王宮の地下で目覚めるもの
三度目の音が消えた瞬間、地面が大きく揺れた。
「全員、退避! 石材から離れろ!」
現場責任者の怒号が響く。
調査班の技術官たちは道具を放り出し、護衛兵に誘導されて後退した。石畳の亀裂から砂埃が噴き上がり、露出していた灰色の石材がゆっくりと沈み始める。
ヴィオレッタも、ノアとエミリアに腕を引かれながら封鎖線の外へ退いた。
直後、石材の周囲が陥没した。
轟音。
石片が跳ね、地面に深い穴が開く。
その底に見えたのは、土でも岩盤でもなかった。
精巧に組み合わされた石の床だった。
「人工構造物……!」
技術官の一人が息を呑む。
穴の底から青白い光が漏れていた。光は床に刻まれた幾何学模様を伝い、円形の紋様へと集まっている。
その中心には、細長い溝があった。
まるで、何かを差し込むために造られたかのように。
ヴィオレッタは懐の金属片を思い出した。
枝分かれした線。
小さな穴。
壁の向こうへ消えた人物が持っていたものと同じ形状。
「……あれと関係があるのかしら」
「今は試さないでくれよ」
ノアが、彼女の視線だけで考えを察したように言った。
「まだ何もしていないわ」
「君は何かをする前から、実行したときの顔をしている」
「どんな顔よ、それは」
「危険な好奇心を抑えきれない顔だ」
「失礼ね。私は好奇心を抑えることくらいできるわ」
「昨日の倉庫でも、同じことを言っていたな」
エミリアが二人の間に入った。
「今は本当に、口論している場合ではありません!」
「そうね」
ヴィオレッタは素直に頷いた。
「ノアへの反論は、あとで考えるわ」
「反論すること自体は諦めないんだな」
「もちろんよ」
現場責任者が近づいてきた。
「君たちは、先ほどの記録に詳しい人物だったな?」
「はい。旧王宮施設の地盤補修記録を調べていました」
ヴィオレッタは、記録の写しを見せた。
「この場所には、過去に地下空隙が存在したと記されています。また、入口の位置を管理図に記載しないよう指示されていました」
責任者の表情が変わった。
「それは初耳だ。こちらの調査資料には、そのような記載はなかった」
「現在の地上設備の配置を変更するよう指示した記録もあります。地下構造の存在を認識していた人々がいたことは、間違いないと思います」
「……分かった。写しを預からせてもらえるか?」
「閲覧と照合が終われば、提出できます。ただし、原本ではありませんので、出典と記録番号も併せてお渡しします」
「それで構わない」
責任者は部下に指示を出し、現場の封鎖範囲を広げた。
王宮の警備兵も増員され、付近の通路はすべて閉鎖された。
ヴィオレッタは、穴の底をもう一度見た。
青白い光は弱まっていたが、消えてはいない。
そして、床に刻まれた線は、穴の縁からさらに奥へと伸びていた。
「地下に、どれくらいの空間が広がっているのでしょうか……」
エミリアが呟いた。
「現時点では分からないわ。穴の大きさだけで、地下構造全体の規模を推定することもできない」
「でも、王宮の下にあるんですよね」
「ええ。だからこそ、慎重に調べる必要があるの」
ノアは、露出した床の周囲を観察していた。
「気になることがある」
「何?」
「この石材は、崩落で偶然露出したように見える。だが、模様の配置は不規則な崩れ方をしていない。少なくとも、あの円形の部分は、地盤の変化によって壊れたというより、何かが動いた跡に見える」
ヴィオレッタは彼の言葉を受け、穴の縁を確認した。
石材の端には、古い破断面がある。
しかし、その内側には、比較的新しい擦過痕が残っていた。
「外側が崩れたのではなく、内側の構造が動いた可能性があるということね」
「そうだ。もちろん、断定はできないが」
「動いた理由も分からない……」
エミリアが不安そうに言った。
そのとき、穴の底で再び光が走った。
今度は床の模様だけではなかった。
石壁の一部が、淡い青色に浮かび上がったのだ。
そこには、三つの円が描かれていた。
円と円をつなぐ線。
さらに、その線の先には、小さな四角形がある。
ヴィオレッタの視線が釘づけになった。
三つの円。
枝分かれする線。
そして、四角形。
昨夜、手帳に現れた地図と似ていた。
「ヴィオレッタ?」
ノアが呼んだ。
彼女は返事をせず、石壁の模様を目で追った。
四角形の位置は、王宮の外壁に近い区画を示しているように見える。
だが、地図と同じだと決めつけることはできない。
記号が似ているだけかもしれない。
それでも、彼女は手帳を取り出した。
昨日の地図を開き、石壁の模様と見比べる。
線の方向。
円の配置。
四角形の位置。
完全には一致しない。
