が止んだときには、黒衣の人物は消えていた。
残されていたのは、石畳に刻まれた青白い線と、焼け焦げたような金属片だけだった。
現場責任者がすぐに封鎖を強化し、魔術師たちが周囲の安全確認を始めた。
ヴィオレッタは動けなかった。
黒衣の人物は、自分の名前を知っていた。
そして、記憶を目覚めさせるなと言った。
まるで、彼女が何かを思い出すことを恐れているかのように。
「ヴィオレッタ」
ノアが静かに声をかけた。
「聞こえているか?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「ええ……大丈夫よ」
だが、その声にはいつもの落ち着きがなかった。
エミリアが彼女の手を握った。
「一人で考え込まないでくださいね。私たちも一緒に調べますから」
ヴィオレッタは、彼女の顔を見た。
そして、ノアの顔を見た。
二人とも、まだ何も知らない。
自分の記憶が何を意味するのかも。
第七の記録が何なのかも。
黒衣の人物が、なぜ自分の名前を知っているのかも。
それでも、二人はここにいる。
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
理由は分からない。
ただ、今の光景を、どこかで失ったことがあるような感覚がした。
彼女は目を閉じた。
暗闇の向こうに、見覚えのない光景が浮かぶ。
崩れた石の床。
青白い魔法陣。
倒れた誰かの手。
そして、遠くで響く声。
『今度こそ、間に合わなかった』
ヴィオレッタは目を開いた。
目の前には、ノアとエミリアがいる。
二人とも無事だった。
それなのに、なぜあんな光景が浮かんだのか。
彼女は、震える指を握りしめた。
黒衣の人物が言った言葉が、頭の中で繰り返される。
『お前の記憶を、これ以上目覚めさせるな』
その警告は、彼女を守るためのものなのか。
それとも、彼女が真実へたどり着くことを阻むためのものなのか。
まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
黒衣の人物たちは、彼女の存在を知っている。
そして、ヴィオレッタが記憶を取り戻すことを、恐れているようだった。




