記憶を持つ者を拒む扉
王宮の地下で発見された通路は、厳重な封鎖措置のもとに置かれていた。
石畳の陥没箇所は木製の柵で囲まれ、周囲には護衛兵が配置されている。王宮管理局は、地盤の安全性が確認されるまで、付近への立ち入りを禁じると発表した。
だが、ヴィオレッタにとって、問題はそこではなかった。
『記憶を持つ者を、ここへ通すな』
あの言葉が、頭から離れない。
記憶を持つ者。
人間なら誰もが持っているものを、わざわざ警告に記す理由は何なのか。
そして、地下のさらに奥に残されていたという『第七の記録』とは何なのか。
彼女は王宮管理局から提供された記録の写しを、机の上に並べた。
「……第七、ね」
「数字に意味があるのか、それとも単なる分類番号なのか。そこから考える必要があるな」
向かいに座るノアが答えた。
「七つの施設、七つの記録、七つの段階。考えられるものはいくらでもあるわ」
「だが、現時点ではどれも推測だ」
「ええ。だから、まずは確認できる情報を探すの」
エミリアは二人の間に置かれた資料を覗き込んだ。
「王宮の地下で見つかった文字は、専門家の方々にも読めなかったんですよね?」
「全文はね。最後の一行だけ、古い言語に詳しい研究者が部分的に解読できたそうよ」
「それが『第七の記録が目覚めるとき、記憶の持ち主は選別される』という文章ですか?」
「そう。ただし、解釈が正しいかどうかは確定していないわ」
ヴィオレッタは、研究者の報告書を指で押さえた。
古い文字の中には、現在では意味が変わっている語もあるという。とくに「選別」に相当する語は、文脈によって「区別」「分類」「選択」とも訳せるらしい。
つまり、誰かを排除するという意味なのか、記憶を分類するという意味なのか、それさえも確定していない。
「少なくとも、記憶に関係する施設だった可能性は高そうですね」
エミリアが言った。
「ええ。でも、記憶を扱うことと、記憶を持つ人間を選別することは別の話よ」
ヴィオレッタは椅子から立ち上がった。
「王宮管理局に、もう一つ確認したいことがあるわ。地下構造の記録だけでなく、過去に行われた人員の選定や立ち入り制限に関する資料も調べたい」
ノアが顔を上げた。
「人員の選定?」
「地下構造を管理していた人々がいたのなら、誰を立ち入らせ、誰を立ち入らせなかったのか、その基準があった可能性があるでしょう」
「なるほど。施設の構造ではなく、施設を管理した人間の記録を追うわけか」
「そういうこと」
エミリアが小さく手を挙げた。
「では、私たちも王宮へ行くんですか?」
「ええ。ただし、今日は地下へ近づかないわ」
「本当ですね?」
「本当よ」
ノアが横から付け加えた。
「念のため、私がその言葉を記録しておこう」
「あなた、いつか本当に私の監督官になるつもり?」
「その仕事に給金が出るなら、考えてもいい」
「残念ね。給金の代わりに、面倒な書類を渡してあげるわ」
「辞退する」
エミリアが笑った。
その笑い声を聞きながら、ヴィオレッタは資料をまとめた。
ほんの少しでも、いつもの調子を取り戻せるのはありがたい。
これから何が起きるのか分からない以上、三人が冷静でいられる時間は大切だった。
王宮管理局に到着すると、担当官は昨日の記録を確認し、追加の閲覧を認めてくれた。
ただし、地下構造に関する資料の多くは、すでに所在が分からなくなっているという。
「旧王宮建設調査室の記録は、複数の部署へ分割して移管されました。現存するものもありますが、移管時の分類が統一されていなかったため、関連資料をすべて確認するには時間がかかります」
「その中に、立ち入りを許可された人物の一覧はありますか?」
ヴィオレッタが尋ねた。
担当官は考え込んだ。
「通常の施設管理記録にはありません。ただし、特別な調査を行った際の許可記録が、別に保管されていた可能性はあります」
「その記録の名称は分かりますか?」
「古い文書では、『特別保全区域入退記録』という表題が使われていたようです」
ノアが反応した。
「保全区域……。倉庫の土地台帳にあった名称と似ているな」
「ええ。もし同じ管理体系に属していたなら、何か見つかるかもしれない」
担当官は保管目録を調べ、該当する資料番号を探した。
しばらくして、彼は一つの番号を指し示した。
「こちらです。ただし、資料の所在欄には、現在の保管場所が記載されていません」
「また所在不明ですか」
エミリアが思わず呟いた。
担当官は申し訳なさそうに頷いた。
「記録上は、旧王宮地下保全室へ移管されています」
三人の表情が変わった。
「旧王宮地下保全室?」
ヴィオレッタが聞き返す。
「はい。ですが、その施設は現在の王宮の組織図には存在しません。名称から考えると、地下構造の管理に関係していた可能性はありますが、詳細は不明です」
ノアは目を細めた。
「組織図に存在しない施設が、地下構造の記録を保管していた……」
「しかも、その保管記録が見つからない」
ヴィオレッタは静かに続けた。
「ただの資料整理の問題だと決めつけるには、気になる点が多すぎるわね」
彼女は資料番号を写し取った。
現時点では、誰かが意図的に記録を隠したとは断定できない。
組織の再編や資料の分散、分類の変更によって、所在が分からなくなることはあり得る。
だが、今回のように、地下構造の記録ばかりが別の管理体系へ移されているのは気になる。