むしろ、重要な部分が異なっていた。
手帳の地図では、線の終点に四角形がある。
石壁の模様では、四角形から別の線が伸びている。
まるで、地図が示していた場所は終点ではなく、次の経路の始まりだったかのように。
「……地図は、ここで終わっていないのね」
ヴィオレッタが呟いた。
「どういうことだ?」
ノアが尋ねる。
彼女は手帳を閉じた。
「まだ仮説よ。でも、この構造は単独の施設ではなく、複数の場所をつなぐ仕組みなのかもしれない」
「倉庫、北門、そして王宮地下か」
「ええ。ただし、それらがどうつながっているのかは、まだ分からないわ」
ノアは慎重に頷いた。
「その仮説を確かめるには、各地点の記録を照合する必要があるな」
「そうね。今は無理に地下へ入るべきではないわ」
エミリアが、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった……。今日はもう、誰も穴に落ちないで済みそうですね」
その直後、穴の底から石の擦れる音が響いた。
三人は同時に口を閉じた。
床の中央にあった溝が、わずかに広がっている。
そこから冷たい風が吹き上がった。
現場責任者が叫ぶ。
「全員、さらに後退しろ!」
護衛兵たちが調査班を押し戻す。
ヴィオレッタたちも距離を取った。
次の瞬間、穴の底で何かが回転した。
金属のような音が、地下に反響する。
そして、床の一部が横へ滑った。
露出した空間の奥に、暗い通路が現れた。
通路の両側には、規則正しく並んだ石柱が見える。
その先は暗闇に沈んでいた。
「……通路だ」
ノアが低く呟いた。
ヴィオレッタは、目を凝らした。
暗闇の奥で、何かが動いたように見えた。
人影。
一瞬だけ、黒い外套の裾が揺れた気がした。
「誰かいるの?」
彼女の声が、穴の底へ落ちていく。
返事はなかった。
ただ、通路の奥で小さな光が点滅した。
一度。
二度。
そして、三度目。
ヴィオレッタの手帳が、懐の中で微かに震えた。
彼女は取り出さなかった。
今、何が起きているのかを確かめるには、あまりにも危険だった。
やがて、通路の床から青白い光が消え始めた。
滑っていた石材が元の位置へ戻り、暗い通路は再び閉ざされていく。
完全に閉じる直前、ヴィオレッタは通路の奥にある壁を見た。
そこには、古い文字が刻まれていた。
すべてを読むことはできない。
だが、最後の一行だけは、なぜかはっきりと見えた。
『記憶を持つ者を、ここへ通すな』
ヴィオレッタの全身から血の気が引いた。
誰が刻んだのか。
何を意味しているのか。
そして、なぜ自分は、その言葉を見た瞬間に、胸を締めつけられるような恐怖を感じたのか。
答えはなかった。
通路は閉じた。
石畳の亀裂も、それ以上広がることはなかった。
現場責任者は調査を中断し、王宮管理局への報告を命じた。地下へ進むことは認められず、追加の専門家が到着するまで現状を維持することになった。
ヴィオレッタも、その判断に異論はなかった。
危険だからではない。
いや、危険であることは間違いない。
だが、それ以上に気になることがあった。
『記憶を持つ者を、ここへ通すな』
記憶を持つこと自体が、何かの条件になっているのだろうか。
そんなはずはない。
人間は誰でも記憶を持っている。
それなのに、あの言葉は、まるで特定の誰かを指しているようだった。
ヴィオレッタは手帳を取り出し、記憶が曖昧になる前に、見た文字と状況を記録した。
最後に、ひとつだけ書き添える。
『この警告が私個人を指しているという証拠はない。恐怖や既視感を、事実と混同しないこと』
書き終えた彼女の背後で、ノアが静かに声をかけた。
「ヴィオレッタ。さっき、何か思い出したのか?」
彼女はしばらく黙っていた。
「……いいえ。何も思い出していないわ」
嘘ではない。
あの瞬間、彼女が感じたのは記憶ではなく、理由の分からない恐怖だった。
ノアは彼女を見つめたあと、静かに頷いた。
「分かった。今は、それでいい」
エミリアも何も聞かなかった。
三人は王宮の敷地を離れ、調査の続きに備えて資料を整理することにした。
だが、ヴィオレッタは知らなかった。
地下通路が閉じたあと、そのさらに奥で、古い装置の一部が再び動き始めていたことを。
そして、暗闇の中で、誰かが彼女の名前を口にしていたことを。
「……見つけたか」
低い声が響く。
「ならば、もう時間がない」
青白い光が一瞬だけ灯り、壁に刻まれた文字を照らした。
その下には、古い言語で、もう一つの文が記されていた。
『第七の記録が目覚めるとき、記憶の持ち主は選別される』
光が消えた。
地下は再び静寂に包まれた。