「その旧保全室が、どこにあったのかは分かりますか?」
「正確な場所は不明です。ただ、古い王宮配置図には、現在の北西区画に近い場所に、小さな建物が記されています」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
北西区画。
昨日、地下空間が露出した場所だ。
「その建物の用途は?」
「『保全管理施設』とだけ記されています。建物は数十年前に撤去されたことになっていますが、地下部分については記載がありません」
ノアが低く息を吐いた。
「地上の建物だけ撤去して、地下を残した可能性があるわけか」
「その可能性はある。ただし、地図上の位置が一致しているかどうか、正確に照合する必要があるわね」
ヴィオレッタは配置図の写しを受け取り、現在の王宮地図と重ねた。
旧保全室の位置は、昨日の陥没地点と完全には一致しなかった。
数十歩ほど離れている。
しかし、地下構造が広がっているなら、両者がつながっていても不思議ではない。
「……もう一つ、確認したいことがあります」
ヴィオレッタは担当官へ向き直った。
「旧保全室への入退記録に、管理者や調査員の名前は残っていますか?」
「その資料自体が見つかっていないため、今のところ確認できません。ただし、移管目録には、別の資料番号が併記されています」
担当官は記録を示した。
そこには、古い分類番号の横に、短い注記があった。
『個人記録とは照合しないこと』
ヴィオレッタの手が止まった。
「個人記録とは、具体的に何を指すのでしょう?」
「分かりません。注記の意味を説明する資料も残されていないようです」
ノアは、記録を見つめたまま黙っていた。
やがて、彼が口を開いた。
「これまでの資料には、地下構造を調べないこと、入口を管理図に記載しないこと、そして個人記録と照合しないことが書かれている」
「ええ」
「それぞれ別の目的で設けられた規則なのか。それとも、一つの方針に基づいていたのか」
ヴィオレッタは答えなかった。
個人記録。
その言葉は、どうしても気になった。
彼女の記憶には、説明できない断片がある。
自分が経験したとは思えない出来事。
見覚えのない筆跡。
そして、何度も繰り返される、年齢も場所も曖昧な光景。
だが、そうした個人的な体験と、古い管理記録を結びつける証拠はない。
今ここで結論を出すことはできなかった。
「……まずは、旧保全室の位置を確かめましょう」
彼女は言った。
「地上の記録と、実際に露出した地下構造を照合する。そこから先は、その結果を見て判断するわ」
担当官は、現場責任者への連絡を約束した。
三人は閲覧した資料を返却し、王宮管理局を後にした。
外へ出ると、王宮の北西区画には、さらに多くの兵士が配置されていた。
地盤調査は中断されたままで、露出した石材の周囲には厚い柵が設置されている。
ヴィオレッタは遠くから、その場所を見つめた。
すると、石材の上に立っていた技術官が、突然しゃがみ込んだ。
彼は地面に手をかざし、何かを確かめている。
直後、技術官が顔を上げた。
「責任者を呼んでくれ! この石材、さっきと模様が違う!」
周囲が騒然となった。
護衛兵たちが集まり、現場責任者が駆け寄る。
ヴィオレッタたちも、許可された位置まで近づいた。
露出した石材の中央には、昨日と同じ円形の模様が刻まれていた。
しかし、その周囲に、新しい線が一本増えていた。
線は円から伸び、石材の端で途切れている。
その先には、三つの小さな点が並んでいた。
ヴィオレッタは息を止めた。
「……昨日は、なかったのね?」
「ありませんでした」
技術官が答えた。
「少なくとも、私が記録した図面にはありません。石材の表面が変化したのか、それとも、土の下に隠れていた部分が露出したのかは分かりません」
ノアは線の方向を確認した。
「この延長線上には、旧保全室があったとされる位置がある」
「つまり、地下構造の一部が、そちらへ伸びている可能性があるわね」
ヴィオレッタは手帳を取り出した。
新しい線を、慎重に描き写す。
その瞬間、石材の中央で小さな音がした。
カチリ。
青白い光が、円形の模様を一周する。
現場責任者が叫んだ。
「全員、退避しろ!」
兵士たちが調査班を引き離す。
ヴィオレッタも後退しようとしたが、光の動きに目を奪われていた。
円の中央に、小さな文字が浮かび上がる。
古い言語だった。
しかし、その一部だけは、昨日見た文字と似ていた。
『第七の記録』
ヴィオレッタの心臓が跳ねた。
光はすぐに消えた。
石材には何の変化も残っていない。
だが、彼女は確かに見た。
第七の記録。
それは、単なる古い文書の分類番号ではないのかもしれない。
地下構造そのものが、その名前に反応しているように見えた。
ノアが彼女の隣で低く呟いた。
「……どうやら、こちらが調べるのを待ってくれるつもりはないらしい」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
そのとき、懐の奥で、もう一冊の古いノートがかすかに震えた。
彼女は取り出さなかった。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
王宮の地下に眠っているものは、完全に停止しているわけではない。
そして、彼女たちがその存在を知ったこと自体が、何らかの変化を引き起こしている可能性があった。




